ローマ紀行 2月16日(金)その2 ヴァチカン市国 | 子育てミュージシャン・ロンドン日記

子育てミュージシャン・ロンドン日記

とある中年しかし新米パパ・ミュージシャンの子育て日記 in ロンドン

 ヴァチカン博物館から回ることにし、そちらに近いCipro-Musei駅で下車。天下のヴァチカンである。なんとなく構えて行ったのが、地上へ出てびっくり。何の変哲もない光景。

 

 

で、この何の変哲もない光景をなんとなーく歩いていくと・・・・。

 

 

 少ーしずつ雰囲気が出てくる。

 

 で、この城壁に出くわす。

 ヴァチカン市国などというものだから、一応は国境警備の体裁だけでもあるのかなと思っていたところが、要は城壁都市である。

 このあたりはローマの7つの丘からも離れており、もともと古代ローマ時代はウァティカヌスと呼ばれた湿地帯だったらしい。帝政時代に湿地は干拓され、貴族の庭園となり、カリグラ帝は訓練用の競技場を建設、ネロ帝により拡大。多くの共同墓地もあり、そこから聖ペテロのものと考えられる墓が確認された。やがてここに多くの巡礼者が訪れるようになり共同墓地は拡大、さらにキリスト教を正式に国教化したコンスタンティヌス帝により324年により、「聖ペテロの墓」の真上に聖堂が建設。城壁がめぐらされたのは、教皇レオ4世(在位847-855)のとき。以来数百年を経て経て内部は宮殿化していった。アヴィニョン捕囚(1309-1377)から教皇がローマに戻ってきてからは教皇の常住の地となった。

 ところで、歴史物を読んでいるとたびたび眼にするこの「アヴィニョン捕囚」だが、この際だから調べてみた。当然のことながら泥沼化し、さっぱり前に進まなくなったわけだが、簡単にかついい加減にまとめてみるとこういうことらしい。ローマ教皇庁自身は大した武力を持っておらず、その権威と政治力でこれまでヨーロッパの諸国のパワーバランスの合間を縫って生き延びてきたわけだが、この頃には教皇庁も弱体化、それに対しヨーロッパではフランスが強大な力を持ち、たびたび教皇と対立。ときのフランス国王はフィリップ4世(在位1284-1305)、財源として教会から税金を取り立てようとしたのだがときの教皇はこれを拒否。このときのトラブルが元で教皇は憤死。一人の後継者を経て、次の教皇に選ばれたのが、フランス出身、ボルドー大司教だったクレメンス5世(在位1305-1314)。教皇選びも当然、当時の諸国のパワーバランスを反映するわけである。結局クレメンスは一度もローマ入りを果たさぬままアヴィニョンへの教皇庁移転を決める。だから捕囚というよりも保護を求めたという見方もできるらしい。その間に神聖ローマ帝国のハインリヒ7世によりイタリアが侵略されたり(このあたりの話もどこに「大義」があるのかさっぱり分からず、面白いが、深入りしない)して結局教皇庁が再びローマに戻るのは1377年、神聖ローマ帝国のカール4世の仲介による。教皇グレゴリウス11世(在位1370-1378)のときである。

 

 

 ここを入っていくと、ヴァチカン博物館へと続く。

 

 

 ピーニャ(松かさ)の中庭。アルナルド・ポモドーロによる1990年のブロンズ作品「Sphere within a sphere」、直径4m。

 

 

 これが「松かさ」。ローマでは「繁栄」の象徴だった。まさしく「ローマの松」である。

 

 

 まずはじめに入ったのはキアラモンティ美術館。「館」とはいうものの、実際には分室・コーナーであって、キアラモンティ家出身の教皇ピウス7世(在位1800-1823)により創出されたコーナー。

 

 

 キアラモンティ美術館に続いて同じくピウス7世による「ブラッチョ・ヌオーヴォ(新しい棟)」に移動。すぐに目に飛び込むのは教科書でもおなじみのこの像、「プリマ・ポルタのアウグストゥス帝」。戦いの前に兵士たちに演説をする初代皇帝の勇士。いやあ本物を前にすると、やっぱり感動する。紀元前1世紀初め。

 

 

 「傷ついたアマゾン」。紀元前430年のギリシャ彫刻の、ローマ人による複製。

 

 

 「ナイル川」。なんでも神様にしてしまうローマ人はナイル川を、スフィンクスに寄りかかる横たわる男性として表した。たくさんの子供たちは、豊穣の象徴である。ローマのイシリス・セラピス神殿のヘレニズム彫刻を紀元前1世紀に複製したもの。

 

 

 善政で人気のあったティトゥス帝(在位79-81)。ポンペイ壊滅のときの皇帝である。

 

 

 ティトゥス帝とは対照的に悪評高いのは弟のドミティアヌス帝(在位81-96)。芸術と建築の愛好家でもあった。

 

 

 八角形の中庭はピオ・クレメンティーノ美術館。美術館全体の中で最も古い部分であり、イタリアにルネサンスの最盛期をもたらした美術パトロンとしても名高い教皇ユリウス2世(在位1503ー1513)の古代美術コレクションが展示されている。

 

 

 こちらは能弁・発明・策略・夢と眠りの神にして死者の魂をアンダーワールド(冥界)に導く案内人でもあるギリシャ神ヘルメス(ローマではマーキュリー)の像。1540年にハドリアヌスの霊廟近くで発見された、ハドリアヌス帝(在位117-138)時代の作品。当時の教皇パウロ3世(在位1534-1549)によって購入された。

 

 

 ゴルゴン3姉妹の一人、メドゥーサ殺し始め数々の冒険譚で名高いペルセウス。こちらは1800年から1801年にかけてアントニオ・カノーヴァ(1757-1822)によって制作された、彼の代表作のひとつ。

 

 

 紀元前2世紀のギリシャ彫刻の、紀元1世紀の複製ラオコーン像。ラオコーンはイーリオス(トロイ)の神官。トロイの木馬をイーリオス市内に運び込もうとした市民をとどめようとしたトロイの神官だが、かつて彼は神殿内で妻と交わったことがありこれがアポロ神の怒りを買い、罰として、両目をつぶされた上、二人の息子は海蛇に食われる、という罰を受けた。この像自体は1506年エスクィリーノの丘で発見されたが、すぐにロードス島の彫刻家たちによる傑作と名高かった作品と識別されたという。発掘を見学に来ていたミケランジェロに感銘を与えたという。

 

 

 ベルヴェデーレのアポロン。紀元前4世紀のギリシャ彫刻の紀元2世紀ローマ時代の複製である。ユリウス2世の、枢機卿時代のコレクションがヴァチカンに移されたのがここにある由来の初めである。1792年にフランス革命政府と教皇庁の間で調印されたトレンティーノ条約(教皇庁の譲歩)により、一時フランスへ移されていたが、この間に「空き部屋」となっていた空間に、先のペルセウス像がピウス7世(在位1800-1823)によって購入され、配置されたという。現在では2体ともヴァチカン美術館を代表する至宝である。

 

 

 こちらは円形の間。床の見事なモザイク。並ぶのは古代ギリシャ・ローマの神々や皇帝(皇帝も死後、神格化された)。

 

 

 こちらはヘラクレス。

 

 

 ゼウスの妻であるヘラ。ローマ神話ではゼウスに当たるのがジュピターなのでヘラはジュノーである。

 

 

 第4代皇帝クラディウス。先のカリグラ帝が破綻させた国家財政を立て直し、ブリテン南部を征服するなど業績をあげた皇帝だが、難病を抱えており肉体的能力には恵まれなかったという。神格化されるとこうなる。一説には妻に毒殺されたとも。

 

 

 地図のギャラリー。長いギャラリーで、教皇グレゴリウス13世(在位1572-1585)の依頼を受けた建築家オッタヴィアーノ・マスケリーノにより1578年から1580年にかけて作られた。装飾はジローラモ・ムツィアーノトチェーザレ・ネッビアという難しい名前を持つ人の監督下で完成。上の地図は、われわれも数年前に訪れたサルディーニャ。ちなみにこの教皇は現在の暦であるグレゴリオ暦をそれまでのユリウス暦に変えて採用した人である。

 

 

 「ヘリオドロスの間」の「ヘリオドロスの神殿からの追放」。ラファエロによるフラスコ画。教皇の私的謁見の間だったという。

 

 

 「署名の間」(1508-1511制作)の同じくラファエロによる「聖体の論議」。もともと図書室だった部屋である。

 

 

 「ラファエロの間」(1508-1524制作)のフラスコ画。上は「アテネの学堂」。有名なプラトンとアリストテレスのイメージ。

 

 

 ヴァチカン美術館はモダン・アートのコレクションも素晴らしく、上の作品はゴッホのピエタ。

 

 

 ここからの作品はマリノ・マリーニ(1901-1980)。上は「Cavaliere」(1936-37)で、この作品をパパがはじめて見たのは、確か中学のときの美術の教科書の中。現代の作品なのに不思議とアルカイックな洗練美が非常に強烈で、ずっとマリーニの名前とこの作品のイメージは覚えていたのだった。今回改めて調べてみると、このマリーニは古代ローマにも特にテクノロジーの面で強い教化を与えた当時の最先進国家エトルリア(BC8-BC1)美術の影響下、作品を作っていた作家だという。

 

 

 上の作品は「Il grido」(1962)。以上マリーニの作品だった。

 

 

 ルチオ・フォンタナ(1899-1968)は、カンバスに切り込みをいれた「空間概念」でしか知らなかったが、実際にはこういった具象=抽象的な作品も多いようで、この作家に対するパパのイメージは一新した。

 

 

 上の2点はマティスの巨大な作品だが、これだけシンプルな意匠で空間を支配しきってしまう「力」に圧倒された。

 

 

 上の2点はルオー。

 

 

 そして藤田嗣二!

 

 ここからミケランジェロのかの有名な「最後の審判」があるシスティーナ礼拝堂へ向かうのだが、写真撮影禁止。ここまでずっと人類の至宝に対して寛大だったのだから、異存なし。

 

 

 まだまだ続く・・・ではサン・ピエトロ大聖堂である。これが「聖なる扉」(1950年制作)で約25年ごとにカトリックでは巡ってくる「聖年」のときだけ開かれる。

 

 

 1499年、ミケランジェロによる「ピエタ」。制作当時のミケランジェロはまだ若く無名に近い存在だったようで、そんな裏事情が読み取られるような若々しい聖母マリア像は当時も若すぎるという批判を呼んだようだが、こうやって自分が親となった身で見てみると、子供はいつまでも子供で、子を失った悲しみに若いも老いも関係なかろうと。だからこれが良いのだ。

 

 

 ミケランジェロによる大キューポラの下にはベルニーニによる天蓋。30メートル!

 

 

 こちらもベルニーニによる「教皇アレクサンデル7世の墓碑」(1672-1678)。写真では分かりにくいが真ん中の大理石のカーテン下にはガイコツが・・・カーテンの上に少し突き出て見えるのは、ガイコツの腕が掲げる砂時計。

 

 

 1300年頃の作品「祝福を与える聖ペテロ」。当時の巨匠アルノルフォ・ディ・カンピオによると考えられている。右足をなでるとご利益があるそうな。なでなで。

 

 

 勉強をしてから行ったわけではないので、いったい何がなにやら。ま、それはこうやって書いている今だって大して変わりはないが。

 とにかくこうしてこの1日も過ぎていったわけだ。

 

 

 夜のサンピエトロ広場と教皇宮殿。

 

 

 古代エジプトのオベリスクのひとつ。25メートル。ところで、古代エジプトの「真性」オベリスクは現在30本残っているそうで、そのうち13本がヴァチカンも含めたローマにあるそうだ。イギリスにも2本。偉大なりローマ帝国。

 

 

 やっと夕食。パパはボンゴレ。

 

 

 カルボナーラ。びっきーとあさプリンセスは同じものだったのかな?

 

 

 「Tagliata di Manzo」、牛のスライス、ルッコラにパルメザンチーズ、バルサミコにオリーブオイル。美味なり。