カルトで終わるか有益な運動となるかの分岐点 | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

いわゆる「同じ釜の飯を食った」皆様に聞いてみたいのですが。

この「統一運動」として始まった運動が、一つの矮小なカルト(その集団内の人々だけに通じる特殊な教義と実践の体系を持つが、最終的にはその内容をそのまま全人類が信じ、受け入れることを夢想)として存続することをよしとするならば話は別ですが、この運動が、当初の意図の通り、全人類に益を与える運動となることを本当に願うならば、自分が今まで信じてきた内容、または今信じている内容(またはその信じ方)を深刻に再吟味、再検討すべき時が来ているのではないでしょうか。

何らかの縁でこの運動に関わってきた人々の多くは、多かれ少なかれ、自分の個人的問題だけでなく、世界の抱える問題に心を痛め、それらを解決できる道がここにあるという希望を感じて心がスパークしたという経験を持っておられるのではないかと思います。そして、その後の人生でどのような展開があったとしても、私はそのようなスパークした自分の心というものは貴重だったと言えると思います。

運動との関わり方や関わった時期等により多くの個人差はあると思いますし、体験した恩恵や裏切られた心の傷も様々に異なるとは思いますが、今2017年年頭というこの特殊な時点で一つ提案があります。現在の自分の所属している組織や、支持している人物、思想などをいったん横においてみます。そして、ちょっと深呼吸でもして、あのスパークした心をもとに、できるだけ冷静に、また客観的にこの運動の現状と今の世界を見てみるというのはどうでしょうか。

特に21世紀に入り、相次いで起こる天変地異や紛争、事件をはじめとして、世界各地で多くの問題が次から次へと噴出してきています。人類の幸福を願いながら親として導いている神様がおられるならばどうでしょうか。もしもこの地上に神様の血統に生まれ、成長する中で真の愛を体得するようになり、全世界の人々を幸せにしたいという神様の意識と同レベルで真の愛の実践に専心する人(人々)がいたならば、当然その人を応援しながら、その人と共に、神様としての立場から許される可能な限りの援助をして事を進めたいのではないかと思います。

もしもそういう人が存在しないならば、こんなことを考えても仕方ありませんが、そういう人がいるなら希望であり、そういう人を手本としてその希望を実現していく道があるならば、そういう道を行きたいというのが、そもそも素直な私たちの気持ちだったのではないでしょうか。

人間は自分をだまし続けても幸せにはなれません。良心が「おかしい」と囁いてくることは正直に認めて対処すべきだと思います。たとえ今まで当たり前のように信じてきた「教え」や従ってきた「伝統」だとしても、「何かがおかしいのでは」と思った時から正直に検討を開始すべきだと思います。

今、誰が原罪があるとかないとかいう論争も出てきています。これは、一般の社会の人々にとっては何の関心もないことかもしれませんが、この「原罪」または「血統」という問題は私たちにとっては非常に重要なポイントであり、その問題のゆえに多くの考え方の相違や争いも起こってきていると思います。この「血統」に対する理解という問題を、いつかは自分の中できれいに整理しなければならないと思っていましたが、今がその時という気もします。

私は個人的には、文先生が「真の家庭」を立てることにより神様の血統を出発されたと信じています。ただ、「神様の血統」についての信じ方は昔と多少変わりました。それに関して思うところを少し書いてみたいと思います。文頭に述べた「カルトで終わるか、有益な運動となるか」という点にも関わってくると思います。

(続く)
 
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