さて、「神の血統」という問題ですが、まず、「神の血統」に「メシヤ」という使命を担って生まれた文先生という方は、一般的な見方で見れば、普通の家の普通の子供として生まれたわけですが、成長していく中で、なんらかのきっかけで自分の血統的アイデンティティーを自覚するようになり、誰かから教えられたり命令されたからではなく、あくまでも自分の意志により真理を求め、実践し、周囲の多くの困難や誘惑を克服しながら「真の愛」の道を追求された方である、というのが私なりの理解でした。それで昔は、その子女として「神の血統」に生まれてくるという人ならば、たとえどのような環境の中にあっても、同じようにいつかは自分の血統的アイデンティティーを自覚し、自分の意志で真理を追求し、多くの困難や誘惑があったとしてもそれを克服しながら「真の愛」を追求する道を歩んでいかれるのだろう、と漠然と考えていました。
しかし、現実は決してそんな単純なものではなく、「神の血統」に生まれるということは、もちろんそのような立派な人間になる可能性もあるとしても、一方ではどこかで崩れる可能性も十分にあるわけです。これは文先生とて、どこかで崩れる可能性はいくらでもあった(と私は思いますが)のと同じです。しかし、崩れずに(もちろん「完璧」という意味ではなく、いわゆる「七転八起」は世の常ですが)克服していった場合には、その人を通して神様がやり遂げたいことが、いわば奇跡的に(客観的現実的状況から見てという意味ですが)成就していくものであり、その成就の過程と結果を見ることで、そこに働いておられる神様(あるいは、ある一貫性を持った不思議な力と意思、または方向性のようなもの)を見る、というのが、いわば文先生を見てきた多くの食口たちの経験ではなかったかと思います。
自分もそれを実際に自分の目で直接見たわけではありませんからあくまでも私見でしかありませんが、例えばその実例は、天からの召命を受けてからの真理追求の生活、特に日本における学生時代の生活や、北韓の興南監獄におけるいわゆる2年8か月の獄中生活、米国のダンベリー刑務所での獄中生活、共産主義との闘いと克服の段階(ゴルバチョフ氏や金日成主席らとの会見とそれに関連する事例も含んで)等々です。私も含めて多くの食口の方は、これらの話の中に、いわゆる神話のように誇張されている可能性のある内容を極力除いたとしても、一貫して神様を愛した一人の人の姿と、その人を通して働かれる神様を見てきたのではないでしょうか。
それがさらに、その過程で語られた「み言葉」の持つ力と、それを自分も実践した時に受ける恩恵や体験により日常的に裏付けられていったと思います。つまり、たとえば文先生を通して働いておられる神様を理解し、その同じ神様の働きの一部を自分も実生活で共有するようになるわけです。
そこで、「血統」についての私の考えは、血統というものはあくまで目に見えないものなので、我々凡人がそれを識別する方法があるとすれば、どうしてもそれが何らかの結果として現れた姿を通してしか認知することはできないだろうということです。もちろん「祝福を受けた瞬間に火が降りてきて古い自分が焼き尽くされ新しい自分に生まれ変わった」などの「霊的体験」のようなものを含む個人的な独特の認知の体験は人それぞれあるかもしれませんが、世の中の全ての人々が認知するようになる道があるとすれば、おそらく、それは血統の然るべき「実り」的なものを通してということになると思います。
ですから、「神の血統」の中に生まれたという人がいるとすれば、なんらかの形でその人がそれを自覚し、いろいろな紆余曲折はあったとしても、自ら「真の愛」を実践する人生を歩むことにより、すべての人が(もちろん一度にというわけにはいかないでしょうが)そこに神様が働いておられる姿を認知できるような「実り(結果)」が現れていく時に、それが「神の血統」の人類にとって意味のある証しとなるだろうということです。
逆を言えば、たとえ「神の血統」の中に生まれたという人がいたとしても、何らかの理由でその人がそれを自覚できず、「真の愛」を実践する人生を歩むことができず、そこに「実り」が現れないとすれば、いくら「神の血統」と叫んでみたところで、実質的な意味がないものになってしまうでしょう。(絵に描いた餅)
私は、文先生という方が、個人的な内的外的闘いの末に、「真の父母」という立場に到達し、そこから「神の血統」が始まったということを信じています。その神の血統の中に生まれてこられた文先生の子女の方々は、そういう意味で特別な方々ですが、それぞれが一人の人間として、自分のアイデンティティーを自覚し、真の愛の実践を通して実りを結ぶという結果をもたらすためには、各自の自由意思による「責任分担」を果たすという過程が必要なわけです。ですからそこには当然、その人が真の愛を実践できず、別の実りを結んでしまう可能性はいくらでもあるわけです。
(続く)