続き-血統による救いの価値と負の遺産の克服 | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

先日も書きましたが、この「血統」は目に見えるものではないので、「血統」による救いの価値というものが世の中の一般の人に理解できる道があるとすれば、その血統の実りを通してでないと難しいと思われます。普通「食口」と言われる人々は、それなりの実りを見て「食口」という道を選択したと思いますが、歩んでいく中で、神の血統の実りとは思われないものを目にするようになり、その結果として、血統による救いの価値自体を疑うようになった人々も多かったのではないかと思います。

 

しかし中には悪なる実りそのものは疑ったとしても、「血統による救い」自体に対してはまだ希望を捨てていない方も多いと思います。今こそそのような方々は目を開いて、その実りがどこかに現れていないかを真剣に模索すべきだと思います。

 

それと同時にこの「血統による救い」というものが、本当にどのような価値があるものなのかを、目に見えないものなりに冷静に検討してみることも必要だと思います。そもそも話の出発点は、人類の不幸の原因がどこにあるかというところで、本来は創造主である善なる神の血統に生まれて育つはずであった人間が、誤って偽りの血統(サタンの血統)に生まれるようになってしまったところにある(要点は「堕落論」参照)という理解です。ゆえに救いの道は、偽りの血統を清算して神の血統に生まれ変わることにより開けるということになります。

 

その神の血統をもたらす方がメシヤであり、その神の血統を持った家庭として登場したのが「真の家庭」であり、そこに「祝福」を通して連結したものが「祝福家庭」となります。

 

ただし、実りはどこから現れるかと言えば、メシヤという方が「人間の責任分担」を果たすことによって現れ、真の家庭の家族の一人一人が「人間の責任分担」を果たすことによって現れ、「祝福家庭」の一人一人が「人間の責任分担」を果たすことによって現れるわけです。逆を言えば、「責任分担」を果たさなければ、何の実りも現れないということであり、下手をすれば悪い実りが現れてしまうこともあるということです。

 

ですから結局は、それぞれの人間が「人間の責任分担」を果たすことがポイントであり、その「責任分担」という内容を一言でいえばそれは「真の愛の実践の生活をする」ということになると思います。

 

ゆえに「血統による救い」をちょっと言い換えれば、何らかの形で「神の血統」に連結するようになった人が、真の愛の実践により「人間の責任分担」を果たしていけば、その人は本来神様が願われた素晴らしい個人となり、素晴らしい家庭を築き、素晴らしい社会の形成に貢献することができるような道が開かれたこと、そして、そのようにして万民に益を与えることができるような時代が来た、ということになると思います。

 

ですから、たとえどのような宗派の人であっても、そのようにして真の愛の実践に徹していく時に、そのような実りを実らせることができるということになりますから、非常に希望の時代になったと言うこともできます。しかし、そのような理想を現実のものにできない理由がいろいろあるわけで、前記事に挙げたいろいろな「負の遺産」もそうした理由になっています。列挙したもの一つ一つを見てみれば、すべて「真の愛の実践」とは相反する内容になっていますが、いったいなぜこのような「真の愛の実践」に反するものが幅を利かせてきたのか、という問題があります。

 

(続く)

 

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