2025/05/13 毎日新聞/長野

 昭和初期以降に国策で旧満州(中国東北部)に入植した開拓団の歴史を伝える長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」は10日、旧満州出身者と来場者が対話する企画を開いた。約40年前、母の故郷の同県に来た渋谷幸子さん(78)=飯田市=が、日本政府に残留孤児として2回申請したが父が中国人との理由で認められなかったとし「残念だった」と振り返った。

 企画では、1945年4月に勤労奉仕隊として旧満州に渡った母が、終戦後に残留を余儀なくされ、46年に中国人との間に渋谷さんが生まれたこと、その後、母は渋谷さんを残したまま帰国途中に病死したことなどを紹介。85年に日本へ来たが、公的な支援も得られず「生活に苦しんだ」と語った。

 企画には残留孤児や市民ら約35人が参加した。終了後、渋谷さんは取材に、母の親族の支援を受けたことを挙げ、日本に来たことは正しかったとした上で、遅れて加入した年金で生活するのは厳しいとし「同じように苦しんでいる人は他にも大勢いる」と訴えた。

■写真説明 旧満州での経験を語る渋谷幸子さん=阿智村で
 

2025/05/13 都政新報 
書評/BOOK/藤井常文著都政新報社

 2025(令和7)年は、戦後80年に当たる。新聞や書籍でも戦争に関したものが目に付くようになった。戦争孤児(戦災孤児、引揚孤児、浮浪児の総称)は、過去において、その時代を生き抜いた本人の手記や聞き書きはあるが、行政はどのように対処し、どのような施策で応えて来たのか、ほとんど知られてこなかった。

 評者は1967(昭和42)年に都庁に入り、中央児童相談所の勤務になった。いまだ戦後処理が終わらず、様々な不備が残されていた。施設出身の若者が結婚に当たり戸籍を創ってほしい、自分の親を知りたいと尋ねてくることが多く、法務省出身で就籍専属職員もいたことはその一例である。

 著者は、都立施設の児童指導員や児童福祉司を務めたのち大学教授になった経歴であり、留岡幸助の研究者として知られているが、近年は戦後の児童福祉体制の研究に打ち込んでいる。本書は、戦争孤児を受け入れた施設のうち、都立6施設、民間4施設の成立と消滅に至る(経営主体の交代なども含む)経緯を綿密に調べ、書き上げている。著者が関心を持つに至った動機と資料発掘の経緯、点と点をつなぐ謎解きと考察があり、時に著者の怒りも顔をのぞかせる。

 戦後はいきなり始まったわけではなく、戦時体制における虚弱児童のための「健民修練所」や「戦災孤児学寮」、また満蒙開拓団などのための「拓務訓練所」が戦後、形を変えて受け皿になる事例も書かれている。東京府と東京市は43年に東京都に統合され、東京市の施設経営局的な存在であった養育院は、民生局長の予算承認を受ける存在になる。GHQの感染症対策により衛生局は、46年に民生局から独立する。組織の変遷もあり、複雑な時代に児童福祉法も成立する。

 取り上げた施設には、キーパーソンとなる施設長もおり、民生局、衛生局、教育局、養育院など行政との確執もある。戦争孤児たちの手記もあり、それぞれにドラマがある。全体を俯瞰した研究書と言うよりドキュメントとして面白く読める本である。

 定価 1650円(元東京都子ども家庭部長、玉川大学教育学部長 河津英彦)
 

2025/05/13 毎日新聞/長野

 昭和初期以降に国策で旧満州(中国東北部)に入植した開拓団の歴史を伝える長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」は10日、旧満州出身者と来場者が対話する企画を開いた。約40年前、母の故郷の同県に来た渋谷幸子さん(78)=飯田市=が、日本政府に残留孤児として2回申請したが父が中国人との理由で認められなかったとし「残念だった」と振り返った。

 企画では、1945年4月に勤労奉仕隊として旧満州に渡った母が、終戦後に残留を余儀なくされ、46年に中国人との間に渋谷さんが生まれたこと、その後、母は渋谷さんを残したまま帰国途中に病死したことなどを紹介。85年に日本へ来たが、公的な支援も得られず「生活に苦しんだ」と語った。

 企画には残留孤児や市民ら約35人が参加した。終了後、渋谷さんは取材に、母の親族の支援を受けたことを挙げ、日本に来たことは正しかったとした上で、遅れて加入した年金で生活するのは厳しいとし「同じように苦しんでいる人は他にも大勢いる」と訴えた。

■写真説明 旧満州での経験を語る渋谷幸子さん=阿智村で

2025/05/11 愛媛新聞 

 第2次世界大戦後のシベリア抑留で亡くなった県出身者を悼む慰霊祭が10日、松山市御幸1丁目の県護国神社であった。遺族ら約70人が献花などで犠牲者の冥福と恒久平和を願った。

 全国強制抑留者協会県支部の慰霊祭実行委員会主催。戦後、シベリアやモンゴルに約60万人の日本人が連行され、約6万人が飢えや寒さ、重労働で死亡した。県支部の最新の調査で、愛媛県関連の犠牲者は少なくとも1384人いることが判明している。

 慰霊祭では、遺族を代表し同市岩崎町1丁目の中矢均さん(73)が「極寒の地に連れ去られ、食もなく寝るところもなく、厳しい労働の末に帰らぬ人となった。今後とも末永く慰霊を続けたい」とあいさつした。

 同協会の吉田一則専務理事(76)=東京=は、モスクワを訪れて当時の日本軍医のカルテを開示するよう求めたが断られたと明かし、死者数や死因などの情報も隠されたままだと訴えた。戦後80年について「一つの節目ではあるが、周年という言葉では言い表せない。放置された遺骨が、一日でも早く日本に戻るように願う」と話していた。(山口暖乃)

2025/05/10 愛媛新聞

 第2次世界大戦後のシベリア抑留で亡くなった県出身者を悼む慰霊祭が10日、松山市御幸1丁目の県護国神社であった。遺族ら約70人が献花などで犠牲者の冥福と恒久平和を願った。

 全国強制抑留者協会県支部の慰霊祭実行委員会主催。戦後、シベリアやモンゴルに約60万人の日本人が連行され、約6万人が飢えや寒さ、重労働で死亡した。県支部の最新の調査で、愛媛県関連の犠牲者は少なくとも1384人いることが判明している。

 慰霊祭では、遺族を代表し同市岩崎町1丁目の中矢均さん(73)が「極寒の地に連れ去られ、食もなく寝るところもなく、厳しい労働の末に帰らぬ人となった。今後とも末永く慰霊を続けたい」とあいさつした。

 同協会の吉田一則専務理事(76)=東京=は、モスクワを訪れて当時の日本軍医のカルテを開示するよう求めたが断られたと明かし、死者数や死因などの情報も隠されたままだと訴えた。戦後80年について「一つの節目ではあるが、周年という言葉では言い表せない。放置された遺骨が、一日でも早く日本に戻るように願う」と話していた。(山口暖乃)