ペトラルカと英国詩人のアナフォラ修辞法 | この世は舞台、人生は登場

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ペトラルカのソネットとアナフォラ技法

 

   イギリスの後期ルネサンス詩人ジョン・ダン(John Donne, 1572~1631)は、『列聖 (The Canonization)』という詩の中で、恋人たちの想いを歌うには、「年代記(Chronicle)」などよりも「小さなソネットの小部屋 ( sonnets pretty rooms)」の方が相応しいと歌っています。「ソネット」は、西洋文学の中で最も短い詩形で、わが国の「和歌」と比較されることがありますが、恋心を歌うのに最も適していると言われています。ソネット(sonetto:英語 sonnet)という詩形は、シチリア王で、のちに神聖ローマ皇帝にもなったフリードリッヒ(Friedrich:イタリア名フェデリーコ)2世がシチリアのパレルモ宮殿に招集した詩人たちによって、南欧プロヴァンス地方で活動していた吟遊詩人(トゥルバドゥール)たちの歌に影響されて作られたといわれています。もともとは「楽器を弾く」〈sonare〉を語源とする言葉なので、楽器を奏でながら歌った「小さな調べ」という意味であったと推測されます。それゆえに、初期では14行で書き上げられるとは限らなかったようです。

   ソネットの創出と確立に最も貢献した詩人は、フリードリッヒ皇帝とその子マンフレーディ(Manfredi)の二代にわたってパレルモ宮殿に仕えた詩人ジャコモ・ダ・レンティーニ(Giacomo da Lentini:出生不明~1250頃)だと言われています。ジャコモは、ダンテが『煉獄篇』第24歌5行目で、「甘く新しい詩形(dolce stil novo)」を創り上げようとした「清新体運動」に比べて時代遅れになった詩人を指して「あの公証人(il Notaro)」と呼んでいるシチリア派を代表する詩人です。そのダンテから公証人と呼ばれたジャコモ・ダ・レンティーニの書いたソネットは、14行とは限らなかったかも知れません。その根拠は、ダンテも何編かのソネットを書いていますが、20行にもなる作品が存在するからです。『神曲』よりも12年ほど前(20代中頃)から執筆に取りかかった『新生(Vita Nuova)』の中には、ダンテ自身が「ソネット」と呼んでいる25編の作品が含まれています。その中には、14行で構成されてはいない作品もあります。私の推測が正しければ、「ソネット」を「14行で完結する詩」として固定させたのはペトラルカだと言えるのではないでしょうか。しかも、ペトラルカがソネットを創作しているとき、常に念頭に置いていたのは、シチリア派の詩人でもなく、またプロヴァンスの吟遊詩人でもなく、目の前にいて面識もあったダンテその人であった、と私は推測しています。

 

注:フリードリッヒ神聖ローマ皇帝に関しては、私のブログ「『神曲』地獄巡り14」と同じく「地獄巡り40」を、またマンフレーディ王に関しては「『神曲』煉獄登山3」を、また「吟遊詩人」に関しては「『神曲』煉獄登山8.吟遊詩人ソルデルロ」を」参照して下さい。

 

   ソネットは14行という短い空間の中で完結させるという制約があるため、濃密な表現技法を駆使する必要があります。それゆえに、ダンテも『新生』の中に挿入したソネットには、一つ一つ綿密な解説を加えています。しかし、ダンテは、『神曲』の中で効果を発揮したアナフォラ技法を『新生』に挿入されたソネットには使用していません。シチリア派の詩人たちの作品を精査していないので私の推測の域を出ませんが、アナフォラ技法はダンテの考案によるものかも知れません。ラテン語によって書かれた文学作品が至高のものであると信じていたペトラルカは、ダンテに対してはボッカチオが抱いていた程の畏敬の念はなかったと言われていますが、俗語(イタリア語)で創作した作品にはその先達詩人の影響を大いに受けていたに違いありません。それゆえに、ダンテが『神曲』の中で多用して効果を発揮したアナフォラという修辞技法をペトラルカが利用していないはずがありません。

   前述しましたように、ダンテの『神曲』は、押韻構造が三行一組になった「三行連句(テルツァ・リーマ)」という詩型で作られていました。しかし、『新生』に収められているソネットは、一行の音節は『神曲』と同じく「エンデカシッラボ (endecasillabo)」と呼ばれる11音節で作られていますが、全体の押韻構造は「四行連句(クァルタ・リーマ quarta rima または quartina)」が二つに「三行連句」が二つの連結で成り立っています。ただし、八行連句(Ottavo)と六行連句(Sestetto)の結合方式とする意見もあります。

 

   あくまでも私の仮説・推測の域を出ませんが、ソネットの中でアナフォラ技法を採り入れたのはペトラルカが最初の詩人かも知れません。彼は、下に示す『カンツォニエーレ 第145番』のソネットで、それぞれの連句の書き始めが同じ言葉で繰り返される典型的なアナフォラ技法を使用しています。

 

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私を置け、太陽が花や草を枯らしてしまう(熱帯の)所に、または氷と雪が太陽に打ち勝つ(寒冷の)所に。

私を置け、太陽の馬車が温和で軽やかな(温帯の)所に、また、私たちにそれ(太陽)を返す(東方の)所に、また太陽をしまい込む(西方の)所に。

   私を置け、謙虚な運命の中に、または傲慢な運命の中に。甘美で澄み渡った大気の中に、または陰気で重苦しい大気に。

私を置け、夜の闇に、または長い昼間(夏至?)に、短い昼(冬至?)の中に。成熟した年齢にも未熟な年齢にも。

   私を置け、大空に、大地に、深海に、高い山の頂に、底なし沼の谷底に。魂が自由なる時も、(魂が)四肢に縛られている時も。

   私を置け、名声が暗い時も、名声が輝かしき時も。私はこれからも昔のままの私です。(今まで)生きてきたままの私で、これからも生きて行きます。15年間ついてきた溜息をこれからもつきながら(生きて行きます)。

 

   それぞれの連句が「私を置け (Pommi)」という言葉で書き始められています。ダンテが『神曲』という長編叙事詩で使用した反復法とまったく同じ種類の構造になっています。ところが、次に示す『カンツォニエーレ 第112番』のソネット作品は、極めて複雑なアナフォラ技法を駆使しています。

 

〔原文解析〕

〔直訳〕

   セヌッチョ殿、あなたには知ってほしいのです。私がどの様に扱われ、どの様な生活が私の今なのかを。むかし、そうであったと同じく今も身を焦がして憔悴しきっています。そよ風でさえ私を動揺させます。今の私は昔の私と同じです。

   あの女は、こちらでは恭順で、あちらでは尊大に見えました。また、今さっきは厳しく、また今は物静か。今は無慈悲かと思えば、また今は慈悲深い。今は礼儀正しい装いで、また今は優雅で、また今は穏和かと思えば、今度は横柄で残忍になりました。

   こちらでは優しく歌っていたかと思えば、あちらでは寝そべり、こちらでは振り向き、あちらでは歩みを止めました。また、こちらでは美しい瞳で、私の心臓を刺し貫きました。

   こちらではひとこと言葉をかけ、そちらでは微笑む、またあちらでは顔色を変える。そんな気持ちでいるのは、なんと哀れなこと。夜も昼も私を占拠しているお方は、あの我らの領主、恋神アモーレさま。

 

   上のソネット形式の作品に使われているアナフォラ技法をみると、それがカタログ技法の一分野であることに納得させられます。「ここ」という場所を示す副詞“qui”(英語のhere)が10回、「今」という時間を表す副詞“or”(英語のnow)が8回使われています。同じ言葉を列挙して使用する技法は、叙事詩では勇猛さや威厳を創出するのに効果的ですが、抒情詩では「洒落」や「遊び心」から「奇をてらう効果」を作り出すことが良く分かります。

 

英国ソネット詩人のアナフォラ

 

   シェイクスピアといえば演劇詩人として有名ですが、実のところは、ソネットの分野でも、英文学史上、最も優れた詩人なのです。有名か無名かは別にして多くの英国詩人たちがソネット形式の詩を書いています。その詩形の普及に貢献してシェイクスピアにも多大の影響を与えた詩人はエドマンド・スペンサー(Edmund Spenser, 1552~1599)で、彼の詩集『アモレッティ:恋神たち(Amoretti)』の中には89篇のソネットが収載されています。シェイクスピアの後の詩人としては、叙事詩人ミルトンも10数篇のソネットを創作していて、その中の5篇はイタリア語によるものです。それら多くのソネット詩人の中でもシェイクスピアの作品が最も高く評価されています。彼は154篇のソネットを創作していますが、彼の押韻構造は「四行連句」が三組に一組の「二行連句」を加えた14行詩になっています。その押韻形式自体はスペンサーと同じです。むしろ、「四行連×2+三行連×2」のペトラルカに近い形式を使っているのはミルトンです。しかし、ミルトンはアナフォラ技法を使ってはいません。その技法を多用しているのは、スペンサーとシェイクスピアですので、二大ソネット詩人のアナフォラ技法による作品を紹介しておきましょう。

 

スペンサーのアナフォラ

   まず、イギリスにおけるソネットの先駆的詩人であるスペンサーの作品から見てみましょう。彼のソネット集『アモレッティ』の中の四行連句の書き始めが同じ「あなたは確かに美しいが(Fayre ye be sure, but)」という言葉で繰り返される『ソネット第56番』を紹介しましょう。(綴り字法はルネサンス初期の古形)

 

Fayre ye be sure, but  cruell and vnkind,

   As is a Tygre that with greedinesse

   hunts after bloud, when he by chance doth find

   a feeble beast, doth felly him oppresse.

Fayre be ye sure, but  proud and pittilesse,

   as is a storme, that all things doth prostrate:

   finding a tree alone all comfortlesse,

   beats on it strongly it to ruinate.

Fayre be ye sure, but  hard and obstinate,

   as is a rocke amidst the raging floods:

   gaynst which a ship of succour desolate,

   doth suffer wreck both of her rocke and goods.

That ship, that tree, and that same beast am I,

   whom ye doe wreck, doe ruine, and destroy.

 

〔現代英語への変換〕

Fayre=fair   ye=you   cruell=cruel   vnkind=unkind   Tygre=Tiger

greedinesse=greediness   bloud=blood   oppresse=oppress

pittilesse=pitiless    comfortlesse= comfortless

rocke =rock   gaynst=against   doth=does   rocke=rock

doe=do(強調)   ruine=ruin

〔日本語訳:熊本大学スペンサー研究会〕

あなたは確かに美しいが、冷酷で非道だ。がつがつと血を追い求め、弱い獣が見当たると容赦なく屠ってしまう虎そっくりだ。

  あなたは確かに美しいが、高慢で無慈悲だ。あらゆるものを倒す嵐だ。一本だけで侘しく立っている木を見つけると、激しく襲いかかって、根こそぎにする嵐そっくりだ。

  あなたは確かに美しいが、強情で頑固だ。救い手もない船が、当たって難破し、船体も積荷も失ってしまう逆まく怒濤の中の岩そっくりだ。

  その船、その木、その獣が私、それをあなたは難破させ、倒し、殺すのだ。

 

   もう一つスペンサーのソネットを見ておきましょう。『アモレッティ』の「ソネット第26番」は、「・・・は甘いが (Sweet is ・・・but・・・」の語句を繰り返すことによって、先に見たペトラルカの「ここでは (Qui)」と「今では (Or)」を繰り返し使用した『カンツォニエーレ第112番』と同様に、カタログ技法の要素を強く出しているアナフォラ表現の作品です。

 

Sweet is the Rose,  but growes vpon a brere;

   Sweet is the Iunipere,  but sharpe his bough;

   sweet is the Eglantine,  but pricketh nere;

   sweet is the firbloome,  but his braunches rough.

Sweet is the Cypresse,  but his rynd is tough,

   sweet is the nut,  but bitter is his pill;

   sweet is the broome-flowre,  but his yet sowre enough;

   and sweet is Moly,  but his root is ill.

So euery sweet with soure is tempred still,

   that maketh it be coueted the more:

   for easie things that may be got at well,.

   most sorts of men doe set but little store.

Why then should I accoumpt of little paine,

   that endless pleasure shall vnto me gaine.

 

〔現代英語への変換〕

growes vpon a brere=grows upon a brier(茨の枝の上で咲く)  Iunipere=Juniper

pricketh nere=pricks near(近寄ると刺す) braunches=branches

rynd=rind(外皮)  pill=peel   sowre=sour  

euery=every   tempred=tempered  maketh=makes   coueted=coveted   easie=easy  doe=do 

accoumpt=account (中世ラテン語の accomputareの名残)   paine=pain  vnto=unto

gaine=gain

〔日本語訳:熊本大学スペンサー研究会〕

  ばらは甘いが、枝にはいばら、ねずは甘いが、とがった大枝、野ばらは甘いが、近寄るとチクリ、樅の木の花は甘いが、小枝は荒い。

  糸杉は甘いが、その樹皮は固い、栗は甘いが、渋皮は苦い、えにしだの花は甘いが、けっこうすっぱい、にんにくの花は甘いが、その根は不吉。

  このように、甘さにはすっぱさがいつも盛り合わされている、だから、ますます欲しくなる。思いどおりに、やすやすと手に入るものには、おおかたの人は重きをおかぬから。

  それなら、わずかな苦しみが何だというのか、限りない喜びを得させてくれるだろうに。

 

シェイクスピアのアナフォラ

   優れた詩人や作家には二つの重要な資質があることを、私は私のブログで繰り返し指摘してきました。それはアリストテレスが定めた優れた詩人の条件とでも呼ぶべきもので、まず詩人は「韻律の作り手であるというよりも、物語の作り手であらなければならない(『詩学』1451、27―8)」ということで、つぎに「言わなければならないことを持っているだけでは十分ではなく、必要なのは、それをどのように言うか(『修辞学』Ⅲ-1,1403b 15~6)」という二つの能力です。それら詩の創造に必要な二大能力を最も高度に備えている詩人がシェイクスピアである、と言っても過言ではないかも知れません。

   確かに、ペトラルカやスペンサーと同じく、シェイクスピアのソネットも恋愛をテーマして書かれています。しかし、シェイクスピアのソネットには哲学的な詩想による表現法が使われています。また、修辞技法においても、アイロニー(皮肉法)やパラドックス(逆説法)や奇想(コンシート)等を駆使して、複雑な思想を作り出しています。当然のこととして、シェイクスピアもアナフォラ技法も使ってソネットを書いています。次に紹介する『ソネット 第64番』は、すべての四行連句が「私は見た時(When I have seen)」という詩句で書き始められています。

 

When I have seen by Time's fell hand defaced

The rich proud cost of outworn buried age;

When sometime lofty towers I see down-razed

And brass eternal slave to mortal rage;

When I have seen the hungry ocean gain

Advantage on the kingdom of the shore,

And the firm soil win of the watery main,

Increasing store with loss and loss with store;

When I have seen such interchange of state,

Or state itself confounded to decay;

Ruin hath taught me thus to ruminate,

That Time will come and take my love away.

This thought is as a death, which cannot choose

But weep to have that which it fears to lose.

         (William Shakespeare, sonnet  64)

 

敗滅した時代が大金をかけて造った

誇りの記念物も「時」の残忍な手に荒され

かつては聳え立つ塔もくずされ

永遠的な黄銅碑も腐って行くのを見てきた。

飢えた海洋が王国の岸辺を攻めとり

堅い土が海原を侵略し

一方の損失は他方の取得を増し

他方の取得は一方の損失を増す。

そういう天変地異も

栄華の破壊も見てきたが

破壊は私に無常を教えてくれた

「時」はやがて私の愛人も奪い去ることになろう。

   そう考えると失くしたくないもの(愛人)をもつことも

   一つの死同然で悲しむべきことであろう。

                   (西脇順三郎訳)

 

   もう一つ、ペトラルカもスペンサーも使っていたカタログ技法の要素を強く出しているアナフォラ表現を、次に紹介しておきましょう。

 

Tired withal these for restful death I cry,

As to behold desert a beggar born,

And  needy nothing trimmed in jolly.

And  purest faith unhappily forsworn,

And  gilded honour shamefully misplaced,

And  maiden virtue rudely strumpeted,

And  right perfection wrongfully disgraced,

And  strength by limping sway disabléd,

And  art made tongue-tied by authority,

And  folly (doctor-like) controlling skill,

And  simple truth miscalled simplicity,

And  captive good attending captain ill.

   Tired with all these, from these would I be gone,

   Save that to die, I leave my love alone.

         (William Shakespeare, sonnet  66)

 

すべてこのようなことにあきれ私は死の休息を求める―

賤しい人が立派な人に見られたり

また才能のない人が成功して立派に着飾っていたり

また悪人が誠しやかに信念を偽誓したり

また見苦しくもつまらない人に栄誉が与えられたり

また純な仁徳が残忍に汚され

また正当なものが不正に汚されたり

また健全な力がよこしまな勢力にまげられ

また学芸が権力者から言語の自由を束縛され

また愚行が学者らしく学芸に制裁を加え

また単純な真理を単純な頭だと考えたり

また善行が悪魔に仕えて征服されたり

  これらのものにあきれて私は死んで行きたい

  だが死んでも私の愛だけが残るのなら。

                      (西脇順三郎訳)

 

聖書で使われたアナフォラ

 

   「修辞学」も「弁論術」も「雄弁術」も、また「説得術」もすべてギリシア語では「レートリケー(rhētorikē)」、英語では「レトリック(rhetoric)」といって、基本的には同じ技術のことです。そして、とくに「アナフォラ」は、政治家の演説にも宗教家の祈祷にも使われて効果を発揮する雄弁術だと言えます。それゆえに、新約聖書の中では多用されていて、誰もが知る『マタイによる福音書』の中のキリストによる次の言葉は、まさしくアナフォラの技法を駆使した名文になっています。

 

〔 出典:欽定訳聖書:The Authorized King James Version 

And he opened his mouth, and taught them, saying,

Blessed are the poor in spirit: for their’s is the kingdom of heaven.

Blessed are they that mourn: for they shall be comforted.

Blessed are the meek: for they shall inherit the earth.

Blessed are they which do hunger and thirst after righteousness: for they shall be filled.

Blessed are the merciful: for they shall obtain mercy.

Blessed are the pure in heart: for they shall see God.

Blessed are the peacemakers: for they shall called the children of God.

Blessed are they which are persecuted for righteousness’ sake: for their’s is the kingdom of heaven.

Blessed are ye, when men shall revile you, and persecute you, and shall say all manner of evil against you falsely, for my sake.

( The Gospel according to St. Matthew, 5: 2~11 )

 

〔日本聖書協会訳〕

そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

(『マタイによる福音書』第5章2~11)

 

   一目にして瞭然ですが、ここで使われているアナフォラ技法は「幸いなるかな(Blessed are)」という文言によって始まっています。もう一種類、ダンテもペトラルカも愛用していたラテン語訳聖書『ウルガータ』を見ておきましょう。

 

〔直訳〕

   さらに(イエスは)群衆を見て、山の中へ登って入った。そして彼が座るや否や彼の弟子たちが彼の方へ近づいて来た。そして彼は、彼の口を開いて語りながら弟子たちを教えた。

   心という点において貧しい者たちは祝福される。なぜならば、天国の王国はその者たち自身のものだから。

   温和な者たちは祝福される。なぜならは、彼ら自身が土地を所有することになるから。

   悲しんでいる者たちは祝福される。なぜならば、彼ら自身が満足させられるから。

   正義に飢えて渇いている者たちは祝福される。なぜならば、彼ら自身が満足させたれるから。

   同情する者たちは祝福される。なぜならば、彼ら自身がそのお返しとして同情を得るであろうから。

   心が清らかならば祝福される。なぜならは、彼ら自身が神を見ることになるから。

   平和をもたらす者たちは祝福される。なぜならば、彼らは神の息子と呼ばれることになるから。

   正義のために迫害に苦しみ耐えている者たちは祝福される。なぜならば、天国の王国はその者たち自身のものだから。

   人々があなたたちに関して誹謗し、あなたたちを迫害する時は、そしてまた、人々が私のことで誤ってあなたたちに敵対して、あらゆる侮辱をいう時、あなたたちは祝福されているのです。

   喜べ、そして喜びの声をあげよ。なぜならば、あなたたちの報酬は、天国の中で豊かなものになるから。またなぜならば、人びとはあなたたちより以前に存在してきた予言者たちを迫害してきたから。

 

 

   『マタイによる福音書』の上出の箇所は、アナフォラの技法を使って表現され名文です。すべての言葉の最初の語は「幸いなるかな (Blessed are)」という文節で書き始められています。ラテン語聖書『ウルガータ』でも、英語の「be動詞」の複数形に相当する〈sunt〉が省略されて、「祝福された (Beati)」という単語からすべての文言が始められています。新約聖書のイエスの言葉の中でも特にこの箇所が読者(信者)の耳に残るのは、アナフォラ技法の効果かも知れません。そしてまた、この文言は、ダンテの『煉獄篇』では繰り返し使われています。