野球界の不思議
日本の野球界は不思議だ
日本代表の監督の決定権が誰にあるのか不透明で、さらに、球団社長の意見が不思議と影響力が高い
そして中日の社長はわけのわからないことをいう
「日本一になった監督がやればいい」
安易でなにもマネージメントについて勉強していない証拠だろう
通常の年間を通じたリーグを戦うチームと代表のようなトップレベルの選手が寄せ集まるチームではマネージメントの仕方が変わる。
あまり野球界にたいして深く知っているわけではないが、非常に違和感を感じる…
歪んだ野球界
被害者はグラスルーツのプレイヤー達だ
日本代表の監督の決定権が誰にあるのか不透明で、さらに、球団社長の意見が不思議と影響力が高い
そして中日の社長はわけのわからないことをいう
「日本一になった監督がやればいい」
安易でなにもマネージメントについて勉強していない証拠だろう
通常の年間を通じたリーグを戦うチームと代表のようなトップレベルの選手が寄せ集まるチームではマネージメントの仕方が変わる。
あまり野球界にたいして深く知っているわけではないが、非常に違和感を感じる…
歪んだ野球界
被害者はグラスルーツのプレイヤー達だ
時間と夏の
夏の木陰、風がそよぎ
よく冷えたコーラによく見た景色
蝉の泣き声に子供達のはしゃぐ声が重なり合う
ただ、
なにもせず、
そこに座り、
あたりを眺め
深呼吸
ああ、煎れたてのコーヒーの深い香りを楽しむかのように
その、かけがえのない時間を深く吸い込んだ
毎日がせわしなくすぎていき、年をとればしがらみにまみれる
かわらぬ幸福がそこにあれば
夏の木陰
よく冷えたコーラによく見た景色
蝉の泣き声に子供達のはしゃぐ声が重なり合う
ただ、
なにもせず、
そこに座り、
あたりを眺め
深呼吸
ああ、煎れたてのコーヒーの深い香りを楽しむかのように
その、かけがえのない時間を深く吸い込んだ
毎日がせわしなくすぎていき、年をとればしがらみにまみれる
かわらぬ幸福がそこにあれば
夏の木陰
続・日本サッカーがだめなのは少年サッカーがだめだから
スペインが素晴らしいサッカーをしていた!と先日書きましたが、やっぱりあらためて日本のサッカーを考えると少年サッカーに問題があるからだ、という結論に達する。
自分が指導してきた3年間、一応神奈川県内の各チームを見てきたが、やはり「サッカー」をしているチームは一部しかいない。
ただ蹴るだけ
ただ決まった場所に走らせて蹴らせるだけ
そこには判断も技術もなく、今日において真の意味で「サッカー」と呼ぶことは難しい。何十年前、ラグビーとサッカーとが別れてからしばらくしたくらいのレベルのものだ
将棋やチェスなどは歴史とともに、より奥深さが研究され、「将棋」という言葉がさすもの自体がかわっている。
サッカーも同じ
昔の「サッカー」といまの「サッカー」は違う
単に人々の余暇から始まった、スポーツの中のサッカーという種目は、今や玉けりではない。そこには様々な要素が含まれ、あわよくば人生にすら例えられる。
自分で観て、情報を得て、思考し、判断する。11人いる味方の選手(チーム、一つのコミュニティと呼べる)とコミュニケーションをとり、一つの目的に向かって努力していく。
ボールがどこに転がるかわからず、また22人が人である以上、同じ動きをすることは決してない、無限の可能性、無限の状況を生み出すこのスポーツを、パターン化すること自体無意味だ。(セットプレーはまた別)
未来の広がるジュニア年代を指導している人々には一刻も早く、ただ蹴るだけ、ただ走るだけ、のなんだかよくわからない「運動」をさせていることが子供達の未来を潰していることに気が付いてもらいたい。
子供達に判断させるよう指導していくことは、たしかに難しい。かなり知識も専門的で、そして「教育」や「指導」の現場で、もっとも難しいであろう、ほんの少しのニュアンスがなければ子供達に短い時間で伝えて行くことは難しい。
自分も完璧に指導することはできないし、まだまだ未熟です。
だけれど、気づいて欲しい。
ただ蹴らせることだけはしてはいけない
考えさせて欲しい
子供達自身に
周りが過保護ともいえる環境に守られている中で育つ子供達は、自分の足であるかなければいけなくなったときに、つまづいたときに、道を見失ったときに、再びあるきだすことがむずかしい。
幼い時に欠かせない経験であるはずの小さなつまずきを、自らの力で乗り越える前に大人が支えてしまうからだ
無限ともいえる道から自分の道を決めて自分で歩いていくためには、自分で考えて自分で判断し、責任を持って歩んでいくしかないのだ。
日本のサッカーのためにも、
日本の教育のためにも、日本の少年サッカーはかわらなければならない。
そう思う
自分が指導してきた3年間、一応神奈川県内の各チームを見てきたが、やはり「サッカー」をしているチームは一部しかいない。
ただ蹴るだけ
ただ決まった場所に走らせて蹴らせるだけ
そこには判断も技術もなく、今日において真の意味で「サッカー」と呼ぶことは難しい。何十年前、ラグビーとサッカーとが別れてからしばらくしたくらいのレベルのものだ
将棋やチェスなどは歴史とともに、より奥深さが研究され、「将棋」という言葉がさすもの自体がかわっている。
サッカーも同じ
昔の「サッカー」といまの「サッカー」は違う
単に人々の余暇から始まった、スポーツの中のサッカーという種目は、今や玉けりではない。そこには様々な要素が含まれ、あわよくば人生にすら例えられる。
自分で観て、情報を得て、思考し、判断する。11人いる味方の選手(チーム、一つのコミュニティと呼べる)とコミュニケーションをとり、一つの目的に向かって努力していく。
ボールがどこに転がるかわからず、また22人が人である以上、同じ動きをすることは決してない、無限の可能性、無限の状況を生み出すこのスポーツを、パターン化すること自体無意味だ。(セットプレーはまた別)
未来の広がるジュニア年代を指導している人々には一刻も早く、ただ蹴るだけ、ただ走るだけ、のなんだかよくわからない「運動」をさせていることが子供達の未来を潰していることに気が付いてもらいたい。
子供達に判断させるよう指導していくことは、たしかに難しい。かなり知識も専門的で、そして「教育」や「指導」の現場で、もっとも難しいであろう、ほんの少しのニュアンスがなければ子供達に短い時間で伝えて行くことは難しい。
自分も完璧に指導することはできないし、まだまだ未熟です。
だけれど、気づいて欲しい。
ただ蹴らせることだけはしてはいけない
考えさせて欲しい
子供達自身に
周りが過保護ともいえる環境に守られている中で育つ子供達は、自分の足であるかなければいけなくなったときに、つまづいたときに、道を見失ったときに、再びあるきだすことがむずかしい。
幼い時に欠かせない経験であるはずの小さなつまずきを、自らの力で乗り越える前に大人が支えてしまうからだ
無限ともいえる道から自分の道を決めて自分で歩いていくためには、自分で考えて自分で判断し、責任を持って歩んでいくしかないのだ。
日本のサッカーのためにも、
日本の教育のためにも、日本の少年サッカーはかわらなければならない。
そう思う