無動寺城【尾張】 | 第六天魔王の天下統一記

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第六天魔王(織田信長)になったつもりで史跡を中心に巡る小旅行記です( ̄∇ ̄*)ゞ

本日二度目の更新、12日の続きです。

西に向かい笠松町無動寺へ。
(この辺りも当時は尾張。関ヶ原の時は美濃になります。ややこしや~( ̄0 ̄;))


1ヶ月だけ無動寺城になった光得寺(^^;


境内の案内板。

織田信秀(信長の父)が美濃を攻めた時に、斎藤道三が光得寺を砦にして土岐頼香(美濃守護・土岐頼芸の弟で道三の娘婿)を大将にしました。

光得寺砦とした方がしっくり来ます(^^;

信秀が夜に砦を包囲し篝火を炊くと、砦方は混乱。
それに乗じて道三の意の者に頼香は暗殺されます。
(さすが蝮…( ̄0 ̄;))

大将を失った残りの諸将も退散。


光得寺南の住宅に囲まれて土岐塚。


土岐頼香のお墓です。

これには信秀を追い返したとありますね…( ̄0 ̄;)

(光得寺の案内を信じて…)

信秀はその後稲葉山(現岐阜)城山麓まで攻めますが奇襲により大敗します。(1544年加納口の戦い)

(ここでの退却の事と混合してるかもですね)

そして砦は元の光得寺に戻ります。



境内の鐘は信長が美濃攻めした時に陣鐘に使ったと言われます。(無理がない?)

しかし信長と縁があるのは事実です。


鐘の案内板。

これによると最初に有ったのは各務原市の長塚宮(現手力雄神社)。
ここで先勝祈願して稲葉山を落としたとあります。(他にも逸話がありますがいずれまた)

そして尾張の高田寺に移り…陣鐘に使ったならこの時借りた?(奪った?( ̄▽ ̄;))

信長の死後に織田家菩提寺の萬松寺へ。

明治になり現在の光得寺に。(そう言えば萬松寺に鐘が無かった)


信長がこの辺りを攻めたのは二度。
一度目は洪水で退却。
多数の溺死者が出ました。
(1566年河野島の戦い。少し上流の各務原市辺りとも。)

そして二度目は翌年、内応者も得て稲葉山を落とします。(1567年稲葉山の戦い。長塚宮に祈願したのはこの時。)


次はその頃築かせた一夜城へ。
あの城?いや、違うんだなこれが( ̄▽ ̄;)

続きます。