人は、
無自覚に、
心の奥の何かによって、
動かされている。
目に見える形で、
表に現れることになった、
その人の行動の、
その人の生き方の、
その根っこには、
その人が内側に抱えている何かが、ある。
人は、誰でも、
自分が思い込んだ世界の中で、
自分が思い込んだ通りの人生を、
自分が本当は何を求めているのかを、
見失ったまま、
生きている。
人が、それぞれ、
無意識に、
思い込んでいる、
自分という人は、
好かれているに違いないだとか、
嫌われているに違いないだとか、
大切にされる存在だとか、
邪魔者かもしれないだとか、
そんな、
自分自身が、
内側で信じていることが、
外側の現実となって、
現れる。
自分の外側の現実は、自分の内側の投影。
それらの話が、
もし、
真実だとしたら、
自分の内側で、
何を思っているのか。
何を抱えているのか、
何を信じ込んで生きているのかを、
無意識の領域に、
何があるのかを、
自分自身が知る必要がある、はず。
でも、
なのに、なぜか、
無意識に何があるのかは、
なかなか、
目を向けられることは、ない。
自分を内側から動かす、
無意識は、
普通は意識できない。
普段は、どうしても、
意識されることが、ない。
だって、それこそ、
無意識なの、だから。
でも、
無意識は、
自分の意識の中で、
とても大きな領域をしめている。
それこそ、
全体の98%だとか、
それ以上の領域をしめている、らしい。
それだけ、大きくて、
それだけ、重要で、
それだけ、影響力があるのに、
なかなか、意識できない。
だって、それが、
無意識だから。
そんな、
無意識の領域にあるものが、
意識にあがってきて、
認識できるようになったとき、
人は、
それまで無意識だったものを、
「自分の言葉」として、
意識できたことに、なる。
そうやって、
「言語化」されたとき、
無意識の領域にあった何かは、
自分自身が、
意識できる領域にまで浮上し、
認識できるようになったことに、なる。
「言語化」して、
「自分の言葉」にすること。
それこそが、
自分を、
自分の内側を、
知ることに、なる。
だからなのか、
それが理由なのかは、
わからないけど、
自分の内側にあるものを、
自分の無意識の領域を、
観ていくことには、
なんとも言えない抵抗感が、ある。
説明のつかない怖さが、
どうしても、
つきまとってしまう。
自分の内側を表に出すことは、
表に出して、
あきらかにしてしまうことは、
怖い。
ましてや、
他人に知られてしまうことなど、
あってはならないぐらいに、
怖い。
自分の内側にあるものを、
そのまま、言葉にして、
表現してみる。
ただ、それだけなのに、
なんだか、とても、
怖くて、
なんだか、イケナイものに、
触れようとしているような、
そんな、得体の知れない怖さと、
抵抗感がある。
それは、
自分を知りたいと願いながら、
同時に、
自分を知ることを怖れている自分が、
いるから。
なのかも、しれない。
自分と向き合う。
自分の内側を知る。
自分の内側に何があるのかを、あきらかにする。
その怖さを、
紛らわすために、
遠ざけるために、
目を背けておくために、
人は何でも、やってみせる。
そうすることが、
ごく当たり前に、
ごくごく当然なことのように。
いま、自分のいる場所の、
独自の世界観に、
浸りきり、
自分だけの決まりを、
頑なに守り続け、
それが自分らしさだと、
信じて疑わない。
いま、自分がいる世界を、
必死に維持するかのように、
他人のせいにしてみたり、
まわりを悪者にしてみたり、
自分を正当化してみたり、
ときには、
自分自身を最悪な、
どうにもならない存在にでも、
してしまって。
そうやって、
いま、いる、世界を、
イヤだイヤだと言いながら、
同時に、
いま、いる、世界を、
必死に守ろうとも、
してしまって、いる。
言葉にできてしまうと、
自分の内側に何があるのか。
それが、
あきらかになってしまう。
そうなってしまうことは、
実は、
とても怖いこと。
なのかも、しれない。
だから、
無意識にある何かは、
ヘタに気づくことがないように、
心の奥底に、しまい込んで、
見えないように、
隠してしまって、
意識しないように、
遠ざけている。
それこそ、
無意識に。
そこには、
もし、
無自覚に隠していた何かを、
あきらかにしてしまったら、
自分が自分でなくなるような、
自分がいなくなってしまうような、
自分という存在が崩壊してしまうような、
そんな思い込みが、
あるのかも、しれない。
自分の内側をあきらかにしてしまうと、
自分を支えていた何かが壊れて、
自分が自分でいられなくなってしまう。
そんな、怖さ。
でも、
そうやってまで守り通したい、
自分像は、
本当の、本当に、
「ありのまま」の、
それこそ、
素の本当の、
自分なのだろうか。
怖いのは、
そこに大切な何かがあるから。
あきらかにしてしまったら、
大切な何かを守り続けられないと、
思い込んでいるから。
なのかも、しれない。
自分を偽り、
自分を歪めてまでも、
守り、
抱え続けようとした、
何かの存在。
いったい何を守りたかったのかを、
見失ったまま、
でも、
これまで、ずっと続けてきた生き方だけが、
自分の信じ込んだ、
自分の姿として、
自分の思い込んだ、
自分がいる世界観として、
取り残されるようにして、
存在し続けて、いる。
だから、
無自覚につくってきた、
これまでの生き方から、
ずっと、
抜け出せないままで、いる。
無自覚に自分を動かす、
無意識に、
操られるように、
翻弄されながら、
抜け出せないままで、いる。
怖さを抱えたまま、
自分と向き合うのは、
自分を変えるためでもなく、
自分を否定するためでもなく、
自分を知るため。
あきらかにするのは、
犯してしまったと思い込んだ、
間違いなんかではなく、
自分を犠牲にしてまでも、
守ろうとした、
願いの方。
自分は、いったい、
何がしたくて、
これまでの生き方を、
続けてきたのだろうか。
自分は、いったい、
何を求めていたのだろうか。
怖れは、
かつて守れなかった願いを、
また、失ってしまうことの、
その同じ痛みを味わうことの、怖れ。
なのかも、しれない。
だとしたら、
自分の内側の何が、
無自覚に、自分を動かしてしいたのか。
自分の内側にあるものを、
「自分の言葉」で、
「言語化」できたとき、
無意識だったものを、
意識して認識できるようになったとき、
世界は、変わる。
それは、
これまでの生き方の終わりが、
訪れてしまうのではなく、
守りたかった何かが、
壊れるのでもなく、
大切にしたかった願いを、
手放すのでもなく、
ただ、ただ、
「自分が、いままで、何をやっていたのか」
これまでの意味を知ること。
それは、
これまでより、
もっと高く、
もっと広い視点から、
自分を観れるようになること。
なのかも、しれない。
そして、
それは、
これまでより、
ずっと深く、
ずっと確かなものとして、
自分と繋がれるようになること。
なのかも、しれない。
岩佐利彦






