下津城【尾張】 | 第六天魔王の天下統一記

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第六天魔王(織田信長)になったつもりで史跡を中心に巡る小旅行記です( ̄∇ ̄*)ゞ

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以前は主にゲームしてた某SNSでたまに日記書いてました。
私はゲームをしなくなり、友人の日記はゲームの宣伝ばかり。
方向性の違いからアメブロを始めました。
(て、バンド解散みたいにw)

別のアカウントですが始めはプラモの製作記書いてました(^^;

では本題。13日の続きです。

岐阜街道を北上し稲沢市下津(おりづ)へ。

下津も尾張国府があった候補地です。
(松下の方が有力ですが、洪水により下津に移った説もあります)

そんな下津の高戸町の空地に

下津城址碑。
(県道155線沿いの西側)

土塁が残ってるそうなんですが、
石碑の奥がそうなのかな?


下津城は越前守護・斯波義重が応永の乱(周防等6カ国の守護・大内義弘が室町幕府・将軍義満に対する反乱)に幕府方に参戦し功を挙げ(1399年)、
尾張も与えられて築城。
守護所を置いたと言われます(1400年頃)。

義重は後に遠江も与えられ、
同じ頃、下津城の別郭として清洲城も築きます(1405年)。

応仁の乱が起きると(1467年)、
守護代の織田氏も分かれて斯波氏の家督争いに介入。

織田敏宏(本家の伊勢守家)の居た下津城を織田敏定(分家の大和守家)が攻めて焼失。
守護所は清洲に移ります(1478年)。


県道を挟んで東には下津小学校。


小学校の西側一帯が城跡と言われ、
石碑がある所が本丸だったそうです。

東に流れるのは青木川。
直ぐに五条川に合流し、
上流に岩倉、下流に清洲。


尾張の上四郡を伊勢守家、
下四郡を大和守家が分割統治する事で和睦し、
敏宏は岩倉城を築きます(1479年)。
しかし両家の争いは続く。

斯波氏はと言うと越前は守護代の朝倉氏に、
遠江は隣国の駿河守護の今川氏に奪われ、
残った尾張でも織田氏の傀儡化。

その後、大和守家の三奉行の一つの弾正忠家の信長が清洲を奪い(1555年)、
岩倉を落とし尾張を統一(1559年)。

斯波義銀が追放され、尾張守護家は滅亡(1561年)。

清洲は変後も尾張を継いだ信雄、
その後の福島正則等が中心としますが、
家康により名古屋へ遷府(清洲越し)され、今に続きます。


次は信長が美濃(裏切った犬山を含め)を攻める為に築き、落とすまでの(1563~1567年)五年間尾張の中心だった小牧へ(* ̄∇ ̄)ノ

時間が早いのでまだ城下です(^^;
続く。
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