自分を生きる。
自分らしく生きる。
それは、
とても素晴らしいことだし、
是非とも、そうしたいし、
きっと、誰もが願っていること、だし。
だったら、
何で、今、
自分を生きていると、言えないのだろう。
いったいどこに、
自分を忘れてきたんだろう。
そもそも、
自分を生きるって、
具体的にどんな感じなのか、
それすら、本当は、
よくわからない。
でも、まあ、
今の、
不満や閉塞感にまみれた自分は、
少なくとも、
自分の求めている自分ではない。
そのことだけは、
よく、わかっているけれど。
すべての自分を、生きる。
自分らしく、
自分を生きるのなら、
自分のすべてを生きることになる、
のかも、しれない。
嬉しいことや、
楽しいことだけでなく、
悲しいことや、
つらいことや、
見たくない自分や、
消してしまいたい過去や、
犯してしまった過ちや、
そんなこんなを、
全部、ひっくるめて、
すべてを受けとめて、
生きていくのが、
自分を生きること。
だとしたら、
実は、かなり、
難しくて、
実は、かなり、
怖いこと、
なのかも、しれない。
だったら、
今の自分のままの方が、
なんか自分らしくない状態の方が、
ある意味、
安全なのかも、しれない。
別に、
偽りの人生を、
生きたいわけではないし、
まわりに嘘をついて、
生きていきたいわけでも、ない。
なのに、
なんだか、
自分という存在自体が、
あいまいで、
自分を生きているという、
実感が、ない。
どこか、
ニセモノのような、
自分じゃない、
仮の何者かを演じているような、
それでいて、
いつでも気を抜くことが許されない、
そんな、生き方。
でも、そのやり方、
気がつくと身についていた、
その生き方には、
そうすることで得られる何かが、ある。
そのやり方で、
むしろ、
そのやり方だからこそ、
手に入れられると、
信じている、
何かが、ある。
だから、やめられない。
やめられるはずが、ない。
もっと言えば、
その生き方しか、
知らない。
だって、そこには、
何らかの成果というか、
収穫というか、
うまみといか、
そんな、
そうすることで、
何かがもらえる(かもしれない)とか、
何かが回避できる(かもしれない)とか、
そんな感じの、
希望というか、
幻想に近い、願望があって、
だからこそ、
それを、どうしても、
やめられないのかも、しれない。
ただ、その、
やり方は、
うまみがあって、
自分にとってオイシイ感じの側面があるかわりに、
リスクというか、
代償も、ついてくる。
自然ではない、
不自然な生き方が生み出す、
歪み。
本来の自分から、
自分の本心から離れてしまった、
なんだか、
自分の真ん中に空洞があるような、
そんな、生き方。
かつての自分が、
本当に欲しかったものを封印して、
そんなものは、
はじめからなかったものと思い込んで、
自分を手放して、
そのかわりに、手に入れた、
そんな、生き方。
自分と繋がっていないわけだから、
当然、
まわりとも、
うまく繋がれない。
無自覚に身につけた、
不自然な生き方は、
まわりとの関係に、
うっすらと、
でも、
確実に存在する、
ミゾを、つくる。
どこか、ニセモノみたいな、
自分から離れてしまった、
そんな生き方だと、
自分自身のことも、
まわりとの関係も、
心の底から、大切には、
できないのかも、しれない。
だから、
あんなことを、
してしまったのかも、しれない。
まるで、
心の奥にしまった、
本心が、
抑えきれず、
漏れ出てしまったかのような、
でも、
本来の、自然な姿ではない、
なのに、
自分はそういう人だと、
もう、そうだとしか思えない自分が、
してしまったこと。
その振る舞いは、
自分の制御を失ったかのように、
まわりを、
大切な人を、
キズつけてしまう。
だって、それは、
仕方がないこと。
だって、自分だって、
そうされてきたのだから。
だって、自分で自分を、
そうしてきたのだから。
だから、
そうせざるを得ない。
大切なはずの、
そばにいてくれる、
身近な人との、
その関係が、
近ければ近いほど、
自分と同じような立場の人とみなされ、
自分と同じようなルールが適用され、
自分がされてきたような目に、
遭わせてしまう。
ある意味、
こっちは、
加害者の側なのに、
なんだか、
その実感というか、
核心みたいなものが、
自分がしたという当事者意識が、
薄い。
それは、
ひょっとすると、
そのことだけに限らず、
生きていること、
それ自体の実感が、
薄い、のかもしれない。
自分を生きているという、
実感が薄いから、
自分を中心とした、
まわりの、すべてに対し、
ありがたみみたいなものを、
感じにくくて、
自分のことも、
まわりのことも、
心から、本当に、
大切には、
できないのかもしれない。
本来あるべきはずの、
正しい道から、
外れてしまったような、
まわりから見て、
「何でそんなことをするんだろう」
って感じの、
その当事者的にも、
心のどこかで、
絶対に、
ヤバいことになってるってことも、
わかっているはずの、
なのに、
それでも、
やってしまう。
その行動は、
なぜ、
そうしてしまったのか。
後悔も、
反省もしている、はずなのに。
その反省や、
謝罪や、
罪悪感ですら、
薄い。
本当に大切にすべきはずの人に、
絶対に守るべき関係に、
あんなことを、
してしまったのは、
わかっているのに、
キズつけてしまったのは、
もう、ずっと前に、
自分の大切なものを、
手放したから、
かも、しれない。
だから、
わがままに、
自己中に、
甘えるように、
身近な、大切な人に、
そうしてしまった。
これまで、ずっと、
自分で自分を説得して、
本心を心の奥に追いやって、
自分を押し殺して、
そうやって生きてきた自分には、
これぐらいする権利ぐらいは、
あってもいい。
そうとしか、もう、思えなかったし、
そうでもしないと、気持ちがおさまらなかった。
抑え込んだものは、
その力が、
強ければ、強いほど、
その怖れが、
強ければ強いほど、
必ず、どこかで、
それこそ、
一番もろいところから、
暴発する。
抑圧されて、
不自然に歪められた状態を、
保ちきれなくなったとき、
思いもかけなかったエネルギーで、
心の奥の本心が、
これまで、
しがみついていた世界を壊そうとして、
もとの、
自然な状態に戻ろうとして、
内側から、強く、
自分を動かす。
そうやって、
はからずも、
噴出してしまった、
そうしてしまった、
その責任を、もし、とりたいのなら、
自分の本当に怖れていた何かを、
そして、
その奥の、
本当に欲しかった何かの、
その存在を、
自分自身が見つめ直して、
認めて、
ちゃんと、告白すること、だと思う。
そうしてしまった、
その行動の、
奥にある、
本当の理由を。
見失っていた、本心を。
自分の一番の痛みを、
さらけ出すかのように。
絶対に避けたかった終わりを回避することを、
あきらめるかのように。
大切なはずの、
その人に、
迷惑をかけたとか、
その人を、
踏み台にしたとか、
そういうことではなく、
大切なはずの、
その人の存在が、
その出会いが、
思い出させてしまった、
本当に望んでいる形ではない状態で、
浮かび上がらせた、
本心。
どこかに忘れてきたはずの、
歪んだ形でしか、
表に出せなかった、
本当の自分。
自分が自分でいることを、
無意識にあきらめられなかった、
ぶつけるように、
歪んだ希望を吐き出してしまった、
その責任を、
ちゃんと、
受けとめたいのなら、
これ以上、もう、
自分を偽りたくないのなら、
この先に、
進みたいのなら、
怖れていた、
目を反らしておきたかった自分の、
その存在を、
認めて、
もとの、本来あるべき姿にまで、
ひも解いて、
戻してあげて、
無防備なまま、
バカみたいに純粋なまま、
大切なはずの、
その人の前に、
差し出すことしか、
できないのかもしれない。
それが、
大切な人に対して、
自分ができる、
もっとも誠実な行動だとしたら。
自分の大切な何かを見つめ直すために、
自分の本心を思い出すために、
その大切な人との出会いが、
あったのだと、したら。
意図せず、
抑え込めず、
そうしてしまった、
その本当の理由。
心の奥にしまって、
見失ってしまった、
本当に欲しかったはずの、何か。
そんな、
絶対に誰にも見せなかったはずの、
ずっと隠していたはずの、
むき出しの自分が、
それこそ、
ありのままで、
差し出した、
本当の気持ちが、
無防備なままの素直な本心が、
どんな結末を迎えるのか、
それは、
だれにも、わからない。
それこそ、
バッドエンドになる、かもしれない。
そもそも、
受け取った相手が、どうするのかは、
もう、手の届かない領域だし。
でも、
だからこそ、
先の世界が見えないからこそ、
もう一度、
あのときの痛みに触れる危険を冒して、
自分のすべてを生きるのと、
これまで通り、
仮面を被って、
安全を装って生きるのと、
どっちがいいのか、
それは、誰にもわからないし、
そのための決断も、また、
当事者本人にしか、
選べない。
ただ、少なくとも、
自分のすべてを生きるのか、どうか、
自分の意思で選択する権利みたいなものは、
得られるかも、しれない。
自分を見失って、
無自覚に、何かに振り回されているよりは、
その葛藤の渦中でこそ、
自分を生きている、その実感を、
ほんの一瞬でも、
得られるかも、しれない。
岩佐利彦