ドラマ「らんまん」の主人公植物学者 牧野富太郎についてー。夫としては、落第点だった!? | kosodatedokusho@お姉ちゃんは天才児!?

kosodatedokusho@お姉ちゃんは天才児!?

発達障害の子どもたちと家族の日常をイラスト&文章で載せています。
親子で大好きな本についての話も!

連続テレビ小説「らんまん」で話題の牧野富太郎、以前「とと姉ちゃん」と恋の話で話題になった星野武蔵が憧れる人物でもありましたね。

 

当時は、牧野富太郎については、今ほど話題に上がらなかった気がします。しかし、おねえちゃんの理科の教科書には、キャラクターとして登場していたので、おねえちゃんを連れて東京の東京にある牧野富太郎植物園に行ってきました。

 

池袋から西武池袋線に乗り、大泉学園駅で下車。南口から徒歩5分程度。

 

余談になりますが、大泉学園駅は、アニメの街としても有名です。駅前には、銀河鉄道999に登場するメーテルなどはじめ、いろいろなオブジェもあり一緒に写真を撮ったりして楽しめます。当時、駅には大きなプリキュアオールスターズの絵もあって、まだ幼いお姉ちゃんは、大興奮でした。別の日には、大きなイベントもあり、ショーを観たり、アニメに使う道具で絵を描いたりして、とても楽しかったです。


さて、話題を牧野富太郎に戻しましょう。

彼は、日本の植物学の父と呼ばれる人で、彼が発見、命名した植物は、なんとおよそ1500種、日本の植物の約3分の1とも言われています。彼の研究は、その後、日本の多くの植物学者に影響を与えました。

それまでの日本では、植物分類学が十分に確立されておらず、せっかくの新種を見つけたとしても、それが本当に新種なのか分からなかったため、その多くがロシアをはじめ外国の研究者に送られ、そのため、日本名としての植物名がなかったといいます。

驚くことに彼の学歴は、小学校を2年しか行っておらず、しかしながら、持ち前の好奇心と努力により独学で研究を続け、その経験と知識を、東京帝国大学(現在の東京都立大学)の教授に認められ、東京大学理学部植物学教室に出入りことを許されます。

なかでも有名なのは、彼が東京大学研究者と共著となっている「日本植物志図篇」でしょう。とても大きな本で、とても驚きました。

なかの植物の挿絵は彼が筆により手書きで仕上げたものー。彼の画力は素晴らしく、ロシアの植物学者マキシモヴィッチも彼の書いた植物の絵を称賛しています。

そして何より、彼のすごいところは、実際に山に入り、植物を持ち帰り、標本にしたというところです。

行く先々で植物を見つけては、同じ植物でも1本のみならず、何本も持ち帰ったという富太郎。

一時はその植物見本が残るか心配されたことがありました。(あまりにも量が膨大なこと、温度、湿度が管理できる特別な場所でないとならなかったこと、富太郎氏の資金繰りが難しかったため、その標本を外国の研究者に売るという話がでたこともありました。)

 

彼が、亡くなった後、その膨大な標本をどう保存するかなど、心配をされましたが、現在は東京大学研究室にあります。

その量は、40万点―。彼が亡くなった後、研究者が標本を整理するのに、10年かかったというからには、標本の多さがわかるのではないでしょうか。

若い頃、研究者として苦労を重ねた富太郎でしたが、晩年になって、初めて東京都から名誉都民として称えられ、朝日新聞社からの表彰をはじめ、数々の功績を称えられます。


昭和天皇は植物研究に熱心だったといわれていますが、富太郎も皇居に参内して天皇陛下と植物のお話をされたそうです。

牧野富太郎植物園には、彼が命名した植物、生前住んでいた家を丸ごと覆うように建てられた建物など富太郎の世界を感じることができます。

戦時中、戦火から植物標本や蔵書を守るため、愛する妻のため、ここに移り住んだといわれています。

植物園の中に入ると、まず目に入るのは、「スエコザサ」

この「壽衛(すえ)」こそ、彼の研究を支えた彼の妻です。

富太郎は、前述の通り、研究者としては、素晴らしい功績を残しましたが、一緒に暮らすとなると苦労が絶えなかったようです。

富太郎の生まれは、高知県。
有名な造り酒屋「岸屋」の跡取りとして生まれ、幼くして両親を亡くし、祖母に育てられます。彼自身も病弱で健康増進のため、灸をすえられたといいます。

幼い頃は、兄弟もなく、近くに遊び友達もいなかったため、裏山が彼の遊び場でした。後にこの山で遊んだことが、彼が植物に興味を持つことに大きな影響を与えたことだといわれています。

十分なお金があり、働かなくても良く、何でも自分の自由にできた富太郎は、私財を投じて、植物の研究に励みます。

 

そして、あんなに裕福で栄えていた商家も、研究にお金を使い果たした結果、最後は人手に譲ることになります。

そして、性格もとても頑固なところがあり、融通がきかなかったといいます。例えば、大学教授に地位もわきまえず、教授の間違いをズバズバと言ったり、頭を下げれば事が丸く収まるところ、自分に非はないからと断固拒否したりと幼い頃から「坊ちゃん」と自由に育てられたことも一因なのではと考えざるをえません。

しかしながら、その人柄は一緒に植物採集にいった多くの人が魅力的だと答えています。植物採集をしに行った山で撮った、笑顔の写真は、まるで少年のようです。

さて、壽衛はなぜ彼と一緒になったのでしょうか?

壽衛もまた広大な屋敷を持つ元士族の次女として生まれ、踊りや唄を習う毎日を過ごし、世間ずれしていなかったといいます。


甘いものが大好きだった富太郎、甘いものを買いにいった菓子店で働いていた美しい壽衛に一目惚れします。


そして、なんとラブレターを代筆してもらい、壽衛(スエ)と結ばれることとなります。

牧野28歳、壽衛17歳の時でした。


しかし、結婚生活はいつもお金に苦労していたといいます。
何しろ、彼が貧乏を知らないで育ったので、金銭感覚がありません。


大学にいくのに、人力車を使い、

「研究にかけるお金は糸目をつけるな」
と後輩にも指導しているほどです。


大学へは通うものの、あくまで大学教授に会い、研究を続けるのが目的で、当然のことながら、生活は借金だらけで、借金取りには、居留守を使うのが常だったそうです。


もし、万が一富太郎が、借金取りと鉢合わせをしたら、さあ大変ー。
そこで、壽衛が考えたのが、家に借金取りが来ている時は、2階に目印として黄色い布を出しておくというもの。


これで、家に取り立てがきているときは、帰らず逃げることができます。
実際、植物採集などの旅行にいくため、不在も多かったといいます。

 

壽衛は、富太郎との間に13人もの子どもがいます。そんな中、大きくなるまでに多くの子どもを病気などで幼いうちに亡くしています。当時としては、子どもが亡くなるということが珍しくはなかった時代ではありましたが、それにしてもそのような状況が何度となくあり、どんなに辛かったことでしょう。


さて、一家に余りにもお金がなかったため、壽衛は案じた結果、小料理屋を始めます。
これが、流行って、何とか生活を取り戻すことができた壽衛にまた新たな試練がふりかかります。


小料理屋は大学で働く者の妻としてふさわしい仕事ではないので、大学側からやめなさいと言われてしまったことです。それまでは、大学に秘密にしていましたが、お店の評判も良かったことからおかみとして働いていたことがバレてしまったのです。

 

その頃、やっと帝国大学理科大学助手になった(大学での職を得た富太郎(それまでは、無給で研究を続けていたのです。)、
考え抜いた末、小料理屋を手放すことにした壽衛。

 

その後、研究の功績が認められ、後輩たちの力添えもあり、やっと生活が順調に生き始めます。

念願だった自分の家も持つこともできました。

 

そんな矢先、壽衛は、病気にかかり、命を落としてしまうのです。
この時、富太郎は研究のため旅行から帰ったばかりで、実はその途中で発見した植物が新種ではないかと調べている途中でした。


そのため、生前彼の研究を支えてきてくれた妻のために、新種の植物を「スエコザサ」と命名したのです。


ここに壽衛のために富太郎が詠んだ歌があります

家守りし妻の恵みや我が学び 世の中のあらむかぎりやすゑこ笹

 

この世がある限り、このスエコ笹は繁茂する

という意味です。


富太郎をここまで支え続けた壽衛ー。
ここまで頑張れた理由は、彼の人柄ゆえなのか、彼女の性格なのか、はたまた時代なのか、彼女の心の内をぜひとも知りたいものです。

 

参考文献

当時の図書館には、古い伝記しかありませんでした・・・。

 

氷川瓏 著 ポプラ社 1977 (子どもの伝記全集 ; 39)

 

 

 

佐藤七郎 「牧野富太郎」 国土社 1962年 少年伝記文庫

※国立国会図書館リサーチへリンクしています(目次等詳細があります)

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000448678-00

 

山本藤江 「牧野富太郎」 偕成社 1959 児童伝記全集

※国立国会図書館リサーチへリンクしています(詳細があります)

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000797108-00

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。
Kosodatedokusho