「徳川家康 弱者の戦略」★★★☆☆ | Jiro's memorandum

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【経歴】 日本株アナリスト、投資銀行、ネットメディア経営企画、教育事業経営、人材アドバイザー、新聞社経営管理、トライアスリート

「徳川家康 弱者の戦略」(磯田道史)
 
 
家康が信長や秀吉と比較して弱者だったかと言うと、決してそうでもなかっただろうと、読み終わってみて、逆に思う。
身分で言えば、農民出身の秀吉のほうがよっぽど弱者だったし、信長の織田家だって最初から強者だったわけではない。
 
いずれにしろ、信長や秀吉とは違った方向で能力を発揮し、その結果、歴史上類まれな長期政権の礎を築いたのは家康の功績なので、戦略などを検証してみることは十分意義がある。
 
 
家康が天下をとった要因、さらには長期政権を可能にした要因は、複合的で一概に言えないのだが、自分なりに理解した重要ポイントは以下の通り。
 
・地政学的要因
京都から離れていたので戦国時代は相対的に平和だったのでは。しかし、天下取りの情報を得たり絡んだりするうえでは遠すぎない距離。さらに、移転した関東は結果的に日本の中心地としては好条件の地域だった。
 
・棲み分け(共生)
まず(地政学的要因と複合的になるが)信長とは西と東の棲み分けの利害が明確に一致していたので(いろいろと不満はあったが)同盟関係は揺るがなかった。秀吉とも東西で棲み分けの構図だった。公家とは権力的な棲み分けが奏功した。
 
・他者から学ぶ姿勢(かつ学ぶ機会があった)
武田から軍事戦略を積極的に学んだし、信長や秀吉からは良い面だけでなく悪い面(イケイケの拡大路線の弊害)を学んだ。逆に、信長と秀吉という反面教師から学ぶ機会があったからこその長期政権実現ではないだろうか。
 
 
その他、無理をしない、謙虚に耳を傾ける、などもキーワード。結局のところ、一言で言えばやはり「慎重な性格」に行き着くのかな、とは思う。弱者のように見える性格だった、ということ。
 
 
司馬遼太郎氏の言葉を借りれば「かれは不幸なほどに独創性薄くうまれついていた。つねに先人がやった事例を慎重に選択して模倣した。」「覇王の家」より)
 
 
 
以下、備忘
 
 
 
三方を強敵に囲まれた小国は、滅ぼされるか属国になることが多いが、ごくごくまれなケースとして、強敵と繰り返し戦ってサバイバルを続けているうちに「共進化」を起し、化け物のように強くなることがある。家康の三河に起きたのはこのケース。

武田との死闘は家康を天下人にまで押し上げた最大の要因。同盟者・信長の高い要求に応え、強敵と戦う中で、敵の戦術、戦略を学び取り、武田が滅亡すると遺臣を自軍の主力部隊に据えた。

家康は信長や秀吉と比べて保守的と思われがちだが、敵の最強軍団をリクルートして中核に据える大胆な軍事改革人事は家康しかやっていない。外部のものでも本当に優れたものなら躊躇なく取り入れる革新性を併せ持っていた



三河は「日本の陸の潮目」にあたるホットスポット。日本はもともと2つの島から出来上がっており、その継ぎ目(フォッサマグナ)が糸魚川から静岡のあたり。日本史上、このフォッサマグナのあたりで大きな衝突が起こった。文化的にも社会的にも東西の分かれ目となっている。
ex1:邪馬台国と大規模戦争をした狗奴国の拠点は沼津のあたり
ex2:源頼朝は長良川から東を縄張りと考えていた。
ex3:うどん、そばのつゆの色の変わり目



三大国の狭間で生き残り、進化していくカギは①孤立主義を避ける対外感覚(三つのうち最低一つ、できれば二つを味方にして敵に回さない)②外からでも積極的に柔軟に学ぶ姿勢(よいと思ったものは敵からでも学ぶ)。

提携のキモは「棲み分け」(共存共栄)。家康生涯の戦略思想の基本は①競合とはなるべく「棲み分け戦略」をとる②棲み分けが無理と見たときにだけ徹底して戦う。西へ向かわずに東へ向かう戦略をベースとしていた

秀吉は関白になるなど、公家の権益をあからさまに侵犯したが、家康は征夷大将軍にとどまり、ここでも棲み分けに配慮した。

信長は価値観も含め一元的に服従させる権力、秀吉はすべてを飲み込もうとする権力、対して家康は棲み分け路線で、これがもっともサステイナブルだった。



10年以上の人質生活を送っていた家康が19歳で帰国後一気に求心力を持ったのは、三河の人たちが少年時代を知らないので、かえってカリスマ性の獲得にプラスになったからではないか(待ちに待った救世主が現れた!と)。これが、鉄の結束を誇った三河武士団の忠誠のはじまり。

家康は家来や世間との「信用のフィードバック」を大切にした。家臣を信じ利益をはかってあげれば彼らも命がけで働いてくれる。そしてその忠義に応える。このサイクルが三河武士団に出来上がった。家臣との信頼関係こそ、家康を天下人に押し上げた最大の要因のひとつ



家康は信長から多くの術(すべ)を学ぶ。中央(天下)への入り込み方、合理的思考、火縄銃や大砲、南蛮の文化や技術、実力主義の組織運用、など。

一方、「信長疲れ」「秀吉疲れ」の弊害も学ぶ。信長も秀頼も傑出した天才でヴィジョンの現実化に躊躇がないため、家来や領民に負担を強い、どこまでも踏み込んでくる。「あんなふうにやっては長続きしない」と肝に銘じたのではないか。

関東転封の際も、関東に三河のやり方を押し付けるのではなく、北条の制度をどんどん取り入れて、北条の旧臣を家臣に取り立てた。



「強制よりも共生」が徳川流。弱者は他者を吞み込んで大きくなるしかない。



天下を自分一代で終わらせず永続きさせたいがゆえに、1605年に征夷大将軍の地位を子の秀忠にさっさと譲った。将軍職は徳川家の世襲であることを示した。

将軍職を譲った家康は駿府城で大御所として実権をふるう。熱心に取り組んだのが、外交と文化、とりわけ出版事業。

家康ほど多くの国と外交交渉を行った戦国大名はいないのではないか。

弱者が強者になった時こそ、暴力的な強さ以外の価値や仕掛けへの接近が必要になる。教養のある天皇や公家は金のようなもの。鉄の武士はメッキして金の力を借りるのが最強になれる秘訣。弱者・家康がたどり着いた最後の戦略は「文化」の重視。



信長、秀吉は、いつも命がけの日々で、自分の考えでどこまで人を動かせるか、それが日本を超えてどこまで広げられるか、という夢を追った。一方の家康は、家の永続、誰もが棲み分けによって生きていける世の中をつくろうとした。

 
 
 

はかない個人が夢を求めて闘争を繰り返す戦国時代は、家康によって消去されました。家康がかかげた「個人の安心」と「家の永続」こそが、まさに、天下万民の望むところとなっていきました。だからこそ、徳川の世は二百六十年も続いたのでしょう。