言葉はとても便利なもの。
もし、言葉がなかったとしたら、
絶対に、必ず、困ることが確定するぐらい、
とても、とても便利。
だけど、言葉は、
とても不自由だと思う。
言葉は、決して、
万能ではないと、思う。
言葉は制限された、
窮屈なものだとすら、思ってしまう。
私は、幼い頃から、
頭の中で、グルグルと考えをめぐらすのが、
好きな性格で、
その上、繊細で、
ハッキリものを言えないところがある。
気がつくと現実から逃避するかのように、
空想の中に身を置き、
自分の枠の中に、
引きこもりがちな性格だと思う。
そのせいもあって、
頭で、よくよく考えていた内容を、
意を決して、
いざ、言葉に出して話してみたら、
何だか、しっくりこないというか、
こんなことが言いたかったんだっけ?ってなって、
イライラというか、
ガッカリというか、
そんな落胆した気持ちになって、
やっぱり話さなきゃ良かった的なことを、
感じてしまうことが、よくある。
だから、
こういうブログの中で、
一通り、
自分のやりたいように、
自分の頭の中の考えを、
書き切ってしまえるのは、
ちょっと嬉しかったりもする。
ここは、
最初から、最後まで、
自分の言いたいことを、
自分がしたいように、
自分のペースで、
表現できる場に、させてもらっている。
まあ、思うように書けなくて、
上手くまとまらないと、
それはそれで、
ストレスになってしまうのだけれど。
言葉はとても便利だけど、
自分の内側にあるもの、
感情や、感覚や、気持ちや、想いや、
それらを、すべて、
言葉にすることは、
とても難しいと思う。
というか、それは、不可能だと思っている。
言葉を使って、
自分以外の誰かと、やり取りするときは、特に、
意識は自然に、
相手とか、まわりの方に向かう。
「ちゃんと伝わるのか」とか、
「相手はどう思うのか」とか、
「自分はどう思われるのか」とか、
そんなことばかり、
気になってしまう。どうしても。
そうなってしまうと、
自分の表現が、
うまくいったのか、どうかは、
満足できるのか、どうかは、
自分以外の誰かに、
預けてしまうことになる。
そうこうしているうちに、
自分の表現したいことの価値は、
相手に、
「どう受け取られたのか」に、
委ねられてしまう。
言葉は、そもそも、
コミュニケーションのために存在するのだから、
それはそれで、当たり前で、
仕方がないことなのだけど、
本当にそれでいいのかと、
思うことがある。
自分以外の誰かがいてくれて、
想いを伝えたくて、表現した言葉は、
他でもない自分自身が、
その言葉を通して、
自分の内側にある何かを、
確認したかったのかもしれない。
自分では見えない自分の内面を、
自分自身が認識したくて。
想いを伝えたいと感じた、
その相手の存在は、
ただの、「きっかけ」なのかもしれない。
出会いがあることで、
自分の内側の何かが反応し、
自分の行動の起点となり、
自分に何かを見せてくれる。
そんな一連の出来事を通じて、
自分のことをかえりみるための、
表現方法の一つが、
言葉なのかもしれない。
それは、
短歌や、俳句の世界のように、
決まりがあって、
制限されていて、
不自由な枠があるからこそ、
はじめて、
生まれる
空間や、間や、余韻や、奥行きや、広がりがあるように。
自分以外の誰かとの対話の中で、
伝わりきらない、
取り残されたような感覚の中で、
苛立ちや、
併合や、
怖れや、
期待や、
希望や、
絶望を感じて、
それを相手のせいにしながらも、
心の奥の方では、
自分の内側にある何かを、
観ようとしいているのかも、しれない。
表現し続けるからこそ、
諦めきれなったからこそ、
いつか、
必ず、
出会うことのできる、
奇跡みたいな、
一瞬の繋がりがあることを、
信じて、手放せないのかもしれない。
岩佐利彦