(続きです)
始めに戻って、一つのカルトで終わるか、全人類に益を与える運動となるかの分岐点はどこにあるかということですが、一つのポイントは、この「血統」という問題をどのように扱うかという点にあると思います。この「血統」という内容は、統一運動の内部では、個人から世界に至るすべての問題を解決する最も重要なポイントとして理解されていますが、この内容について、狭い集団の中でしか理解できないような示し方しかできないのであれば、この運動はカルトで終わるしかないかもしれません。しかし逆に、その内容とその価値を、どんな人にでも理解できるような普遍的な方法で示すことができ、そして、その具体的な実りを、どんな人でも見ることができるような形で示すことができるならば、この運動が、全人類に益を与える運動となることも可能であると思います。
そして、たとえ今までのいきさつがどうであれ、統一運動に関わった人々の共通の課題、つまり現在所属している機関や信じている内容、人間関係等のしがらみなどを越えた共通の課題があるとすれば、それは、この運動のよい種を守り、今の時代において全人類に益を与える運動とするために各自の立場から最善を尽くすということではないかと思います。人生に有終の美を飾るためにも、そのような道を模索する必要があると思います。
そこで一つ無視できない点は、時代が変わったということを謙虚に受け止めるべきではないかということです。いろいろな難しい状況の中で、この運動が世界的レベルの運動としての基盤を持つようになるためには、その途上においては、無理とも思われるような目標を掲げて、それに向かって「絶対信仰」で決死的な努力をしていくような時期も必要であったかもしれません。しかし、そのような時期を越えて、全人類に益となる具体的な実りが出て来なければならない時代に入ったならば、今後の行くべき方向や姿勢、方針などに対し、再点検や立て直しが当然必要になると思います。
「統一運動」には「負の遺産」とも呼べるものがたくさんあると思います。それは「統一運動」の発祥地である韓国の持つ「負の遺産」とも相当関わっているかもしれません。李王朝の伝統や朱子学の影響などもいろいろな人が指摘しています。そういうものを今検討し、今後何を守り、何を捨てるべきかを明らかにする必要があるのではないでしょうか。私なりに気が付く悪いものを挙げてみます。
*歪んだ選民意識(自分は常に正しく、自分に反する者は間違い)と、それに基づく優越感、差別意識、それを裏返した劣等感、自虐意識
*権威を笠に着て人を見下し、人として扱わない、尊敬心がない
*人の話を聞かない(自分は「正しい」から聞く必要がない)
*レッテル貼りとステレオタイプ(自分の好みにより箱に入れる)固定の概念をつくり固執する
*嘘をつくことと、嘘つき行為の正当化
*嘘でもうまく宣伝(マスコミ利用も含む)して本当にしてしまう
*嘘により自分に都合の悪い人は社会的に葬る
*閉鎖社会を作ってコントロールしようとする
*恐怖による支配(罪意識をも利用)
*お金の力によるコントロール
まだまだいろいろあるでしょうが、このような体質を守り続けるならば、カルトの道を行くしかないでしょう。最近話題の松濤本部前の示威行動にしても、やっている本人は「自分は絶対に正しい」したがって、「自分の行動は正しい」ということが中心となっていて、それが社会的にどういう影響を与えるのかとか、人類にとってどういう意味と価値があるのか、といったことはあまり検討されていないように思われます。
つまり、「腐敗した本部」に対して行う自分の行動それ自体が、実際自分もその本体から受け継いだ悪い文化(上に挙げたようなもの)をそのまま表現しているように見えるのですが、それを公然と社会に向けて宣伝しているような結果となっています。ですから、社会から見れば同じ穴の貉か、あるいは、例えて言えば、井戸の中の青い蛙が紫の蛙を笑っているようにしか映らないのではないかということです。もしもそれが「実り」であるならば、誰もその「種」に関心を持とうなどと思いもしないでしょう。
かつて同じ釜の飯を食った人々が同じ穴の貉になっている姿を見るのは非常につらいですが、ともかくそのような「負の遺産」をすべて処分して、意味のある遺産を実らせていく道をあきらめずに追求したいと思います。