「幕末史」 | Jiro's memorandum

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「幕末史」(半藤一利)

 

 

薩摩、長州というと、外国との距離感が近くて、行動力と知識を備えた人材豊富で、(保守的な幕府に対し)革新的で、だからこそ明治維新の原動力となり得たという肯定的な印象を持っていた。

半藤一利さんは、長岡出身ということも少なからず影響してだと思うが、この「薩長史観」に否定的で、「1868年の暴力革命を誰もが立派そうに明治維新といっている」「明治維新は天皇の尊い意志を推戴(すいたい)して成しとげた大事業であるなどという、そんな薩長に都合のいい一方的なことではまったくない」というスタンス。

とはいえ、そこまで強いバイアスがかかった語りぶりではなく、小説やドラマのような演出や脚色も(おそらく)少なく、時系列で事実が並び、忠実に(時に味わい深く)解説されていくので、幕末を通しで勉強するには、非常にいい本だ。



さて、読み終わった感想として、「反薩長史観」も全然ありだな、と思った。

歴史に限らずだと思うが、物事を異なる方向から見ることで、解釈や感じ方が大きく変わることがあり、理解の深さも広さも、それまでとは次元が違うくらいに深くなり広くなる、ということを体験した感じだ。




以下、備忘



戦前の薩長史観が語るような天皇中心の皇国日本という考え方で国をつくりはじめた、その先頭に立った明治天皇は偉大なる天皇であり、明治維新は天皇の尊い意志を推戴(すいたい)して成しとげた大事業であるなどという、そんな薩長に都合のいい一方的なことではまったくない。ここが幕末・明治にかけての一番大事なところ。



攘夷がきちんとした理論で唱えられたことはほとんどない。ただ熱狂的な空気、情熱が走っていた。どんどん動いていく時代の空気が先導し、熱狂が人を人殺しへと走らせ、結果的にテロによって次の時代を強引につくっていく。テロの恐怖をテコに策士が画策し、良識や理性が沈黙させられてしまう。思想など後からついてくればいいという状態だったのではないか。いつも時代も、これが一番危機的な状況。日本人が戦争から学ぶ一番大切なことは「熱狂的になってはいけない」こと。



慶應元年(1865年)、ペリー来航いらい大いに揉めてきた大騒動が朝廷の許しで決着となり、開国が日本の国策となった。もう攘夷などないし、幕府が勝手なことをしてけしからんということもなくなった。外国と結んだ条約の全面勅許が下り、日本の国策が一致した。あとは皆が開国に向かって国づくりをはじめればいいということになる。本来ならここで倒幕などといって国内戦争なんかせず、同じ方向に向いて動くべきだった。しかし遅すぎた。ここから幕末史のクライマックス、新しい国をつくる方向へ向かっての猛烈な動きがはじまる。


1867年、倒幕の密勅が下る。密勅の署名は公家3人の名前が並んでるだけで天皇が承認した証しはない。岩倉具視の秘書が草稿したものを分担執筆したいわば偽の密勅であり「徳川幕府がとんでもない賊軍で、薩摩と長州は正義の軍であった」などという説は通らない。しかし、暗闇の中で出された密勅を、薩摩も長州も有難くいただき、倒幕が権力奪取のクーデタでもなんでもなく正義の政治行動になっていった。


歴史というのは皮肉というか、どうして時を同じくしてこうなってしまうのか不思議なのだが、片方で裏工作がうまく運び、このままいけば慶喜は朝敵となるところで、ちょうどその人が大政奉還し、これからの政治は天皇陛下にお任せしますとうやうやしく奏上してきた。


戊辰戦争は幕末の“関ヶ原の戦い”。全国の各藩にとっては、どっちへついたらいいかだけが関心事だった(藩の存続だけが気がかり)。

明治が、やみくもに幕府を潰して、さてどんな国づくりをしようとしたか、権力奪取のためのあくなき争闘はつづいていく。

国民の方からみれば、薩摩と長州が徳川家をぶっ倒して天下を取ったに過ぎない、権力を奪ったに過ぎない。口ではいいことを言っておいても自分たちが権力を欲しいばかりに戦争をしてここまで来たに違いないと見えただろう。


『府藩県制史』をみると、県名と県庁所在地が違うのは17県あり、そのうち14県が「朝敵藩」。
新潟は県名と県庁所在地が一致しているが、新潟なんて単なる小さな港、「長岡県」にしたくなかったからと言わざるを得ない。
とにかく、西軍に抵抗した藩はみな差別され、有無を言わさず県名がつけられた(それをやったのが井上馨)。日本の国は、スタートからして賊軍藩が差別されていた。


山県有朋は西南戦争の際、軍の編成、移動、使用など軍令事項の決定に、いちいち有栖川宮熾仁親王と政府の許可を求めなければならず、ホトホト参った。臨機を要するときに不便もはなはだしい。軍隊指揮権(統帥権)の独立の必要性が大いに痛感された。
明治11年(1878年)、山県の献策にもとづいて「参謀本部条例」を制定、参謀本部長は陸軍卿を優越する地位を得た。これが政府から独立した統帥権。山県と桂のコンビの巧妙な計画によって、軍隊指揮権はひとり歩きをはじめた。


 

 

「薩長土肥の浪士は実行すべからざる攘夷論を称え、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を顚覆したけれど、原(もと)これ文華を有せざる蛮族なり」
「明治以後日本人の悪くなるなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りし為なること、今更のように痛歎せらるるなり」
(永井荷風)