前日にポンペイの日帰り強行軍を果たし(帰路は高速バスに乗った-都市間あるいは国を結ぶバスでやはりヨーロッパは地続きであることを実感)、本日はカピトリーニ博物館へ行くことに。残念なことに本日は雨模様。
いつものルートをたどり、カピトリーノの丘へ向かっているわけだが、初訪問であるにもかかわらずパパはローマのことをまったく勉強せず、地図も添乗員時代の土地勘が残っているあさプリンセスに一任。真に良いご身分でふらふら付いていったわけだが、このブログを書くにあたり、写っているものが何なのかさっぱり分からず、まったく閉口している。というよりも、ローマでは何もかもがパパの規格を超えていたので、大事なものとそうでないものの区別すら付かなかったのだ。だから写真を改めて見ていて、これは何だ?というものが多すぎる。
ま、とにかく。カピトリーノの丘へ向かうまでにもそういったものがいくつもあったのだよ。
気にはなっていたんだが、上の巨大建築は?写真を撮ったときは、垂れ幕が目に入り、ああ、地下鉄工事なのかなとは思ったものの、そもそものこの建物は何だ?
目の前の通りは、フォリ・インペリアリ通り、というのは分かる。この通りに沿って、いろいろな皇帝のフォロが並んでいるのだった。肝心の目の前の建物のそれぞれの由来は分からぬにしても。
ところで、今また塩野七生氏の「ローマ人の物語」を読み返しいているのだが、このフォリ・インペリアリ通りはムッソリーニがヒトラーのドイツではまねのできないような軍隊パレードを誇示するためにヴェネチア広場からコロッセオに敷設した道路だという。整然と並んでいて然るべきものがだから分断されている。皇帝たちのフォロの半ば以上は地下に埋没したままなのである。しかしながら、大戦前は、同時代の列強の政治家の間では非常に高く評価されていたというムッソリーニの、気概、のようなものは分かる気がする。
ヴィットリオ・エマヌエレ2世記念堂。
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で、たどり着いたカピトリーノの丘。ローマ市の中で最も高い丘で、かつては手狭なことから神殿が集まっていた、古代の神々の集う地である。帝国滅亡後、荒れ果てていたのを法王パウロ3世の命によりルネッサンス様式でミケランジェロが再整備を果たした。現在は市庁舎と博物館の場所である。この階段もミケランジェロ設計。ありがたやありがたやと唱えながら一歩一歩踏みしめる。
丘の上はカンピドリオ広場。中央が市役所。
いきなりこの巨像がごろりと現れる。コンスタンティヌス1世(在位306-337)。このレポートにもたびたび登場した「大帝」である。しかし、皇帝信仰、というものがどういうものであったか、片鱗がうかがえる。
上の作品はベルニーニ(この巨匠もすでに何度も登場済み)による法王ウルバヌス8世(在位1623-1644)。ガリレオ裁判は彼の時代の出来事。
ボローニャ出身の彫刻家アレッサンドロ・アルガルディによる法王イノケンティウス10世(1644-1655)。
シチリア出身の画家トンマーゾ・ラウレティ(Tommaso Laureti)による「Justice of Brutus」(1587-1594)。このブルータスはあのブルータスではなく多分・・・・・。
このブルータスだと思う。ジュリアス・シーザー暗殺に加担したブルータス(マルクス・ユニウス・ブルータス)ではなく、紀元前753年にロムルスに始まる王政ローマを紀元前509年に終焉させ、共和制ローマを打ち立てたルキウス・ユニウス・ブルータス。初めての執政官の一人(常時二人)である。紀元前3-4世紀の作品。
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紀元1世紀の秘儀をつかさどる若者像。目に銀の象眼がはめ込んであるのが特徴。
足に刺さった棘を抜こうとしている少年。この独特の構図のコピーがルネサンス期に大流行したという。おそらく紀元前1世紀の作品で、体は紀元前2-3世紀のヘレニズム作品をモデルに、頭は紀元前5世紀のギリシャ作品から採ったものだろうということである。
これがあの有名なShe-wolf像。ロムレスとレムスに乳を与える母狼。
この狼のおかげで一命を取り留めた兄弟は羊飼いに育てられ、やがて羊飼いたちの頭領に。彼らを引きつれ新国家を建設する。やがて二人は仲たがい、ロムルスが勝利を収める、それがローマのはじまり。「ローマ人の物語」によると、建国当時のローマの市民の大部分は独身男性だったようで次に彼らは他民族の女たちを強奪してきたのだった。こうしたことから彼らはそれぞれの部族のはみ出し者たちだったのではないかと書いておられる。なんともすさまじい建国譚である。
こちらもベルニーニによるメデューサの胸像(1630-1640年)。大概、切断された頭部で表現されることが多い同テーマだが、こちらはそうでない胸像、であるところが特徴。
ボローニャ出身のルネサンス画家Jacopo Ripandaによるアルプス越えのハンニバル。1508-1509頃の作品だという。フレスコ画。
ライオンの毛皮をかぶりヘラクレスに扮する皇帝像。
マルクス・アウレリウス帝(在位161-180)。学問好きで五賢帝の一人とされる。パルティア戦争に勝ち、さらにゲルマン民族に対する戦勝記念もしくは彼の死の直後に献呈された像だろうと推定されるという。
コンスタンティヌス1世再び。こちらの青銅像はおそらく彼の晩年に制作されたもの。手はもともと球体(世界に及ぶ力の象徴)を支えていたという。
アマゾンの立像の一部。紀元前444年から430年作られたブロンズ像のモデルで、オリジナルは、当時のもっとも偉大だったアーティストたちが参加した、現トルコ西部にあるギリシャ人都市エフェソスで行われたコンペティション用作品だった。
こういった犬の像をローマでは家の前に飾っていたらしい。ところがこの作品は、非常に高価で珍しいエジプト産の緑の大理石で作られているため、エジプトのアレキサンドリアのアーティストによる、収集用の「作品」として作られたものではないかということだ。
マーシャスあるいはマルシュアスの像。ギリシャ神話のひとつのエピソードに、こんな物語がある。
マルシュアスはサチュロス(半人半獣の精霊)である。ある日森を散策していると、女神アテネが発明しながらも気に入らなかったアウロスという二本管の楽器が捨ててあったのに出くわした。これを拾った彼は試しているうちにどんどん上達し、皆にも誉めそやされるようになり、すっかり上機嫌。自分はアポロ神よりも上手いと豪語するようになる。これを聞いて激怒したのがアポロ神。実際に勝負をすることになった。しかしながらジャッジは彼の従者であるムーサ(文芸の女神、「ミューズ」のこと)たちなので、ただ一人ミダス王(王様の耳はロバの耳、の人)はマルシュアスの勝ちとしたが、結果はアポロ神の圧勝となった。勝者は敗者に何をしても良い、という取り決めだったため、アポロ神はマルシュアスを松ノ木に吊るし、生きながらその生川を剥いだ、という。
のちのキリストの磔刑イメージにも多大の影響を与えた、というこの作品の解説も納得できる。
ヘラクレスの金箔青銅像。おそらく紀元前4世紀のギリシャ彫刻をモデルにしたもの。
ローマの最高神ユピテル(ジュピター)とその妻ユノー(ジュノー)、そしてミネルヴァに捧げられた神殿跡。最初のエトルリア系の国王となったタルクィニウス・プリスコ(在位紀元前616-579)のときに初めて奉納されたという。
ユニウス・バッスス(ローマの政治家、317-359)のバシリカにあったポロクロマティック大理石(いくつかの色の付いた大理石)によるパネル。
1528年のフェラーラ公国のガロファロによる受胎告知。ルネサンスも後期である。
グイド・レーニ(1575-1642)による「Blessed Soul」。1640-1642年頃の作品だが、この画家が死ぬまで彼の書斎に置かれていたものだという。
カラバッジオの「洗礼者聖ヨハネ」。1602年頃の作品。
まあ、しかしどういうわけかカメラが上手く機能しなかったな。そもそもこんなカメラで撮るよりもいまや携帯で撮るほうがはるかに高画質だったりする。するが、高画質を見たければ今はいくらでもネットで見られるからな。ま、味が出てよかろう・・・・・・?
ボローニャ出身の二人の画家Frncesco Francia(1447-1517)とBartolomeo Passerotti(1529-1592)により時代を隔てて仕上げられた作品。おそらくボローニャの教会の聖壇のための装飾だった。
側面にトロイ戦争の英雄アキレスの生涯を描いているというこの石棺は2世紀のもの。
上の彫刻作品は、おそらくこの博物館の中でもっとも有名な作品で、何度も彫刻やドローイングでコピーが作られただろうと解説書にある。手元には剣があり、瀕死のガリア人を表現している。ギリシャ彫刻の、シーザーの時代のコピー。
紀元前5世紀のアテナ信仰に供じられたという「征服されたアマゾン」像。
酔ったファウナス像。ファウナスはローマ神話の家畜や森林の守護神。
ケンタウロスは半人半馬。この作品には小アジアの「アフロディシアスのアリステアスとパピアス」というサインがあり、作家の名と出身地が分かる。アフロディシアスには当時ギリシャ作品のコピー作者を養成する学校があり、1世紀の終わり頃にはここのアーティストたちはローマに移住し、皇帝や富裕な市民の注文に応じ、よい商売だったようだ。
こんな胸像が集められた部屋がいくつもあり、名前と照らし合わせて見たらずいぶん面白いのだろうが、この頃になるとびっきーがかなりぐずつき始め。まあ、わからなくもない。
ヴィーナス。この作品もこの博物館所蔵作品の中で1,2を争う人気作品で、現在100のレプリカがこの像を模した「カピトリーニ・タイプ」として知られている。といってもこの作品も何かを模したもののようだが、最も初期の頃に作られたものだということで学者の間でも意見はまとまっているようだ。
テーブルの上で蛇と戯れているのは赤ちゃんヘラクレス。赤ん坊の頃のカラカラ帝ことルキウス・セプティミウス・バッシアヌス帝(在位209-217年)あるいはマルクス・アウレリウス帝(先の馬に乗ったブロンズ像の人)の息子を描いたのだろうという。
レダと白鳥。白鳥は変身したゼウスで、レダはマントを掲げることでえさを探す鷲の視界に入らぬようにして白鳥を守っているのだ。オリジナルは紀元前4世紀のギリシャ彫刻で紀元前1世紀にコピーが流行した。
酔った老女像。粉々になっていたものを復元したもの。おそらく紀元前3世紀のエーゲ海のギリシャ都市SmymaのMyronによる作品のコピー。
MarforioはローマにあるTalking statueのひとつ。16世紀以降のローマでは、政治・社会に対する不平・不満を、多くは詩のような形で無記名で張り出すことができた。この泉もそんな目的に使われていたようだ。この彫刻は1592年にここに移されてきた。横たわるのは川の神あるいは大洋。
半人半山羊のサチュロスは田園や自然の守護神である。ディオニソス信仰とも関連する。この像はもともとポンペイの劇場の装飾としてあったものが、建物の構造を支える構造に転用されたものではないかという。後期ヘレニズム時代のもの。
女神ミネルヴァは詩・医学・商業・工芸・魔術をつかさどる古代ローマ人にとって最高神の一人。この像は紀元前2世紀にギリシャ人によって制作され、非常に重要な神殿に置かれたという。
外では雨もやみ、腹も減っていたので初日は店まで出向きながらも予約がいっぱいで入れなかったレストランを再訪してみたが、この日も駄目。仕方なく?その近場にしたのだが、やっぱりローマにまずい店はなし。大いに満足したのであった。
しかし、帰ってきてから、アーティチョークの準備の仕方を調べてみているのだが、やっぱり分からん。このあたりでいくらでも手に入るので試してみないとな。
びっきーは再びカルボナーラ。
びっきーもがんばったので、ご褒美にこの豪華なデザート!
これから、パンテオンに向かう。もう、われわれの観光散策もいよいよ終盤である。
裏から回り込むようにしてわれわれが出てきたのは、パンテオン。これか!というくらいでかい。正面にはアウグストゥス帝の少年時代からの側近アグリッパによる建造を記念した碑文(実際にはそのパンテオンは消失、現在残っているものはハドリアヌス帝が紀元118-128に再建したもの)が見える。
ここにも古代エジプトの真性のオベリスクが。
こちらはパンテオンに向かい合う建物。
中に入る。まず誰でもそうするだろう、見上げてみる。ドームは直径43.3メートルで、20世紀以前の建造物としては最大。
ラファエロの墓もこの中にあったんだってな。知らなかったよ。
近くのハム屋で試食。こういうときは、うちのあさプリンセスは必ず食べてみることにしているのである。必ず、である。
コロンナ広場。中央の塔はマルクス・アウレリウス帝の記念柱。左の建物は首相官邸であるキージ宮殿。
そしてまた裏から回り込んだような形で、トレヴィの泉へ。
帰路、みやげ物屋で30分ほども逡巡した後、今回の旅行のお小遣いとしてもらっていた10ユーロをはたいて、びっきーがロンドンに連れ帰ることにしたのが、この子。「ローマ君」という名をびっきーからもらった。
夜はふたたびトシミさんと食事。再会を期して別れる。
明日が帰英の日である。グッナイ、ローマ君。