焼き払うべき「毒麦」は何か? | Kotenjiのブログ

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後天時代の本当の意味と価値を理解し、ふさわしい生き方をしたい。
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私の考えでは、絶対なものがあるとすれば、それは神様だろうということであり、その神様以外のものを絶対としようとすれば、必ずどこかで無理が生じてくるものだと思います。しかし、そうやって無理が生じてきた時というのが重要であり、そこで謙虚に(良心の言うとおり)無理なものは無理と認めて、無理でない道を求めるならば、宇宙の道理にかなう道へと修正されるものではないかと思います。

 

そこのところを、あるものが絶対という箱を固定することにより、謙虚な修正の余地を無くしているところが、この運動において私の信ずる一つの「毒麦」的要素になっていると思います。

 

神様のみ絶対でいいのではないでしょうか。人間はどんな素晴らしい人であっても、あくまでも人間であり、たとえ「メシヤ」と呼ばれるような特別な使命があったとしても人間であることには変わりなく、人間である以上は肉体的限界や、精神的限界を含めて、人間としての様々な制約を受けるのが当然だと思いますし、それは自然科学も「創造原理」も認めるところだと思います。

 

ゆえに文先生という方は私にとっては、まずは、その語られたみ言葉と人格と心情により、私を親であり真の愛である神様に触れるようにしてくださった恩人です。次には、私という人間が、(「祝福」を通して)神の血統にある自分を発見し、その価値を理解し実感できるようになる道を開いてくださった方、または、その背後で膨大な犠牲を払ってくださった方です。そして、そのような愛を、私にだけでなくすべての人類に注いでくださった方、つまり、いわば「真の父」としてやるべきことをされた方であり、何よりも「神の血統」を起こすという点においては、誰にもできない偉業を成し遂げた方です。

 

その点においては、あの龍馬の「世の中の人は何とでも言わば言え。我がなすことは我のみぞ知る」という言葉が当てはまっていると思います。

 

しかし、だからと言って文先生は一人の人間であり、神様ではありません。ゆえに「絶対」ではありません。

 

そしてそれは文先生の子女の方々にも当てはまります。私の判断基準から見てたしかに素晴らしく立派なことを世の中に対してしておられる子女の方はおられます。そしてその方も文先生がそうであるように、私にとっては特別な方です。しかし、その方も神様ではありません。ゆえに「絶対」ではありません。いや、そもそも絶対である必要がありません。

 

この「絶対でないものを絶対とする」という毒麦の種が密かに成長し、文化の一部となっていったのだと思いますが、それはこの運動が世界的な規模となり世界に現実的に貢献すべき段階になれば自ずと淘汰されるべきであったと思います。そしてすべての関係した人々が良心の声に従うべき時はその時であったと思います。しかし現実は、そのような文化が独り歩きし、人をコントロールするようになり、人もそれを利用するようになり、結局は行きつくところまで来てしまったのではないでしょうか。

 

この「毒麦性」を克服できるものでなければ、人間が何と言って騒いだところで結局は歴史の淘汰を避けることはできないと思います。

 

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