人間を絶対とした場合の問題点(前回の続き) | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
正午定着、影のない時代と言われているが...

人間を絶対視すると何が問題か。一つはこういうことがあると思います。

 

人間は表面に見える言行の背後に、それぞれ事情というものがあります。私にも(人知れぬ)事情があるけれども、他の人にもそれぞれの(人知れぬ)事情があるものです。ところが、ある人が、「私の事情は重要だが、人の事情は重要でない」と考え始めると必ず問題が起こります。これは宗教紛争を例に挙げるまでもなく、夫婦や親子の関係を含め、日常的な些細な人間同士の誤解や衝突のもとになっていると思います。

 

ある人物を絶対とすると、必ず次のような文化ができてくると思います。絶対である人の事情は重要だが、「絶対でない人」の事情は必ずしもそうではない、つまり、状況によっては考慮される価値もなく、無視してもよいものとされる。そういう中で、「絶対である人」の権威を何らかの形で受けたと見なされる人と、受けていないと見なされる人の関係においても似たような基準が適用されるようになり、結局は、口では「同じ神の息子娘」と謳いながらも、人を差別し、ないがしろにする文化が醸成される。それは本来の「神様の下の一家族」という理想からは程遠いものとなってしまいます。

 

もしも神様を絶対とする人ならば、たとえ自分の事情が重要だとしても、神様の息子であるその人の事情も重要だとして尊重しようとするのではないでしょうか。この点が、この運動の中で密かに成長してきた「毒麦」性であり、公然たる「偽善」であると私は思います。そしてそういう文化のゆえに、多くの善なる人々が心に傷を受けながらこの道を離れるという選択をしたのではなかったのかとも思うのです。

 

ですので、誰が正しくて誰は間違いという論議の前に、何が正しく何が間違っていたのかという問題をはっきりさせない限りは、再び「いつか来た道」となるのが人間の常ではないでしょうか。

 

もう一つの問題点は、いわば「絶対」依存症とでも呼べるかもしれませんが、ある人物を絶対とすると、その人物の言動すべてを特別のものとして全面的に受け入れ、その言動をどう受け止めるべきかという自分の考えや、常識、良識、判断などの自分の「責任分担」の入る余地を塞ぐ、つまりある意味ではその人物に全責任を負わせて、自分はその絶対的権威の前に卑屈(謙虚ではなく)におもねる。

 

次に、そのようにして絶対的権威に依存することにより自分の「安心」を得た後は、今度はその権威を笠に着て、人の前にその権威を行使し始める、つまり、権威に一致している自分を誇り、傲慢になって人を見下し、裁き、その人々の事情を考慮することもない。そして、そういう境地になると、良心から見て何が正しく間違いかということよりも、「絶対的権威と一致している」自分の充足感を保ち、それを脅かすものを攻撃し破壊することが最重要課題となる。

 

そのような文化はどこにでも例が見つかるかもしれませんが、このブログ村(私も含めて)での論争の中にも綿々と流れていると見ることもできるでしょう。たとえば、「この(絶対なる)お父様のみ言葉の神髄を悟っている者は自分だけだ」という結論に到達すれば、その悟りを得ていない人々に対してはすべて「無知な人、愚かな人、失敗者、背教者、裏切り者」などのレッテルを貼って裁きモードに入る。そして、そのようなレッテル貼りは、その人についての事実に対する客観的な認識能力を制限することになります。

 

ただ、そのような境地に入れば、何が客観的に正しく、間違いかということよりも、如何にして自分の充足感を守り、それを脅かすものを攻撃するかということが中心となっているでしょうから、普通の場合は本人の力だけではどうすることもできないことが多いかもしれません。

 

ともかく、私も含め、期間の差はあれ、一時そのような文化の中で生活をした人は、たとえその共同体から体は出たとしても、そのような文化の悪い面の影響圏からなかなか抜け出せないということかもしれません。ですので、結局はまず自分を省みて反省し、悔い改めをするところから出発するというのが、陳腐なようですが重要な結論ということになるでしょうか。

 

ただし、いわゆる食口という人たちは、程度の差はあれ、「他の多くの人々が信じない中で信じた人々」であろうと思うので、そういう意味では神様もこの人々を忘れることができず、今でも期待をかけておられるだろうと私は信じます。

 

最近のテレビドラマのメッセージにもありました。「希望を捨てない者には道が開ける」


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