2025/06/06 信濃毎日新聞朝刊

 伊那市教育委員会は3日、市内の小中学校や公民館、市職員などの担当者を対象とした人権同和教育研修会を市役所で開いた。今回は「戦後80年」をテーマに開催。上伊那北部10町村から300人以上が旧満州(中国東北部)に渡り、およそ3分の1が帰国できなかった「富貴原郷(ふきはらごう)開拓団」について学んだ。

 研修会では、開拓団の参加者から聞き取り、10年程前に冊子にまとめた箕輪町郷土博物館の柴秀毅館長が講演。婚約者と別れ入植者と結婚した女性もいたという集団結婚式の写真を示し、「戦争は最大の人権侵害」と指摘した。

 「おばあちゃんが目の前で殺された」「何人かの重傷者も…何の治療もできず亡くなってしまった」といった手記も紹介。「二度と再び」戦争を繰り返さないよう訴えている文面から、平和を願う気持ちの強さも感じられるとした。

 参加者は講演を受け、7グループに分かれて討議。「世界で起きている戦争を入り口に、(満蒙開拓など)身近な歴史に目を向けさせたい」「子どもたちに近い年齢の手記を学び、同じ立場だったらどうするか考えるような指導をしたい」といった意見が出た。

 

2025/06/05 信濃毎日新聞朝刊 

 農村振興や国の発展といった大義名分で進められた一方、人々の多大な犠牲を招いた満蒙(まんもう)開拓。「国策をどの立場で見るか。判断するにはいろいろな歴史を学ぶことが力になる」。下伊那郡阿智村の満蒙開拓平和記念館で5月下旬、三沢亜紀事務局長(58)が修学旅行で訪れた兵庫県の中学生に語りかけた。

 戦時下に全国最多の3万3千人の開拓団員を満州(現中国東北部)へ送り出した長野県。その中でも飯田下伊那地方は8千人と多い。歴史を語り継ごうと飯田日中友好協会が準備を始めてから足かけ8年、2013年に全国で初めて満蒙開拓に特化した歴史資料館として開館した。

 史料の展示とともに、満蒙開拓を体験した当事者の証言を文章や映像で紹介する。悲惨な逃避行、集団自決など開拓団員が受けた被害だけでなく、日本人の入植で土地を奪われた現地住民への加害の面も伝えている。「中国の人たちに申し訳ないことをした」。元開拓団員の父から聞いた言葉が、寺沢秀文館長(71)の活動の原点にある。

 植民地だった朝鮮半島から満州へ渡った人、敗戦後に女性が受けた性暴力などにも視野を広げ、被害と加害が重層的に折り重なっていることに向き合ってきた。「なぜ悲惨なことが起きたか考えて伝えていくことが、満蒙開拓の歴史に学ぶことの意味だ」と寺沢館長は力を込める。

 開拓の体験者から直接話を聴く「語り部講演」は開館当初から500回以上も開催。だが、戦後も80年となり、体験者は次々と亡くなっている。同館は今年4月、体験者の子や孫らを招いて開拓の歴史を見つめつつ、これからの社会を共に考える活動を始めた。寺沢館長は「若い世代に伝えていけるよう、みんなで考えていきたい。たくさんの語り部から生の声を聞いた者として覚悟と執念を持って伝えていく」と決意している。

[まんもうかいたくへいわきねんかん]
 2013年4月に下伊那郡阿智村に開館。記念館と同名の一般社団法人が運営する。国策の名の下、大勢の人々が旧満州(中国東北部)へ渡った満蒙開拓の背景を年表や資料で解説。館内に開拓団員が暮らした家を再現し、体験者の証言を映像や文章で伝える。これまで延べ25万人が来館。館の運営をサポートする「自治体パートナー制度」は、県や県内48の市町村・広域連合が参加する。
 

2025/06/02 信濃毎日新聞朝刊

 旧満州の痕跡「同胞」思う 平和願い合唱通じ交流も

 現在の長野市や千曲市から戦時中、満州(現中国東北部)に渡った更級郷(ごう)開拓団の関係者らが、戦後80年の節目に団の跡地をツアーで訪れた。中国側の意向で交流活動は以前の訪問時より限定的になったが、多くの団員が亡くなった場所で慰霊を行い、子どもたちとの合唱コンサートで友好を深め、平和への願いを新たにして帰国した。

 ツアーには団員の遺族や、団の国民学校に勤務し、帰国後に再び教壇に立った塚田浅江さん(1910~2000年)=現千曲市出身=の教え子ら27人が参加した。教え子の1人で東京都内の旅行会社を経営する滝沢泰斗さん(74)=同=が企画し、5月27日までの1週間、黒竜江省の団跡地などを巡った。

 滝沢さんによると、跡地には戦後にできたれんが造りや土壁の平屋が立ち並び、2017年の前回訪問時には砂利が敷かれていた道も舗装されていた。1945(昭和20)年8月の敗戦間際にソ連軍の侵攻を受け、団が壊滅した佐渡開拓団跡では、一面に広がるトウモロコシ畑で黙とう。痕跡はなく、地形からかろうじて場所を特定した。

 塚田さんが逃避行中に身を寄せた勃利(ぼつり)の収容所跡も訪ねた。現地の家庭に預けられた子どもたちの一部は残留孤児となり、塚田さんは戦後、支援に奔走。現在は駅前ビルが立つ前で、参加者たちは塚田さんの思い出を振り返った。

 ハルビン市で開いた合唱交流コンサートでは、上伊那地域の有志でつくる「うたごえサークルざざむし」のメンバーら約15人が、満蒙(まんもう)開拓がテーマの合唱組曲「同胞(はらから)」などを披露。交流した現地の合唱団は小中学生ら約15人で、作詞家いではくさん(南佐久郡南牧村出身)が手がけ、中国でも親しまれる歌謡曲「北国の春」を両国語で歌った。

 中国側からは、長野での次回開催を求める声も上がったという。滝沢さんは「これからの日中関係にとっても前向きな話。それも、平和であればこそだ」と話した。

2025/05/30 秋田魁新報
[孤児同然、命懸けで学んだ人生訓伝える・黒田雅夫さん(88)] 異国で敗戦、縁に救われ 「奪われるのは命だけじゃない」

 8歳の少年が背負うにはあまりにも過酷な体験だった。京都府亀岡市の黒田雅夫さん(88)は約80年前、満蒙(まんもう)開拓団の一員として家族で満州(現中国東北部)に渡った。母と祖父の死、父や弟との離別―。戦争は家族を引き裂き、孤児同然の生活も強いられた。「縁を大事にせなあかん。そのおかげで僕は今ここにいられる」。語り部として子どもたちに伝えるのは、異国での戦後の混乱を生き延び、命懸けで学んだ人生訓だ。
 
 1944年6月、一家4人で満州に向かった。移り住んだのは吉林省樺甸(かでん)県(当時)ののどかな村。現地の子どもと仲良くなり、お互いの言葉を教え合って遊んだ。翌年には祖父も合流し、農作業を手伝ってくれた。

 日本の敗戦を機に村を離れ開拓団の本部に逃げた。夜中、怒号と物を壊す音で目が覚めた。現地の中国人による襲撃だった。放火された建物が辺りをオレンジ色に照らし、くわで突かれた人の胸から血が噴き出す光景はまさに地獄絵図だった。

 生き残った開拓団員は、引き揚げを待つ収容所がある撫順を目指した。父は徴兵されており、母と祖父、3歳下の弟と飲まず食わずで夜通し歩いた。屋根のない列車にも乗せられ、1カ月かけてようやくたどり着いた。

 逃避行での無理がたたった母は寝たきりに。ある日突然「今日は私がご飯を作る」と言い出した。満腹になり、寝ようとすると「全部食べなさい」と怒る。仕方なく食べ眠った。翌朝、母は冷たくなっていた。遺体を運ぼうと足首に手をやると、子どもの指でもつかめるほどやせ細っていた。悲しむ余裕はなく、生きてやると強く思った。

 祖父も収容所で亡くなり、弟は中国人の家庭に預けられていた。部屋に戻ると、女性から母の遺髪が入っているという袋を渡された。収容所では孤児が売り渡されることが度々あった。直感的に自分も売られると思い、ひったくるように受け取り収容所を飛び出した。

 路上で生活し拾い食いできるものを探し回った。空腹を抱えて市場を眺めていると、まんじゅう屋の老人が大声で話しかけてきた。だまされないよう耳が聞こえないふりをすると「謝謝、不用」とまんじゅうを一つ道に放った。村の友達に習った現地の言葉で「ありがとうはいらない」という意味だと解し、夢中でかぶりついた。「言葉を教えてくれた友達と、人の優しさに命を救われた」
 その後、キリスト教のシスターに保護され船で日本に引き揚げた。これからどこに向かうのかも分からず、不安でいっぱいだった。
 
 他の戦争孤児と一緒に、長崎県にある教会に向かった。孤児として新聞に名前が掲載され、たまたま目にした叔父が迎えに来てくれた。京都に戻ったのは終戦から約1年後のことだった。

 亀岡市の祖母宅に身を寄せ小学校に通った。シベリアに抑留されていた父は翌年帰国したが、戦争のことは一度も話さなかった。「おやじが満州行きを決めたがために母とじいさんは向こうで死んだ。弟とも離ればなれになった。気持ちを考えたら何も言えんかった」
 中学卒業後は手に職を付けようと石工になり、関西一円どこでも出かけた。やがて小さな会社も起こしたが、同情を買うようで満州の話は誰にもしなかった。「中国帰り」は満州で土地を安くもらってもうけようとしていた、という偏見を持つ人もいた。

 預けられてから中国に住み続けていた弟とも87年に再会した。約40年ぶりに会った弟は日本語もままならず、自分の名前すら覚えていなかった。
 
 「父は毎晩、酔うと満州の話ばかりしていたんです」。黒田さんの長男で中学教諭の毅さん(58)が笑う。黒田さんが語り部を始めたのは2009年ごろ。平和教育担当になった毅さんが、生きた言葉で体験を伝えてほしいと打診した。

 涙が止まらず、話せなくなることもあった。背中を押してくれたのは、子どもたちが寄せる感想文だった。「僕の悲しみはもう過ぎた。一人で泣けば済むことです。自分の話を聞いた経験が、苦しい時に踏ん張る勇気になればと思ってね」
 黒田さんが体験を語り、説明が足りない部分や歴史的背景を毅さんが補う。理解しやすいようにと描き始めた絵はいつしか60枚を超え、23年に絵本として出版した。

 戦後80年となるが、毅さんは「父の戦争はまだ終わっていない」という。黒田さんと弟の関係にわだかまりが残り続けているからだ。黒田さん兄弟と父親の3人で酒を酌み交わすこともあったが、弟の「自分だけ中国に置いていかれた」という割り切れない思いが徐々に距離を生んだ。

 「僕は父の語り部の後にこう付け足すんです」。毅さんの言葉が静かに響いた。「戦争は数年で終わったけど、父と叔父の間に入った溝は埋まらない。奪われるのは命だけじゃない。それが戦争だよ、と」
 (共同通信・斉藤林昌)
 
 【満蒙開拓団】旧日本陸軍の部隊・関東軍が1931年に起こした満州事変以降、終戦まで主に農村から満州(現中国東北部)に国策として送られた農業移民。食糧増産のほか、対ソ連の国防も目的だった。終戦までに約27万人が渡り、ソ連軍の侵攻や感染症のまん延、集団自決で約8万人が亡くなったとされる。戦争の混乱で多数の中国残留婦人・孤児も生んだ。
 
 [記者ノート]
 ≪遺骨収集、国の本気度は≫
 「このままではあまりにもかわいそう。救われませんよ」。取材中、黒田雅夫さんが何度も口にしたのは、進まない海外の戦没者遺骨の問題だ。

 厚生労働省によると、2023年度末時点で激戦地を中心に約112万柱が未収集。旧満州を含む中国東北地方の戦没者の遺骨は約24万柱に上るが、収集したのは約4万柱にとどまる。

 16年には戦没者遺骨収集推進法が成立。「国の責務」として収集に当たるとしたが、本気度はいかばかりだろう。黒田さんのように現地の様子を知る人も、残された遺族の時間も限られている。

 靖国神社に合祀(ごうし)されているA級戦犯は、主に戦争を始めた人々だ。戦争に巻き込まれたあげく、親族の胸に抱かれることもかなわない無数の命は異国の地で安らかに眠れるのだろうか。
 
 <原則毎月1回掲載します>

2025/05/27 信濃毎日新聞朝刊 
 岡谷市湊の戦没者と満蒙開拓団で亡くなった人の慰霊法要が24日、湊の忠魂碑前で行われた。地元の小坂、花岡両地区社会福祉協議会などが主催。遺族を含む約20人が参列し、戦後80年の節目に改めて不戦を誓い、平和を祈った。

 参列者は黙とうをささげ、焼香した。花岡地区社協会長の小口朝弘さん(66)は追悼の辞でロシアのウクライナ侵攻などに触れ「平和主義の価値観を根底から、しかも平然と破壊してはばからない」と批判。「不戦、平和追求の決意を新たにする」とし「御霊(みたま)の安らかならんことを心からお祈り申し上げる」と述べた。

 父が中国北部に出征し、戦病死した湊遺族会長の山岡弘幸さん(82)は謝辞で、戦争経験者が少なくなり、社会全体が戦争の悲惨さを忘れがちになっている―と指摘。「平和憲法を守り、戦争は絶対にしないと不戦を誓い、あの悲惨な戦争を二度と起こさないよう語り継いでいく良い機会ではないか」と訴えた。

 市によると、湊の戦没者と満蒙開拓団の犠牲者は98人。花岡区誌によると、忠魂碑は1915(大正4)年建立。占領政策を受けて土中に埋められたが、53(昭和28)年に遺族の手で掘り出し、復元した。