ローマ紀行 2月17日(土)ポンペイ その2 | 子育てミュージシャン・ロンドン日記

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とある中年しかし新米パパ・ミュージシャンの子育て日記 in ロンドン

 お腹もいっぱいになったところで行動開始たって、腹をすかせていたのはびっきーだけ。パパはコーヒーで満足。この頃あさプリンセスは8度を超える熱があったらしいが、なんとかしのいでおった。母は強し。

 

 

 「マケルム」。食料品取引場というから、卸売市場のようなものだろうか。円形の建物があって、魚をさばいて売る場所として使われていたという。柱廊の壁面には魚や鶏の販売風景ほか神話を題材とした場面が描かれていたという。

 

 

 武具を身に着けた男女一対の大理石像は、皇帝と思われる大きな彫像の断片とともに出土したことから、このマケルムは商業上の施設であったとともに皇帝信仰の場所でもあったようだ。発掘は1818、1821、1888年。

 

 

 「公共のラールの聖域」。入場時に無料でもらったガイド本は本当に良くできていて、説明もしっかりしているのだが、時々、わけが分からない言葉に出くわす。この「ラール」というのもそれで、これを書きながら今も調べているのだが、どうやら「聖性」「神性」を表現する言葉のようで、直訳すると、「公共の聖性のためのサンクチュアリ」ってな感じ。上の写真中央にわずかに見える祭壇で、多神教が認められた社会において、それでも皆に共通に信仰される(べき)皇帝やその他の神々のための儀式が行われていた、ということだろう。発掘時期は1817年。

 

 

 「ゲニウス・アウグスティの神殿」。この「ゲニウス」というのも厄介な言葉で、どうやら多神教時代のローマで信じられた、神性を発揮する精霊のようなものらしい。で、ゲニウス・アウグスティは、初代皇帝アウグストゥス(在位紀元前27-紀元14年)の背後にいる「ゲニウス」に対する信仰ということか。発掘1817年。

 

 

 「コンコルディア・アウグスタの柱廊」。ポンペイの非常に裕福な家柄の出身で、女神ヴィーナスを祀る女祭祀だったエウマキアが皇帝崇拝のために建てさせたものであることから「エウマキアの建物」とも呼ばれる。正門を飾るアカンサスの歯の唐草模様とそれに集まる動物たちを描いた大理石の装飾パネルはフォロで出土した後、誤ってここに配置されたが、実際には先のゲニウス・アウグスティの神殿にあったもの。「コンコルディア」は、古代ローマの「調和」をつかさどる女神、「アウグスタ」は「アウグストゥス(「尊厳者」の意。後に「皇帝」を表す称号化)」の女性形。つまり「コンコルディア・アウグスタ」は「荘厳なる調和」をつかさどる女神で、皇室にとって特に重要視された信仰であったという。

 

 

 発掘は1814、1817,1836年。

 

 

 「コミティウムと市政の建物群」はフォロの南東の角にある元選挙投票所。後に開票作業と新行政官が当選宣言をする場所になった。また文書保管所、元老院、行政官たちの執務室などが立ち並んでいた。発掘は1814、1826年。

 

 

  「シャンピオネの家」。イタリア語で「Casa di Championnet」と表すが、このChampionnet、とうとう意味が調べられなかった。海に向かって次第に低くなる4層のレベルの上に広がるポンペイ有数の大邸宅だった。下の階には浴場施設もあったという。

 

 

 上は展示室。発掘は1799, 1812, 1828, 2016年。

 

 

 「幾何学模様のモザイクの家」。ポンペイ全体を通じて最大級の家で、部屋数は60以上、建物の敷地面積は3000㎡にも及ぶという。もともとは2件だった家をひとつにしたもので、典型的なローマ的住居構造だった。発掘は1826、1889-1899、1928-1929、1932年。

 

 

 ちと見えにくいので腕を伸ばして・・・・。

 

 

 「私設浴場」。別名「ユヴェネスの体育場」。残念ながらユヴェネス(luvenes)も意味不明。しかしながらこの有名なレスリングのモザイクはどうだ!

 

 

 この正面に見える壁画がなかなか素晴らしいようで、残念ながらカメラで確認できたのはここまで。競技者やアレイを持ってジャンプする選手、レスラーや勝利者賞である帯を手に持つ審判などが描かれていたという。

 

 

 発掘は1887、1928年。

 

 

 「いのししの家」ということになっていたんだが、どう見てもガイド本の写真とも違うし、いまだにパパは頭をひねっている。これ、どこだったんだ?

 

 

 「カロリーヌ王妃の家」は2016年に初公開されたまだ新しい?遺跡。とはいえこの家の大部分はフランスの支配下にあった時代(1798-1815)にこの家の大部分の調査が終わり、名前は、ナポレオン1世の妹にしてナポリ王妃だったカロリーヌ・ボナパルト=ミュラに由来する。

 

 

 発掘時期は1809、1812、1818、1826、1839年。

 

 

 直訳すれば「植物園」ということになるのだと思う、たぶん。

 

 

 「赤い壁の家」。発掘は1832、1882年。

 

 

 「三角形のフォロとサムニウム人の体育場」へと向かう。

 

 

 ポンペイがローマの植民都市になる以前は、山岳民族サムニウム人がこのあたりに住んでいたことが分かっていることからこの名がついた。体育場は成人男子や青少年の鍛錬の場であった。子供たちは午前中はたいてい勉強だが、昼になると体育場へ来て体を鍛えたのだった。

 

 

 「ドーリア式神殿」。ドーリア式はあまり装飾に偏らず、重厚さを追求した建築様式である。これは紀元前6世紀に石灰岩で建てられたもの。オスク語の碑文からこの神殿は女神アテナに捧げられていたことが分かる。アポロの聖域とともにポンペイの宗教拠点のひとつだったろうと推測される。発掘は1765-1782年。

 

 

 「大劇場」は丘の自然な傾斜をひな壇席の建設に利用して造られている。公共建築の中で、積もった火山灰から完全に堀り出された最初のもの。

 

 

 発掘は最初は1764年から何期にもまたがって。一番新しいところで1951年。

 

 

 「両劇場のクアドリポルティコまたは剣闘士の兵舎」。「クアドリポルティコ」は英訳すると「four-sided portico」とあるから、写真でもすぐ分かるように屋根つきの回廊が四角形になっていたのだろう。休憩時間に観客がくつろぐホワイエだったようだが、62年の地震後、建物の一部が再整備されて、剣闘士たちの兵舎として使うようになったという。上の階はショーの興行主のアパート式住居があった。発掘は1766-1769、1771、1792-1795年。

 

 「小劇場-オデオン」。

 

 ここでは音楽界や無言劇が上演されていたという。音響効果を高めるために、劇場は屋根で完全に覆われていた。発掘は1769、1792-1795年。

 

 

 「アスクラピウスの神殿またはユピテル・メイリキオスの神殿」はポンペイの信仰施設の中では最小の神殿ながら、発掘当初から信仰の対象について議論された場所。まずオスク語の記録によれば、ここでは冥界に属するメイリキオス(蜜のようにやさしいの意)のジュピターに捧げられたもの。ところがここで発券されたテラコッタの彫像と医薬箱から、ギリシャ神話の名医アスクラピウスに捧げられた神殿であることを示唆。建設時期は紀元前三世紀から紀元前二世紀の間。発掘は1766-1798、1869、1940年。

 

 

 「イシスの神殿」。イシスはもともとエジプトの豊穣の女神。モーツァルトが1770年に父とともにここにやってきたときに大きな感銘を受けて、後に1791年の「魔笛」のウィーンでの初演の舞台装置を構想したといういわれもある場所。発掘は1764、1958-1959、1988-1991年。

 

 

 「中央浴場」。ポンペイ都市部の最大の浴場施設。噴火が起きたときはまだ建設中だった。男性と女性用の分離がなく、おそらく時間帯によって男女交代で使用する方針だったのだろうということ。

 

 

 「傷を負ったくまの家」は紀元一世紀半ばにさかのぼる。

 

 

 もちろんこの熊のモザイクが家の名の由来。

 

 

 2016年に大修復が完了し、モザイク、床、フレスコ画の色の美しさは素晴らしいようだ。

 

 

 「カスカ・ロングスの家または『芝居絵パネル』の家」。名はこの家の所有者の調度品の中に、シーザー暗殺のグループの一員だったカスカ・ロングスの銘が残ったテーブルを支える三脚があったことに由来する。

 

 発掘は1912、1926-27年。残念ながら中には入れず。そもそももうほとんど閉館時間なのである。それでもわれわれはこの後、円形劇場まで足を伸ばす。しかしながらここで残念ながらカメラの電池切れ。

 ああ、くたびれた。これだけ調べるのに・・・・。