「お前のあの味が忘れられん。」
今ではこの文字。。何度かいた事かしら。。
暴露療法って本当にあるんだわ。。なんて思っちゃいますね。
勿論この言葉、父親が娘に発するのですからキモチワルイの極みです。もし、この言葉を聞いたのが電話ではなく、本人が目の前に居たら、そして側に刃物でもあれば、私は父を刺していたかもしれない。怨憎会苦を乗り越えて介護を初めてすぐの事でしたから。
この電話のやりとり。。傍で旦那さんも聞いていたんですよ。滔々旦那さんの会社を閉じねばならない事態。。それを知った父が2000万円で一晩私を買おうとしたんです。それで、半年介護には行かなかった。
彼は彼で疲弊していました。
本来なら悠々自適に老後を迎えられるほど稼いできた人です。
でも、奥様の病院代。。毎月毎月誰の助けも借りず。20万円~30万円ほど。。年間にしたらいくら?ほぼ今では50年近く。。あの頃で40年近く?恐ろしい金額です。それでもゼロから一軒家を構え頑張ってきた人ですが、私も彼もヘトヘトになっちゃいました。あの夜。。闇の5年間の私の所業は置いといてどんな被害だったかを彼に話しました。彼の言う、クリエイティブな仕事を手放した理由も。。
そして
私は生まれて初めて精神科の門を開いたんです。
何十年も忘れていた体に残る「嫌な感触」
私の脳はまだ覚えてたのか。。と呪いたくなりました。
幸い、プラシーボ効果に似てるのかな?初めて見る安定剤の粒を見た瞬間、体の違和感は消えました。
ただ、私の世代の被害者は精神病棟に多くいると聞かされて、驚きました。よく生きてこれましたね。なんて言われちゃって。。。それで駅前クリニックはやめて、専門的な医師を探して麻布のさいとうクリニックや自助グループに繋がっていったのです。
まだこの時、父が受けた若い頃の性被害を知りませんから、
どうして父が狂ってしまったのか?考え抜いた結果、
母の悔しい亡くなり方だと思った。
役者をしていて、もし、父が当時のスターだったらあの手術をそんな人の奥さんに医者は勧めただろうか?
私は当時子供でそんなことは考えなかったけれど、父はきっと考えたと思う。要するに父の仕事の立ち位置から母の命の値踏みをされたも同然です。父は苦しかったと思いますよ。
あの時、看病を最後まで私と父は諦めませんでした。それだけは父から教わった大切な事でした。
それなのに、生きている父を正気を取り戻してほしい父を諦めてしまっていいのだろうか?
認知症は仕方ない。。でも家族問題は別です。岐阜の教授にももう一度会いに行き、東京での今度は私の心を立て直すホメオパシー、シータヒーリングの医師を紹介してもらい、一方で母が当時お世話になっていた内科医が100歳近いのに茨城でまだ医者を続けていることを知り、訪ねて当時の話と私と父の現状から執刀医に手紙を書くかどうかを相談し、鹿児島で名誉教授になり退官後クリニックの院長をしている母の執刀医に手紙を書き、返事を貰い、、あの時止めていた11歳の私の心の時計をもう一度動かし、
父のケアマネからも何度も電話を貰って。。そして旦那さんにも許可をっ貰って父の介護を再開させました。
人生半世紀。国立病院の医師の言葉を借りれば、
「50年医者にもかからず勝手に生きた私の心のケア」
がやっと始まったという事でしょうか。。
今から12年前の話です。
今、何度も書いた冒頭の父が発した言葉。。
父は母に対しても憎しみを抱いていましたが、
あの言葉はきっと、、母に対するものだったのだと今は理解しています。
私はこの後、57歳の時に女性看護師から仕事で勤務中のデイサービスの風呂介助の時、えぐい形の痴漢被害に遭っています。
人生4つ目の性被害です。
でも痴漢被害ですから他の被害に対して軽いものではあるものの全部の被害にフラッシュバックして結構苦しみました。ただ、質の違いと言うか、同性からの被害ですから自分の性指向を壊されかねない恐怖というか?そんなものを考えさせられました。
父は同性からの被害ですからね。。
しかも完全なる重度の被害。。あの戦後のドサクサの中でどれだけ苦しんだのか?
私の想像?妄想?だけれど、
父は母によって男を取り戻したのではないか?そんな風に考えるようになりました。私を所有物化した父はいつも私ではなく私の向こうの母(父にとっての妻)を探していたんでしょう。
だから今は私は父を憎めなくなってしまいました。
岐阜の教授が言った「流す」とはこういう事だったのでしょう。
それに許す許さないは私が決める立場にない。
許されたか許されないかは父の問題。。
これは私の大罪から学んだことです。
私が許されたかどうか?は許されないんだと思う。私はそう思ってそれを心に刻んで生きていますから。。許しを相手に乞う事は傲慢だと今は思っています。そこに隠れた欲。。結局楽になりたいだけだ。。と言う境地に落ちつきました。。