2025/05/19 信濃毎日新聞朝刊
更級郷開拓団跡地ツアー、交流限定的に 国際情勢影響?「友好努める」
戦時下の満州(現中国東北部)に渡り、敗戦間際のソ連軍侵攻で多くの犠牲者を出した更級郷開拓団の関係者らが21日、中国黒竜江省の団跡地などを巡るツアーに出発する。企画した東京都内の旅行会社を経営する滝沢泰斗さん(74)=千曲市出身=によると、中国側の意向で、現地での交流や慰霊が以前の訪問時よりも限定的になったという。滝沢さんは、米中間の経済問題や台湾有事を巡るあつれきが影響した可能性があるほか、日本による侵略の記憶が根強く残っていることも背景にあるとみている。
更級郷開拓団は1940(昭和15)年2月、ソ連との国境に近い東安省宝清県に入植し、敗戦時には約500人が所属。ソ連軍の攻撃で壊滅した。ツアーでは、多くの団員が犠牲となった佐渡開拓団跡や勃利(ぼつり)収容所の跡地を巡って慰霊するほか、上伊那地域の有志でつくる「うたごえサークルざざむし」と現地の合唱団による交流コンサートも開催する。
滝沢さんは草の根の交流を深めようと黒竜江省ハルビン市で過去3回、コンサートを開いてきた。今回は、満蒙開拓がテーマの5曲で構成された合唱組曲「同胞(はらから)」を披露する計画で、中国の旅行会社を通じて調整してきた。
ところが、同胞のうち歌えることになったのは、中国残留孤児の苦難を描いた「真っ赤な大地」と、孤児を育てた中国人養母への感謝を歌う「ありがとうお母さん」の2曲のみ。他の3曲が除外された理由は判然としないという。
滝沢さんがこれまでに企画したコンサートで曲目などが制限されたことはなかったといい、「全曲を歌わないと作り手の意思や全体の意味が伝わらない」ともどかしさを感じている。ざざむし代表の大場美広さん(71)=伊那市=は「残念だが仕方がない」とし、「穏やかではない状況の中でも、自分たちにできることとして友好に努めたい」と前を向いた。
滝沢さんは今回、交流先の合唱団もなかなか決まらなかったとし、「日中間にはデリケートな面があるということ」を改めて実感したとする。コンサートでは、満蒙開拓の歴史を省みる思いを伝える考えだ。
開拓団員の慰霊にも影響が出ている。多くの開拓団員が死亡した黒竜江省方正県にあり、前回2017年には訪問した「日本人公墓」は現在、閉鎖されて立ち入れない状態が続く。今回の訪中に際し、多くの時間をかけて根気よく歴史を解きほぐしながら中国側に理解を求めてきたという滝沢さん。「戦後80年の節目に、よりよい善隣関係を築いていきたい」との思いを強くしている。
2025/05/18 産経新聞 東京朝刊
■中国残留孤児が来日
■「ハチの一刺し」/ピンク・レディー解散
「ザ・ベストテン」の司会でも有名な黒柳徹子さんが書いた「窓ぎわのトットちゃん」という本がすごく売れていて、私も読んだ。そのベストテンの常連だったピンク・レディーは今年3月に解散した。去年デビューした松田聖子さんたちの人気に押されていたから仕方がないが、私も小さい頃はよくまねして踊っていたので、さみしく思う。
「トットちゃん」は黒柳さんの実話で、子供のころ通っていた私立のトモエ学園という学校が舞台だ。戦時中にもかかわらず、すごく自由な学校で、校長先生は、落ち着きのない黒柳さんを少しも叱ったりせず、個性を伸ばす教育をしてくれたという。
黒柳さんとあまり年も変わらない父に話すと、「そんな学校もあったのかもしれないな」と言うだけで興味が無さそうだった。当時、父は国民学校という普通の公立小学校に通っていて、戦時中だったためあまりよい思い出はないという。
父のお父さんは戦争で戦死している。私のおじいちゃんにあたる人で、今も家に軍服を着た遺影が飾ってある。祖父はガダルカナル島という所に行っていて、父は今の私と同じ6年生の終わりごろに戦死を知ったものの、実際にはいつ亡くなったのかはよくわからないという。
南太平洋のソロモン諸島にあるこの島では昭和17年の夏から米国などとの戦闘が続いたが、亡くなった人の多くは食糧不足による餓死だったらしい。私の父は何度も手紙を書いて送ったが、届いていたかどうかはわからず、遺骨と思って開けた箱には小さな石だけが入っていたという。
祖父が海の向こうで眠っているからなのかは聞いたことがないが、父は大学卒業後、商船会社に就職した。ただ、近くの国しか担当したことがないようで、ソロモン諸島までは行ったことはないと思う。神戸港はよく利用するらしく、開幕していたポートアイランド博覧会のおみやげは何度か買ってきてくれた。
今年は中国残留孤児という、終戦の頃に中国大陸で親と離れ離れになって残された人たちが肉親捜しのために初めて日本を訪れた。テレビでは親と再会できた人たちが抱き合う姿が何度も放送され、「孤児」というが、みなおじさん、おばさんになっていた。戦後36年たつが、まだ戦争が終わっていない人たちが大勢いるのだと改めて思った。
残留孤児の問題が注目されるようになったのは9年前の日中国交正常化以降だという。その正常化をやった田中角栄元首相のロッキード裁判はもう4年も続いていて、最近ではあまり注目されていなかったが、10月に角栄さんの秘書の元妻という人が法廷で決定的な証言をするという大きなニュースがあった。
「ハチは一度刺したら死ぬ」という言葉が流行語にもなり、命がけで角栄さん側に不利になる証言をしたということらしい。ちなみに角栄さんは祖父より10歳くらい年下だが、病気のため兵隊の期間は短く、米国との戦争が始まったころには、もう土建会社の社長になって成功していたらしく、私は少し嫌いになった。
トットちゃんも、角栄さんもそうだが、世の中には、あまり時代の流れに巻き込まれずに成功した人と、私の祖父のように思いっきり巻き込まれてしまう人がいて不公平だと思った。もちろん、それが運命だと思うが、今私が生きているのも運命で、あの遺影の中のおじいちゃんがいたから私がいるのだと思うと不思議な気がする。
先日、父とたまたま入った和菓子屋のおじいさんがガダルカナル帰りで、祖父らしき人と一緒だったかもしれないと話してくれた。これも運命と言うしかない。父たちはすごく気が合ったようで、いつか遺骨収集に行こうと話していた。私ももう少し大人になったら一緒について行きたいと思った。
◇
厚生労働省によると、先の大戦で海外で戦死した軍人、軍属、民間人約240万人のうち110万柱以上が現在も海外に残されたままで、NPOや民間団体などが遺骨収集活動を行っている。ガダルカナル島の密林などには今も約6000人の遺骨があるとされる。
◇
当時の出来事や世相を「12歳」の目線で振り返ります。今回の少女の父親のお話が「昭和17年」で、和菓子屋のおじいさんも「27年、63年」で取り上げられています。「昭和100年」の間には市井の人々の命と歴史が綿々とつながっています。
2025/05/15 朝日新聞/東京都
戦後80年が経ち、薄れゆく戦争体験を引き継ごうと、東京大空襲の体験者や都内の被爆者らが新たな団体「共創未来塾」を4月6日、発足させた。証言集会や朗読劇を開催し、Z世代をはじめ戦争を体験していない人たちへ非戦を伝えていく。
この日、新宿区の東京ボランティア・市民活動センターであった発足集会には20代~90代の約45人が参加。90歳前後の戦争体験者が東京大空襲や原爆について証言した。
同塾代表に就いた上蕨博さん(92)は「近代史の検証と平和学習講座を行い、若い人に悲惨な戦争は駄目だと語り継いでもらいたい」と訴えた。証言を聞いた20代の女性は「動画ではなく生の声で聞けるとリアルに伝わってくる」、都内の男性(24)は「生まれ育った下町の東京大空襲をもっと知りたい」と話した。
6月8日午前10時から同センターで、シベリア抑留体験者の講演会を予定している。問い合わせは同塾事務局(090・9837・0187)。(渡辺洋介)
【写真説明】
戦争体験を継承する新たな団体「共創未来塾」の代表に就いた上蕨博さん=新宿区
2025/05/14 大阪読売新聞=奈良
中国残留邦人2世や満州(現在の中国東北部)からの引き揚げ者らが体験を語って交流する集いが、香芝市のふたかみ文化センターで開かれた。
戦後80年に合わせ、地元NPO「平和のための香芝戦争展」が企画。11日にあった集いでは、約50人が中国での体験など当事 者の言葉に聞き入った。
冒頭、同NPOの西嶋拓郎事務局長(74)が、県内から大陸に渡った満蒙開拓団や、終戦時に多くの日本人が取り残された満州からの引き揚げの歴史を説明。「逃げる途中でたくさんの人が亡くなり、残留した人もいる」と話した。
中国残留邦人2世で奈良市在住の李少英さん(73)は、残留婦人となり、中国人男性と結婚した母親や自身の帰国について語った。「お母さんは日本に帰りたかったが、(家族のことを考えると)帰れなかった」とし、中国で亡くなった母親をしのんだ。
また、1945年春に満州に渡った香芝市の渡部ミツ子さん(97)は、帰国までに娘を亡くしながら、命からがら引き揚げた体験を振り返った。その後、民族衣装に身を包んだ帰国者らが舞踊を披露するなどして交流を深めた。
写真=自身の体験や母親について語る李さん(いずれも香芝市で)
写真=舞踊を披露する帰国者ら
2025/05/13 東京読売新聞
◇長野県軽井沢町
訪ねたのは4月上旬だったが、長野県軽井沢町の大日向地区は、肌寒かった。地区内を歩いて集落を抜けると、畑が広がり、農作業する人の姿も見えた。あと3か月ほどで、キャベツが収穫を迎えるという。
一帯は、終戦直後に満州(現中国東北部)から引き揚げて来た人たちが開墾した。国内有数の観光地である軽井沢町に、これほど広々とした畑があることも、背景に引き揚げの歴史があることも、あまり知られていない。
畑の中の細い砂利道を行くと、雪が残る浅間山がどんどん近づき、ひときわよく見える場所に「御巡幸記念碑」が立っている。
1947年10月、昭和天皇が大日向地区を訪れた。来訪を知らされた住民の反応が、地区の歴史をまとめた『満州・浅間開拓の記』に記されている。
住民たちは「こんなボロ着てたら、失礼ではあんめえか」「とても天子様なんぞのお姿は拝めねえ」などと戸惑いながらも、不愉快な思いをさせないようにと、地区内を念入りに清掃し、その日を迎えた。
背広姿の昭和天皇は冷え込みの厳しい中、雑木林の小道を歩いて地区を訪れ、「開拓の仕事は、国にとっても重要なものですから、頑張ってください」と集まった住民たちに声をかけた。さらに、開拓生活などについて「長いことご苦労様でした。家は寒くはありませんか」と気遣った。
碑には、昭和天皇がこの訪問を詠んだ歌が刻まれている。〈浅間おろしつよき麓にかへりきていそしむ田人たふとくもあるか〉
歌の背景には、大日向地区の住民が戦前から戦後にかけて歩んだ、苦難の歴史がある。
◇
32年の満州国建国後、日本は、村を二つに分けて片方の農民らを満州に送り出す「分村移民」を推進した。長野県東部、現在の佐久穂町に位置した旧大日向村は山あいで耕地も狭く、貧しかった。38年、大日向の人たちはよりよい生活を求め、分村して満州へと渡り、「満州大日向村」を作った。佐久穂町図書館に勤め、大日向の歴史を長年調べてきた大工原(だいくはら)千恵さん(72)は「大日向村の満州への分村は、国策として全国に先駆けて行われた。大日向村は小説や映画となるなど、全国で行われる分村移民のモデルとなった」と話す。
村からは800人近くが満州に渡り、農作業に励んだ。だが、45年8月にソ連の侵攻を受け、村民は収容所に入れられた。寒さと飢えで多くの命が奪われ、1年後に再び日本の地を踏めたのは400人にも満たなかった。
帰国後も、多くの人は満州移住前に土地や家屋を処分しており、故郷で生活することは難しかった。このため、65戸の165人は47年4月、北へ約30キロ離れた軽井沢町の浅間山麓の原生林が生い茂る地に入植した。最初に入植した65戸でつくる大日向振興会会長の市川渥夫(あつお)さん(90)は「満州では土地は与えられ、開墾の苦労はしていない。本当の開拓はここから始まった」と語る。
新たな開拓は困苦を極めた。65戸のうち夫婦が健在な家庭は7戸で、中には子供だけの世帯もあった。入植者たちは寒さに耐えながら、手作業でカラマツを切り倒し、ソバやジャガイモを育てた。
昭和天皇がこの地を訪れたのは、開拓が始まって間もない時期だった。市川さんは「満州に渡って以降、終戦前後の逃避行、戦後の開拓と苦労を重ねた。そのことに昭和天皇は思いを寄せてくださったのだと思う」と話す。
◇
大日向地区に思いを寄せたのは昭和天皇だけではない。上皇さまは皇太子、天皇時代に何度も地区を訪れ、住民と交流もされている。昨年8月にもご夫妻で訪れ、キャベツ畑を散策された。市川さんは「ずっと気にかけてくださるのは、ありがたいことだと思っている」と話した。(前田啓介)
◆27万人が満州へ 8万人落命
1929年に始まった世界恐慌の影響で、日本経済は不況に陥った。農村では特に養蚕業が大打撃を受け、農村救済が急務となった。
36年、満州に100万戸を移住させる計画が国策となり、日本は中国東北部に独立させた満州国や内蒙古に多くの農業移民を送り込んだ。農村経済の立て直しや食糧増産のほか、満州で日本人の人口を増やして治安維持を図り、対ソ戦略に役立てることが目的だったとされる。
約27万人が満州へ渡ったが、ソ連軍侵攻と、その後の収容所生活などで約8万人が命を落とした。貧しい農家が多かった長野県からは全国最多の約3万3000人が満州に渡り、約1万5000人が亡くなったとされる。
開拓民として満州に渡った人たちは帰国後、大日向村の人たちと同じように、全国各地で再び開拓民として入植することとなった。満蒙開拓に詳しい加藤聖文・駒沢大教授は、再入植も「戦後の新しい国策として位置づけられる」と指摘。その上で「国策は計画当初の意図と実施後の現実にギャップが生じるもので、実施後に検証し、修正をする必要があるが、日本ではそれが不十分だった」と話す。
◎日本各地の様々な時代に建てられた碑を記者が訪ね、刻まれた文字が物語る歴史をひもときます。
図=地図
写真=御巡幸記念碑
写真=旧大日向村の人たちが再入植地として入った長野県軽井沢町の大日向地区。浅間山(奥)を望む畑では今も農産物の生産が続けられている=鈴木竜三撮影