「限りある時間の使い方」★★★☆☆ | Jiro's memorandum

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泉治郎の備忘録 読書の感想や備忘録 ※ネタバレ注意
【経歴】 日本株アナリスト、投資銀行、ネットメディア経営企画、教育事業経営、人材アドバイザー、新聞社経営管理、トライアスリート

「限りある時間の使い方」(オリバー・バークマン)

 

 

世の中、IT化で何かと便利にはなったが、仕事が忙しくなくなった、昔よりのんびりできるようになった、自由な時間が増えた、という感覚はない。むしろ、せわしくなった感じすらある。

 

 

時間はコントロールできない、未来は思い通りにならない、できることをやって結果はすべて受け入れる、という本書の考え方に同意。

 

そして、(余暇時間すら、あれをやらなきゃ、と考えることがあったが)自由時間は、純粋にやりたいことをやる、という生き方も、とてもよいと思った。

 

 

本書を読んで、生き方が楽になった気がします。

 

渋滞にはまっても、周りが思うように動いてくれなくても、イライラしない。そんな風になれそうな気がします。

 

 

 

以下、備忘

 

 

 

生産性とは、罠。

 

効率を上げれば上げるほど、ますます忙しくなる。タスクをすばやく片づければ片づけるほど、ますます多くのタスクが積み上がる。

 

完璧に効率化して、人生で本当にやりたいことをやり始める。そんな日は、いつまで待っても、やってこない。

 

 

 

中世の農民は、日が昇れば起きて、日が沈めば眠る。

 

必要なタイミングで牛の乳を絞り、収穫期が来たら作物を収穫する。1か月分の乳を1日で絞りきろうとはしないし、作物が実る時期を待たずに収穫しようとはしない。農民の仕事に終わりはない。次の日になれば乳を絞り、次の収穫期になれば収穫する。すべて完了したという状態はありえないし、ゴールを決めて競争する意味もない。

 

数人以上で一緒に仕事をしようと思うと、わかりやすい時間の測り方が必要になり、時計を発明した。

 

産業革命は時計なしではけっして起こらなかった。工場では数百人の労働者がいっせいに、決められた時間に働かなくてはならない。

 

 

 

時間を「使う」ようになると、「時間をうまく使わなければ」というプレッシャーにさらされる。

 

時間をコントロールしようと思うと、時間のなさにいっそうストレスを感じる。これが「制約のパラドックス」。

ならば、制約に逆らうかわりに、制約を味方につけたらどうか。自分には限界がある、という事実を直視して受け入れれば、人生はもっと生産的で楽しいものになるはず。現実を直視することは、なにより効果的な時間管理術だ。

 

 

 

人生でやりたいことのトップ25をリストアップする。そのうち上位5つに時間を使う。残り20は捨てる。

優先順位が中くらいのタスクは、邪魔になるだけ。いつかやろうと思わず、ばっさり捨てたほうがいい。それらは人生のなかでさほど重要ではなく、それでいて、重要なことから目をそらすくらいには魅力的だから。

 

そこそこ面白い仕事のチャンスや、まあまあ楽しい友人関係。切り捨てるには惜しいように思えるけれど、限られた人生の時間をいちばん食いつぶしている可能性がある。

 

 

 

限られた時間を有効に使おうと思っても、次から次へと気が散る情報が入ってきてはうまくいかない。

 

注意力は「限りある資源」。

 

くだらないものに注意を向けるとき(SNSなど)、まさに人生の一部を削ってそのくだらないものを見ているわけだ。

 

 

 

「未来は決して確実ではない」という事実を受け入れる。

 

過去振り返ってみれば、未来をコントロールしようとする奮闘がいかに無意味であるかに気づく。未来が完璧に思い通りになったことなど、今までに一度もない。

 

人生の重要な出来事には、いつも偶然の力がはたらいている。配偶者と出会ったパーティーに招待されることはなかったかもしれないし、住んでいる場所が違えば子どもの才能を引き出してくれる教師に出会えなかったかもしれない。

 

過去は変えられず、未来はどうなるかわからない。

 

古代から多くの思想家が「今ここにある現在」に注意を向けなさいとアドバイスしている。

 

 

 

「何が起ころうと気にしない」生き方とは、未来が自分の思い通りになることを求めない、物事が期待通りに進むかどうかに一喜一憂しない生き方。

 

未来をコントロールしたいという執着を手放そう。そうすれば不安から解放され、本当に唯一の瞬間を生きられる。今を生きることが可能になる。

 

 

 

何もせずのんびりするのが余暇の目的なのに、休みの日も将来に備えて何かに投資していないと落ち着かない。

 

余暇を有意義に過ごそうとすると、余暇が義務みたいになってくる。余暇すら、やることリストのひとつになってくる。

 

小説を読む、散歩をする、オペラに行く、スキー旅行に出かける。選択肢は限りなく多い。そして、やるべきことをやっていないような気分になる。

 

 

ラテン語で仕事を意味する「negotium」は直訳すると「余暇がない」という意味。余暇を楽しむのが人間本来の姿。古代の人々にとって仕事とは不名誉なものだった。余暇こそが人生の中心であり、仕事はそこに割って入る邪魔者。

 

16世紀の農民は1年に150日しか働いていない。

 

工業化が進むと、工場では数百人が決まった時間に共同作業するので、仕事と余暇は明確に区別される。余暇は仕事のための回復期間に成り下がった。

 

 

 

本当の充実感を得るためには、趣味というのは少し恥ずかしいくらいがよい。社会的に認められた結果を目的としない、それが純粋な趣味。

 

趣味でエルトン・ジョンの曲をピアノで弾くのだが、心から楽しくて夢中になれる。チンパンジーレベルの演奏がけっしてお金やキャリアにつながらないためだ。

 

編集者のカレンは、貯金をはたいてコスタリカの海辺に土地を買ったくらいサーフィンが好き。でもはっきり言って下手くそな部類。サーフィンにのめり込むのは上手くなりたいからではない。彼女は言う「無益なことを追求する自由。何も気にせず、下手くそなことを楽しむ自由。心が洗われますよ」

 

 

 

時間を意味のあることに使うためには——―友人と飲んだり、デートをしたり、子どもを育てたり、仲間とビジネスを立ち上げたり——―他人と協力することが不可欠。共に過ごす人がいなければ、意味がない。それどころか、逆に苦痛に感じられる。昔の人が罪人を島流しにしたのはそのためだ。

 

 

 

「時間をうまく使ったかどうかは、結果の善し悪しで判断される」という考え方がある。しかし、子育て、地域プロジェクト、など多くのプロジェクトが自分の生きているうちに完結しない。

 

「結果を知りようがない」という事実を受け入れたなら、今日できる重要なことは何だろう? 遠い未来の誰かのために世界を少しでも心地よい場所にするために、自分に何ができるだろう?

 

僕たちはみんな、中世の石工のようなもの。たとえ完成形が見られなくても、大聖堂を建てる価値があることに変わりはない。

 

 

 

「Do the next right thing(次にすべきことをしよう)」

 

自分にできる最善のことをする。

 

バックミラーのなかで徐々に形づくられていく人生は、たしかに「自分の時間をうまく使った」といえるものになっているはずだ。

 

時間をうまく使ったといえる唯一の基準は、自分に与えられた時間をしっかりと生き、限られた時間と能力のなかで、やれることをやったかどうかだ。