龍馬暗殺事件の犯人は誰だったのか? | 浮世な世界

浮世な世界

歴史好きの男子学生が史跡やお城をまったりと紹介するブログです!

※ブログ内の写真や文章の著作権はすべて管理者に属しています。
 もし写真(公私問わず)を使用したい方はブログにメッセージをお願いいたします。



祝日の今日になぜか学校に行ってました(しかも5時起きでorz)。


電車の中でいつものようにヤフーニュースを見ていたら、龍馬伝の記事が載っていました。


どうやら龍馬を暗殺する人物の役をやりたい人が殺到しているようです。


昨日の龍馬伝で3章が終わり、来週からついに最終章となります!


そこで、注目されるのは龍馬を暗殺する人物を誰にするかということでしょう。


現在に至るまで、坂本龍馬・中岡慎太郎を殺害した人物は特定されておらず、幕末最大のミステリーとなっています。



浮世な世界-DVC00512.jpg


浮世な世界-DVC00511.jpg



↑殺害された坂本龍馬と中岡慎太郎です。






そのため、犯人についても様々な説があるのです。


そこで今回は龍馬が暗殺された当時の状況と諸説ある犯人についてご紹介したいと思います。

さて、まず事件の全容をご紹介したいと思います。



1867(慶応3)年11月15日、龍馬と慎太郎は京都河原町の醤油商近江屋の2階で話し合っていました。



浮世な世界-DVC00409.jpg

↑現在近江屋があった場所はコンビニになっており、入り口には碑が立っています。



午後8時頃、近江屋の戸を叩く音が。


下僕が応対に出ると「十津川の郷士の者だが、才谷先生にお目にかかりたい」と告げます。


この十津川とは、奈良にある勤皇思想の強い藩のことで、京を逃れた志士達をかくまっていたことで知られていました(龍馬も仲井庄五郎という知り合いがいたらしいです)。


このとき、龍馬が近江屋にいたことは限られた人数しか知らなかったらしいので、知り合いだと下僕は勘違いしたのでしょう。


才谷とは龍馬が好んで使っていた偽名です(才谷梅太郎と名乗っていました)。


下僕はいきなり男に斬りつけられます。


ほどなくして、龍馬のいる部屋に2名の男が現れ龍馬の頭を水平に斬り付けます。


当時龍馬は風邪を引いており、部屋も薄暗かったこともあり反応が贈れ、回避する暇もありませんでした。


この他に数回斬り付けられ、慎太郎も同じように斬り付けられます。


やがて男達が去っていくと、龍馬は慎太郎に声をかけ「脳をやられたから、もう駄目だ」と、言い残し絶命します。


慎太郎もその数日後に死亡してしまうのです。



以上が、暗殺当時の全容で、一般的に近江屋事件といいます。



では次に誰が犯人なのかということなのですが、さきほども言ったように様々な説があるので、代表的な説をご紹介します。



京都見廻組説

おそらく現在一番信憑性が高い説だと思われます。


龍馬伝でもこの説を取り上げるとニュースの記事に書いてありました。


京都見廻組とは幕府によって設立された治安維持部隊のことです。


見廻組が犯人として浮かび上がったのには、1869(明治2)年、元新撰組隊士の大石鍬次郎(おおいしくわじろう)が「見廻組が龍馬を殺害した」という証言をしたからだといわれています。


明治政府はこの証言に基づき、見廻組の1人であった今井伸郎(いまいのぶお)に尋問をします。


すると今井は、隊長の佐々木只三郎(ささきたださぶろう)の命令で見廻組が殺害し、自分は見張りだったと自供したのです。



また、見廻組には龍馬を殺害する動機もありました。


それは1866(慶応2)年に起きた寺田屋事件です。


幕府役人包囲された龍馬はピストルで応戦しましたが、このとき役人を射殺しています。


つまり見廻組は、自分の仲間が殺されたので、その報復をしたというのです。


しかし、今井はその後何回も供述を変えたりと不振な行動をしているので、一部からはただの売名行為に過ぎないという意見もあります。




・新撰組説


浮世な世界-DVC00374.jpg



↑新撰組局長の近藤勇です。

写真は壬生寺で撮影しました。




事件当初は新撰組が犯人という説が有力でした。



というのも、近江屋に下駄と刀の鞘が残されていたからです。


下駄は瓢亭(ひさごてい)という料亭のもので、新撰組の隊士に貸したことが明らかにされました。


また、元新撰組隊士の伊東甲子太郎(いとうかしたろう)に鞘を確認してもらうと、隊士の原田左之助(はらださのすけ)のものだと証言。


これを裏付けるように、まだ息のあった慎太郎に確認させると、犯人は「こなくそ」という言葉を使っていたと答えました。


こなくそとは四国地方の方言で、原田は松山藩(現在の愛媛)の出身でした。




これによって、土佐藩は新撰組が犯人だとし、幕府に処分をするように求めます。


幕府は局長の近藤に事情聴取をしますが、近藤ははっきりと否定します。


事件の起きた日は妾宅で会合を行っていて、そこに疑われた原田もいたというのです。


また、物的証拠があまりに多すぎることも、疑問視されました。


刀を原田の物と証言した伊東も、新撰組と対立していたので、信憑性に欠けています。


しかし、土佐藩は最後まで新撰組が犯人だと主張し、流山で近藤が捕らえられると、極刑を強く要求し、近藤は斬首されてしまうのです。




薩摩藩説

龍馬が大政奉還により、武力討伐を計画していた薩摩藩は口実を失ってしまいます。


これを恨んだ薩摩藩が見廻組を使って、襲わせたという説です。


さきほど紹介した今井伸郎は約1年で釈放されます。


これは薩摩藩の西郷隆盛が助命を依頼したからだという意見があり、黒幕は薩摩藩という説が生まれました。



浮世な世界-DVC00513.jpg

↑西郷隆盛です。



以上がおもな説です。


他にも後藤象二郎犯人説、中岡慎太郎無理心中説、紀州藩黒幕説、自殺説などたくさんあります。





う~ん、いったい犯人はだれなんでしょうかね?