ローマ紀行 2月17日(土)ポンペイ その1 | 子育てミュージシャン・ロンドン日記

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 どうしても行きたいというびっきーの強い主張に根負けして(パパは子供の頃に写真で見た、例の遺跡から出た人々の石膏像に強い衝撃を受けたせいで、まったく気が進まなかったんだな)、当初からいつも37度過ぎの微熱があった彼の体調とも相談、また翌日曜日には雨になるという情報もあり、この日にポンペイに行くことに決定。朝6時起床、朝食もとらずに7時30分発の列車に乗り込む。

 

 

 ポンペイまで約1時間、そこからローカル線に乗り換えるということだが、片道総計105ユーロ!やたら高いなとは思うものの、時間には換えられないだろうということで気持ちを納得させて乗り込んだ列車がこれ。デザインもなかなか凛々しい感じなのであった。

 

 

 車窓からの眺めはイングランドとは大分違う。やはり山々の国なのだな、なんていうことを思いながら見ていたのだが、とにかくものすごい速さで風景が変わっていく。ふと気がつくと車内のモニターで現在の速さの表示。「299km/h」!時速299キロって、日本の新幹線よりも速いんじゃないの?今調べてみるとこの列車「イタロ」というイタリアの新幹線で、ローマ・ナポリが1時間8分だそうだ。いやあ、びっくりした。果たしてなぜイタリアにこんなに速い列車が必要なのか、という疑問は残ったとしても。

 

 

 で、ナポリには1時間8分で到着。

 

 

 ナポリを見て死ね・・・・今回われわれが目にしたナポリはこれだけ。

 前日、あさプリンセスが体調を大きく崩し、当初パパとびっきーだけで行ってざっと見てからナポリ見物して帰るか、なんてことも話していたのだった。しかし、二人で来なくてよかったぜ。乗り継ぎの列車なんてどこから出るんだかさっぱり分からない。結局、親切なおじさんが、結構歩いて乗り継ぎ駅まで案内してくれた。で、親切に対して案内料を要求されたけれども。ま、本当にこれがなければ大変だっただろうから仕方あるまい。ところで、ナポリ見物なんてとんでもない、結局われわれは遺跡の中を終日さまよったのであった。

 

 

 これが、「ナポリ・セントラル」駅構内からアクセスできる「ナポリ・ガリバルディ駅」。ポンペイ遺跡に続く路線の駅である。

 

 

 ポンペイ駅到着。「Pompei Scavi~Villa Del Misteri」というのが駅の名称および副題。

「ポンペイ」は別線に「Pompei」という名称の駅があるので「ナポリ・セントラル駅」からどの路線に乗るのか注意。われわれが乗ったのはTrento行きである。

 

 

 いよいよ到着。遺跡自体は、駅からすぐなので迷うことはない。まずチケットを購入し、すぐ前の店で朝食。

 

 

 では、入るとするか。

 

 

 入り口脇に見える「郊外の浴場」。城壁をまたぐような形で建設されたこの浴場は私設。上の階では売春が不法に行われていたらしい。発掘時期は1960年、1985-88年。

 

 

 「マリーナ門」。ポンペイの市街地の西の入り口に当たる。紀元前89年、ポンペイがルキウス・コルネリウス・スッラによりローマの植民都市になったころ建設され、7つあった門の中では最大のものである。ここから海へと道が続くためこの名で呼ばれた。小さい入り口は歩行者用、大きいものは馬やロバなど用。発掘時期は1862年-1863年。

 

 

 入場してすぐ右に「アンティクアリウム(出土品館)」がある。ビジターセンターになっており、こちらでトイレに行っておく。中に入ってしまうと、トイレは数箇所しかないので要注意。

 さて、今回のポンペイ訪問でパパがもっとも見たくないなと思っていたのがこれ。この石膏像は、犠牲者たちの体が火山灰に埋もれ、長い年月の間に空洞化したところに石膏流し込んで作られたもの。制作方法を知ってちょっと気が晴れたものの、やはりなんともねぇ。

 ところで、今参考にしているのは、チケット購入時に無料でもらうことができた日本語のガイド本。これが、小冊子ながら当該スポットの写真も分かりやすく総計150ページにも及ぶもので、個々のスポットについての解説も丁寧で、現地では大変重宝した。

 

 

 ヴェスヴィオ火山。紀元79年8月24日に突如、噴火。煙と粉塵で3日間、空を暗くし、火山灰や軽石をポンペイに間断なく降り注ぎ、最後には火砕流によりポンペイを壊滅させた。まず62年2月5日に大地震がこの一帯を襲ったのち、ローマ人の余暇地として最盛期には2万の人口を擁していたこの都市からはすでにかなりの人が脱出して人口も減っていたようだが、ヴェスヴィオ火山の大噴火はこの地にとどまっていた人々でさらに逃げ遅れた人々約2千人の人命を奪ったという。

 

 

 「船乗りの家」。写真は入り口のモザイクで、造船所に停泊する6隻の船の帆を描いたもので、家の名の由来となった。この家が造船所のように安全な場所となるようにとの祈りを表したものか、はたまた家主が船主であったのか?1859年、1871年、2014年発掘。

 

 

 「トリプトレモスの家」。この家はバジリカのすぐ前、政治・経済の中心であるフォロの隣という最高級エリアのうちの一軒。トリプトレモスはギリシャ神話の英雄で、トリクリニウムにあるフラスコ画の画題にちなんでこの家は名づけられた。ちなみにトリクリニウムはローマの家にある食堂。そこに置かれていた「3つの寝台」を意味する言葉から派生したもので、そう、ローマ人は寝そべって食事したのである。この家の建設は紀元前2世紀。発掘は1859-1871。

 

 

 道ひとつをはさんで、フォロ(1500㎡)の中にある「バジリカ」。紀元前130-120年頃の建設という。司法業務や裁判に使われていた。発掘は1806、1813、1820、1928、1942、1950年。

 

 

 「フォロ」風景。フォロとは英語で言うところの「フォーラム」である。今では公開討論を表す言葉だが、それを行う場所を指した。司法活動、事業管理、市場などの公共建築、あるいは主要な信仰の場がフォーラムに面して立ち並んでいた。発掘は1813年。

 

 

 「計量台」。商売で商品の容量を確認するための作業台。ローマによる植民となった紀元前89年にはローマの重量・寸法体系が導入されたため廃止された、というから、それ以前からのもの。この写真はレプリカで、本体は1816-1817年に発掘され、現在ナポリ国立考古学博物館にある。

 

 

 フォロの西に位置する「アポロの聖域」。本来がギリシャ人による植民都市ということもあり、このアポロの聖域がポンペイではもっとも古い信仰の場のひとつである。発掘時期は1816-1817、1931-1932、1942-1943、1997、2015-2017年。

 

 

 こちらはフォロの西側にある「穀物倉庫」。レンガの柱で仕切られ、8つの開口部を持つ建物で、果物と野菜の市場として使われていた。現在はポンペイ最大の考古学品の倉庫として使われているが、最終的にはポンペイの住民の日常生活と最後の瞬間を取り扱う博物館になる予定だそうだ。発掘は1816-1822年。

 

 

 「儀式のアーチ」。かつてはレンガ造りの上に大理石で化粧張りされていた2つのアーチのうちのひとつ。発掘時期は1816年。

 

 

 「フォロの浴場」。紀元前89年にスッラによりポンペイがローマの植民都市となり間もなく建設されたというからローマ文化とはある意味、風呂文化なのだなと思わされる。ところで、このスッラだが塩野七生氏の「ローマ人の物語」にも登場する共和政時代のローマ史を彩る英傑の一人。「勝者の混迷」でも『マリウスとスッラの時代(紀元前120年~前78年)』にも詳しい。

 

 

 この浴場も紀元62年の地震で深刻なダメージを受け、その後の修復工事の跡が、こうして現在も残っているらしい。発掘時期は1823年-1824年。

 

 

 「テルモポリウムⅥ 8,8」。現在ポンペイでは市街地の3分の2の発掘が終了されているが、89店のテルモポリウムが確認されている。テルモポリウムとは温かい食べ物を出す小さな飲食店である。職人や商人たちは店と兼用の住居で生活と仕事をしていたのだが、たいてい台所がなかったので、こうしたテルモポリウムを利用していたらしい。発掘は1820年代。

 

 

 「悲劇詩人の家」。奥にアトリウムが確認されるこの家の入り口には、「犬に注意」のモザイク。「悲劇詩人」は中にあるモザイク作品に由来。イギリスの作家エドワード・ブルワー=リットンが1834年に発表した「ポンペイ最後の日」は実際にポンペイ旅行をして想を得た作品で、この家の内部が舞台に設定された。旅行後、1959年制作のこの映画化作品(マリオ・ボンナルトとセルジオ・レオーネ監督作品)を我が家では一家で鑑賞したが、最初は「モデルみたい」とその特撮を軽んじていたびっきーも、最後は「少し怖かった」という。なかなか良くできた冒険活劇だった。

 この家の発掘時期は1824-1825年。

 

 

 「サルスティウスの家」。

 もともとこの一帯は、イタリア先住民族であるオスキ人と呼ばれる人々のすみかだったが、紀元前6世紀に当時の大国エトルリア人に占拠された。住人たちはギリシャ人と組み、これに対抗、ついに紀元前5世紀にはポンペイはギリシャ人の植民都市となる。同世紀後半から山岳地帯に住む先住民族系のサムニウム人の侵略を受け、紀元前424年から彼らの支配を受けるようになった。その後たびたびローマとの間に勝ったり負けたりの戦争を繰り返した後、ローマに降伏。独立国家(当時は都市国家が単位である)としての体裁を保ちながらもローマと同盟。のちに反ローマ同盟市戦争で負け、ついにローマの植民都市となったのだった。

 で、この「サルスティウスの家」だが、サムニウム時代の最重要住居のひとつという。紀元前180年頃の建設と推定。壁の装飾はポンペイで最もよく保存された例の一つ。発掘は1806-1808、1969-1971、2005-2006年。

 

 

 「パン焼きかまどの家」。もともと紀元前2世紀に建てられた建物が62年の地震の後修復されてパン屋になった。地上階は店で、住居空間は上の階だったと推定される。パン屋はポンペイ全体でこれまで30以上も確認されているという。発掘時期は1809-1810年。

 

 

 「フォルトゥーナ・アウグスタの神殿」。フォルトゥーナは英語のfortuneの神格化、つまりは運命の女神、そこに皇帝アウグストゥス(在位27-14年)信仰も重なっているというから、ややこしい。地元の特権階級が皇帝一族への指示を公に示す場であったという。神殿内の聖像安置室にはフォルトゥーナ女神の像が置かれ、両側のニッチには皇帝一族の像が並んでいたという。発掘は1823-1824、1826、1859年。

 

 

 「いかりの家」は入り口床のこのモザイクがその名の由来。この家の構造はポンペイでほかに類がないような独自な構造になっているようだが、中が見られないのは残念。1826-1827、1828-29発掘。

 

 

 ほかにもこんなモザイクの家が。

 

 

 「小さな噴水の家」。入り口を入った瞬間に奥の庭園にある噴水が見ることができて、所有者は相当高い地位の人物だったのだろうと思われる。

 

 

 これが名の由来になった噴水。2015年に修復された噴水は多色のモザイクと貝殻で装飾。漁師とキューピッドのブロンズ層が置かれていた(レプリカが展示)。

 

 

 発掘時期は1826年ー1827年。

 

 

 「ディオスクロイの家」。ポンペイ晩期の建物の中ではもっとも広く壮麗なもののひとつ。

 

 

 入り口の壁画が、ディオスクロイ。ディオスクロイというのはゼウスの子供である双子の兄弟、カストルとポルクスのことである。ローマが王政から共和制に切り替わったときの混乱に乗じ、当時の大国エトルリアがラテン同盟を結成してローマに挑戦してきた折、戦いを最終的にローマの勝利に導いたと人々が信じた双子の騎士のことは先にも書いた。

 発掘は1826、1828-1829、1837年。

 

 

 「傷ついたアドニスの家」

 

 

 入り口のゲイトの間からかろうじて壁画が右に見えるがこれが瀕死のアドニスと女神アフロディテを描いたものである。1835-1838発掘。

 

 

 

 「ファウヌスの家」はポンペイの家の中でも最大級のもののひとつ。およそ3000㎡のひとつの街区を完全に占有。二つのアトリウムとぺリスティリウム(中庭)があったというから、まさしく通常の2倍の豪邸。

 

 

 アトリウム中央のインブルヴィウム(雨水受けの四角形の水槽)の中央の「踊るサテュロス」。サテュロスはギリシャの半人半獣神。ローマでは森の精霊「ファウヌス」がこれに相当し、家の名の由来となった。

 

 二つの中庭の間にある居間にはこのモザイク画。

 

 

 マケドニアのアレクサンダー大王。

 

 

 ペルシャ王ダリウス。イッソスの戦いは紀元前333年10月、ギリシャ同盟国軍(コリントス同盟)4万を率いる「神の子」にしてマケドニアの国王アレクサンダーと「諸王の王」ダリウス(ペルシア国王)の大軍(5万から10万だろうと推定)が激闘を演じ、ギリシャ側の勝利に終わった決戦。遠征中に早逝したアレクサンダーがローマに向かっていたら・・・?というイフは歴史を研究する学徒にはたまらないテーマのようだ。この頃のローマは中南イタリアに進出するも山岳民族サムニウム人(つまりは当時このカンパニア一帯に住む人々ですな)のゲリラ戦に勝ったり負けたりして苦労していた、そんな時代である。それでも紀元前290年にサムニウム人は最終的にローマの軍門にくだり講和。ポンペイも「ローマ連合」の一同盟国となった。ポンペイがローマの植民都市化するのはローマに反抗した同盟市戦争に敗れスッラに征服された紀元前89年からである。

 

 

 帰ってきてからロバート・ロッセン監督、リチャード・バートン主演の1956年公開の「アレクサンダー大王」鑑賞。史実を良くまとめてあり興味深かった。さて、上のモザイクはレプリカ。本物はナポリ国立考古学博物館。この「ファウヌスの家」の発掘は1829-1833、1900、1960-1962。

 

 

 「ウェッティウス兄弟の家」。ポンペイで最も贅沢な家だったそうだ。解放奴隷出身で商売でひと財産を築いたウェッテイウス兄弟なる人物が所有していた。古代ローマの奴隷制というのはなかなかにおおらかなもので解放奴隷ともなるとローマの市民権を得て次の世代には上流階級入りもまれではない、そんなシステムだったようだ。

 

 

  ある部屋ではエウティキスという名の女奴隷が安値で娼婦の商売をしていたという。

 発掘時期は1894-1895。

 

 

 「アラ・マクシマの家」。「アラ・マクシマ」とは「Ara Massima」でGreat Altar(大きな祭壇)の意。ひとつの祭壇のところに立つヘラクレスを描いたフラスコ画から名が由来。どれがそうだか分からんが、とにかくいろいろフラスコ画。

 

 

 発掘は1903年。

 

 

 「金色のキューピッドたちの家」は、帝政期の住居としてはもっとも洗練されたもののひとつだったそうで、ガイド本の写真も壮麗なものが載っているが残念ながら入れず。発掘は1903-1905年。

 

 

 「古代の狩猟の家」。

 

 

 正面にあるのは2016年に修復されたフレスコ画で、アポロとニンフ、ダイアナと水浴中の彼女の裸体を見てしまったために鹿に変えられた猟師アテオンが描かれている。狩猟の情景を描いた絵は別の部屋に。発掘は1823、1833-34。

 

 

 「ポピディウス・プリスクスのパン屋」。ここには5基ものひきうすが残されている。ほかの店同様ここも製粉所と店が一続きになっているが売り台用のカウンターがなかったことから、卸売りあるいは行商人たち専用の店ではなかったかと考えられているという。

 

 

 発掘は1820年代。

 

 

 われわれも一休み。