『神曲』煉獄登山3.煉獄前域の入口 | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

ブログの説明を入力します。

霊魂たちには影がない

 

 

 

  ダンテとウェルギリウスの一行は、煉獄山の麓を目指して進みました。そして、「天に向かってどこまでも高く海から聳えている山 (il poggio che ’nverso ’l ciel più alto si dislaga)14~15」を見上げました。すると、「太陽が背後で真っ赤に燃えていました (Lo sol ・・・dietro fiammeggiava Roggio)16」ので、ダンテたちは煉獄山の東側に進んだことになります。陽の光を背に受けたダンテの身体は影を作っていました。しかし、霊魂のウェルギリウスには影ができないので、ダンテは先達がいないのではと心配になって振り向きました。するとウェルギリウスは、「お前の共にいて、お前を導いている」とダンテを安心させて、次のように霊魂には影ができない理由を説明しました。

 

  現世で私が中に宿り影を落としていた肉体は、ブリンディシから移されてナーポリに埋められてある。夕闇がもうあのあたりには迫ったころだ。いま、私の前には影が一つもないが、それは次々と天を通る光が途中で遮(さえぎ)られないのと同じ道理だ、驚くには当たらぬ。私のような体は暑さ寒さや苦しみは覚えるよう神の思召しでできているが、その理由は私どもには明かされていない。(『煉獄篇』第3歌25~33、平川祐弘訳)

 

  ウェルギリウスは、「私の前方には、まったく影ができない (innanzi a me nulla s’aombra)28」(aombra=adombra)と言って、その理由を、「天球において、一方の天球が他方の天球の光線を遮断することはない (d’i cieli che l’uno a l’altro raggio non ingombra)29~30」と同様に、太陽の光は霊的存在で肉体を持たない魂をすり抜けるからだと説明しました。ダンテは、詩人であって神学者ではありません。ましてや科学者でもありません。それゆえに、ダンテの神学的知識の多くはトマス・アクィナス (Thomas Aquinas、イタリア語名Tommaso d'Aquino、1225~1274)に依存しています。1265年生まれのダンテにとって、トマス・アクィナスは、彼の少年時代に活躍していた最高峰の神学者でした。『神曲』の神学的世界は、トマス・アクィナスの神学によって成り立っていると言っても過言ではありません。

  我が国の「幽霊には足が無い」ということになっていますが、西洋では「霊魂には影が無い」という考え方が定説になっています。日本の「幽霊足無し論」には、特別な宗教学的根拠があるようには思えません。一般的には、江戸時代の円山応挙(1733~1795)が、足の無い方が幽霊らしく見えるという理由で「足無し幽霊」を描き始めたのが起源だと言われています。それに反してダンテの「霊魂影無し論」には、哲学的および神学的根拠があります。

 

アリストテレスとトマス・アクィナス

 

 

  トマス・アクィナスが彼の神の概念を構築するのに、アリストテレスの形而上学を利用したことは周知の事実です。「霊魂影無し論」に必要な要点だけを概観しておきましょう。   

  人間や動物だけでなく地球上のあらゆる物体は、「質料(ヒュレー)」と「形相(エイドス)」の両方から作られています。質料というのは、人間であれば「肉体」で、建物であれば木材や鉄骨のような材料のことです。一方、形相とは、それらの「姿」や「形」のことです。その両方を備えていなければ、現実世界には存在することができません。しかし概念や理念の世界では、質料だけのモノも、形相だけのモノも存在することができます。そして、質料を持たない形相だけの状態を、宗教学上では霊的な存在ということになります。それゆえに、『神曲』に描かれたダンテ以外の登場人物は、地獄の亡者たちも煉獄の霊魂たちも天国の聖人たちも、すべてこの世を去った霊的な存在なので「肉体」すなわち「質料」をもっていないので、彼らには影ができないのです。さらに、アリストテレス哲学では、形相だけの存在の最高限に位置しているモノを「純粋形相」と呼び、トマス・アクィナスは「神」と呼んでいます。そして、その「純粋形相=神」をダンテは「三位一体の神が司る無限の道 (la infinita via che tiene una sustanza in tre persone)35~36」と表現して、その道を「人間の理性で行き尽くせる (nostra ragione possa trascorrer)34~35」ことは不可能である、と言っています。ダンテが煉獄の船着場で旧友のカゼルラと出会い抱擁しようとしても空を切るだけでした。それは、「純粋ではない形相」すなわち「霊的存在」は、質料すなわち肉体を持たないので抱擁はできなかったのですが、その姿を見ることはできたのです。しかし、純粋形相である神は、触れることは言うまでもなく見ることもできない存在なのです。それゆえに、人間は、肉眼はもちろんのこと、観念をもってしても理念をもってしても、純粋形相の神を見ることも知ることもできないので、目に見える神として「マリアが(キリスト)を出産する (parturir Maria)39, parturir=partorire」必要があったのです。

 以上のような三位一体の中でのキリストの姿の特徴は、『天国篇』の最後の箇所(『神曲』全篇の最後の箇所でもありますが)で次のように描かれています。

 

  至高の光の深く明るい実体の中に、三色で同じ幅の三つの輪が現れた。虹の二つの輪のように、第一の環は第二の環に映って見え、第三の環はその二つからひとしく発する火のように見えた。・・・あの〔第二の〕環は、いわば反射した光として、あなたの中に生じるように見えたが、その環をじっと見つめていると、中に、それと同じ色をしたわれわれ人間の姿が描き出されているように思われた。私の視線はことごとくその姿に注がれたが、・・・その奇しき姿を見た私は、どうしてその像がその円に合致し、どうしてその像がそこにあるのか、いくら考えてみても知ることができなかった。・・・だが突然、私の脳裡には稲妻のように閃きが走り、私が知りたいと望んでいたものが光をはなって近づいてきた。私の空想の力もこの高みには達しかねた。だが愛は、はや、私の願いや私の意思を、均しく廻る車のように、動かしていた。太陽や諸々の星を動かす愛であった。(『天国篇』第33歌115~145、平川祐弘訳)

 

  父なる神を表す「第一の環」と聖霊を表す「第三の環」は純粋形相なので、人間であるダンテの眼には「光」としか映りません。しかし、「第二の環」だけは、同じ光の中に「われわれ人間の姿が描き出されているように思われた (mi parve pinta de la nostra effige)131」(pinta=dipinta)。すなわち、本来純粋形相の神の子キリストは、そのままでは「人間の理性で行き尽くせる」ことができないので、肉体という質料を着けて現世に生まれたのです。それゆえに、人間は、キリストを通じてのみ神を観ることができるのです。アリストテレスやプラトンがいかに優れた理性と知性の持ち主であったとしても、キリストによって純粋形相である神を見ることができなかったので、「永劫の憂き目」という辺獄(リンボ)に閉じ込められているのです。純粋形相を考え出したのはアリストテレスですが、それを応用することができなかったので地獄にいなければならない、という皮肉な結果になっているのです。

 

ウェルギリウスの墓

 

  伝承によれば、ウェルギリウスは、紀元前20年ごろ、彼の大作『アエネーイス』を完成させるために、その作品の主人公トロイアの英雄アエネアスゆかりの地を訪ねて、ギリシアと小アジアを旅してまわりました。そして、アテネに滞在していたアウグストゥス皇帝に謁見した後、イタリアへの帰途に着きました、しかし、メガラを訪れた時、高熱に倒れました。病を押して船でイタリアへ渡ることにしましたが、ブリンディシの港に着いたとき、身体は衰弱しきっていました。そのために、紀元前19年9月21日、その地で息を引き取りました。ウェルギリウスの遺体は、アウグストゥス帝の命令により(詩人の遺言ともいわれていますが)ナポリに運ばれて埋葬されました。ナポリの南西郊外にあるヴェルジリアーノ・ア・ピエーディグロッタ公園 (Parco Vergiliano a Piedigrotta)内の「ウェルギリウスの墓 (Tomba di Virgilio)」と呼ばれている場所が、ウェルギリウスの埋葬地だと言われています。そして、後世において刻まれたと言われています下に添付した碑文が掲げられています。

 

ウェルギリウス晩年のゆかりの地

ウェルギリウスの墓と碑文

 

煉獄はいま午前9時

 

    「夕闇がもうあのあたりには迫ったころだ」(原詩は“Vespero è già colà dov’ è  sepolto lo corpo”で、直訳は「(私の)亡骸が埋葬されている彼方(ナポリ)は夕方である」25~26)とウェルギリウスは言っています。ダンテが想定している世界地図では、イタリア(ナポリ)はエルサレムとジブラルタルの丁度真ん中に位置していて、両地点から45度、すなわち3時間の距離にあります。二人が煉獄に辿り着いたのが夜明け前だったので、時刻にすれば5時半ぐらいであったと言うことです。それからカトーに出会って煉獄登山の心得を伝授されて出立したのが、まさしく太陽が昇り始めた時刻、すなわち6時頃でした。そして現世と煉獄との連絡船を迎えて上陸を感謝する聖歌の大合唱を聞き終えたのが6時半ごろでした。そのあと、その船着場を発って煉獄前域 (Antipurgatorio)に辿り着いたのが午前9時ごろということになります。下に添付した挿図を参考にして、現時刻をおさらいしておきましょう。イタリア・ナポリが「夕方 (vespero)」であるということは、午後6時ということで、それよりも3時間早い(45度先の)エルサレムは午後9時になっています。そしてその地域と対極に存在する煉獄の現在時刻は午前9時ということになります。そして、下に添付した挿図はダンテの記述内容そのものから筆者自身が作成したものです。このブログの筆者である私は、ダンテが『地獄篇』第34歌で軽蔑した「頭が粗雑な者 (la gente grossa) 92」に該当する知能しか持たない人間です。それゆえに、錯誤があるかも知れませんが、あえて解明に挑戦しましょう。ダンテは地球を球体ではなく、円盤状だと想定しているようです。そして、天動説の太陽は、その円盤の周りを反時計方向に回転していますので、北半球に住む私たち現世の人間から南半球にある太陽を見ると(地球の裏側を回るので実際には見えないのですが)西から東へ移動していることになります。しかし、南半球にある煉獄では東方から西方へ動くように見えます。ダンテが想定している地球の南半球と北半球は、現代の私たちが常識としている東半球と西半球の考え方を取り入れなければ理解することが出来ません。下に添付した挿図は、『煉獄篇』の次の詩句を具体的な時刻に表したものです。太陽の自転については、「『神曲』煉獄登山4」の中の「天体の運行」の箇所でも説明してあります。

 

  現世で私が中に宿り影を落としていた肉体は、ブリンディシから移されてナーポリに埋められてある。夕闇がもうあのあたりに迫ったころだ。(『煉獄篇』第3歌25~27、平川祐弘訳)

 

 

煉獄前域の地形

 

  ダンテとウェルギリウスは、煉獄山の麓に辿り着きました。その前方には絶壁が聳え、その険しさは次のように描写されています。

 

  岩は鋭く切り立って、健脚でも登りは難(かた)いかと思われた。レーリチェとトゥルビーアの間の、人跡未踏の難撿(なんけん)にしても、これに比べれば開けた楽なのぼりかと思われた。(『煉獄篇』第3歌47~51、平川祐弘訳)

 

  レーリチェ(Lerice:現在のレーリチLerici)は、ラ スペッツィア(La Spezia)湾の東に位置する海岸です。また、トゥルビーア(Turbìa)は、現在のフランス最南東の地域で、ニースやモナコの北側にあった村です。ダンテの時代には、レーリチェからトゥルビーアを結ぶリグリア海沿いの海岸線は厳しい断崖が連なっていたようです。ダンテは、その崖を「人跡未踏の難撿(原詩‘la più diserta, la più rotta ruina’まったく人が住まず、この上なく崩れた崖)」と表現して、煉獄最初の崖をその崖に喩えています。現在は、この海岸沿いのどの地方も、風光明媚な観光地となっていますが、当時はダンテによって煉獄の嶮しい崖に喩えられるような秘境だったのでしょう。

 

 

断崖絶壁に囲まれた煉獄前域

 

  ダンテたちは、煉獄前域から何とか上の登ろうとしましたが、どこも断崖絶壁になっていました。ウェルギリウスは、書物で読んだか、人から聞いたことがあるのでしょう。その登り道の知識を思い出そうとして視線を下に落としていましたので気が付きませんでしたが、一方、ダンテは、顔を上げて岩壁の周囲に登り道はないかと見上げていました。すると、左の方から霊魂の一団が近づいて来るのが見えました。『煉獄篇』のその場面の光景は、グスターヴ・ドレ(Gustave Doré、1832~1883)によって挿絵(下に添付)として描かれました。


 

 この『煉獄篇』第3歌の箇所は、グスターヴ・ドレの上に添付した挿画が余りにも印象深いので、ダンテたちが崖の上の霊魂たちを見上げている場景だと錯覚されることがあります。しかし、原詩を詳細に読解すると、違った光景が描き出されます。イタリア語の原文の字義通りの日本語訳は以下のようになります。外国語に多少の素養を持った人には理解できるような文法的注釈を付けておきました。

 

    彼(ウェルギリウス)が視線を下の方に向けたままで、その(登り)道についての自分の記憶を辿っていて、私(ダンテ)のほうは眼を上げて岩壁の周辺を眺めていた時に、左手の方から霊魂の一団が姿を現しました。彼らは私たちの方へ足を動かしていました。(『煉獄篇』第3歌55~59、筆者訳)

 

  『煉獄篇』の原文を読む限り、確かにダンテとウェルギリウスは、断崖絶壁の下にいて岩山を登るための道を探しています。しかし、霊魂たちの群集が現れたのは、崖の上ではなく、ダンテと同じ崖下の道の左手の方向からでした。しかも、ダンテたちが煉獄へ登る崖道を尋ねるために近づくと、霊魂たちは不信感を抱いて立ち止まりました。その時の様子は次のように描写されています。この箇所も、正確を期すために原文も添えて置きます。

 

  凝視した後で、疑わしいものだと気付いて、動かないで更に凝視するそんな人のように、(霊魂たちは)全員が高い断崖の硬い岩石のところでお互い身を寄せ合い、身体が固まって動けないでいた。(『煉獄篇』第3歌70~72、筆者訳)

   なぜ、霊魂たちは身体が硬直して動けなくなるほど、ダンテたちに驚いたのかという問題があります。その最も信憑性の高い解釈は次のようです。煉獄前域の環道は「左手の方から (da mano sinistra)」右の方へと、すなわち反時計回り (antioraio, counterclockwise)に、現世での罪業が浄化されるまで、黙々と歩き続けなければなりません。そのような常況の中で、ダンテたちだけが右手(前方)から近づいて来たので、驚愕の余り動けなくなったのです。グスターヴ・ドレの作品を勝手に切り貼りして使わせてもらい、その状況を再現すれば、下に添付した挿画のような場景になることでしょう。

 

 

   ダンテと霊魂たちの出会いの場面の背景は、ドレの原画のように「天空」ではなく、「硬い岩石 (duri massi」」の「高い断崖 (alta ripa)」でした。それゆえに、先達ウェルギリウスは、霊魂たちに「山はどこがなだらかか教えてくれ (ditene dove la montagna giace)76」と尋ねているのです。

 

羊の直喩

 

  羊は囲いから一匹、二匹、三匹と出て来る。そして後の羊は目や鼻面を伏している、気怯(きおく)れするのだ。そして先頭の羊がすることをほかの羊はまねる、先頭が止まれば、その背中にもたれる、単純でおとなしくて、理由(わけ)を知ろうともしない。それと同じようにその幸ある群の先頭の者がはじらいを含んだ表情と威厳のある足取りで、その時こちらへ動いてくるのが見えた。 (『煉獄篇』第3歌79~87、平川祐弘訳)

 

  上の「羊の直喩」は、『神曲』で使われている580個ほどの直喩の中で最も有名なものの一つです。羊の群は、先頭の一匹が行動すると群のすべてが同じ行動をとります。その行動は、ダンテが自然観察によって知ったことで、彼の観察眼が優れていることを証明しています。臆病で愚鈍な動物として扱われることの多い羊に対して、ダンテ学者たちは、この直喩表現には羊に対する親愛の情が感じています。原文では「羊たち」のことを一般的な〈pecore〉(pecoraの複数形)という単語ではなく、「愛しき羊たち」というような意味を持つ〈pecorelle〉と呼び、また「気後れしている」という羊たちの様子を〈timide〉ではなく〈timidette〉と言って、その可愛らしさを印象付けています。その点をダンテ学者たちは強調して、その羊の直喩を評価しています。さらにまた、「最初の羊 (la prima pecorella)」が導くままに他の羊たちも動く様子を、モーセに率いられてエジプトを出た『出エジプト記』に重ね合わせて解釈します。そして、彼らは、神と神の予言者に対して従順であるため「なぜかという理由を知ろうとしません (lo ’mperché non sanno)84」。人間の知性や理性で知ることの出来ない神には、従順であればよいと考えています。先ほどダンテとウェルギリウスが崖の登り道を探していたとき、「ウェルギリウスが視線を下の方に向けたままで、その(登り)道についての自分の記憶を辿っていて、私(ダンテ)のほうは眼を上げて岩壁の周辺を眺めていた (55~57)」という記述がありました。キリスト者ではないウェルギリウスは自分の知識でその道を見つけようとしたのですが、キリスト者のダンテは自分の肉眼で見つけようとしたのです。

 

シチリア王マンフレーディ

  羊の群を先導するように、ダンテたちに近寄って来た「その幸ある群の先頭の者 (la testa di quella mandra fortunate)85~86」は、シチリア王マンフレーディ(Manfredi、英語名 Manfred)の霊魂でした。彼は、神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世(Friedrich、イタリア名フェデリーコFederico:英語名フレデリックFrederick)と愛人ビアンカ・ランチャ(Bianca Lancia)との間に、1232年にシチリアで生まれた庶子でした。1250年にフリードリッヒ2世が亡くなったとき、嫡男コンラート4世が皇位を継承しましたが、皇帝不在のときは、マンフレーディが摂政としてシチリア王国を治めていました。1254年、コンラートが亡くなったとき、彼の嫡男コンラディーノ(Conradino)はまだ幼かったので、叔父にあたるマンフレーディは、摂政としてシチリアを治め続けました。そして、1258年にコンラディーノが死去したという知らせが入ったので、正式にシチリア王に戴冠しました。しかし、それは誤報であることが判明しましたが、マンフレーディは王位を譲りませんでした。その年の8月10日に、マンフレーディは万人から歓迎されて戴冠式をおこないました。しかし、時の教皇アレクサンデル4世 (Alexander、イタリア名Alessandro)は、幼いコンラディーノの後見人でもあったので、マンフレーディの戴冠には反対して、彼に破門を宣告しました。それでもマンフレーディは動じなかったので、次の教皇ウルバヌス (Urbanus)4世からも再度破門宣告を受けました。ウルバヌス教皇は、シチリアの王位を与えることを条件にして、フランス王のルイ9世にマンフレーディ討伐を命じましたので、フランス王は弟のカルロ・ダンジョを派遣しました。カルロの到着が遅れている間に、マンフレーディはウルバヌス教皇をローマから追い払いましたが、次の教皇クレメンテ4世〔ラテン語名クレメンス〕はイタリアに到着したカルロ・ダンジョにシチリア王位を授けました。そしてついに、イタリア中南部を舞台に、マンフレーディ率いる皇帝軍とカルロ・ダンジョ率いる教皇軍の戦いが展開されました。教皇から十字軍の御旗を許されたカルロ・ダンジョ軍は戦いを優勢に進めて、ついに、1266年2月26日、ナポリの北東およそ50㎞の町ベネヴェント(Benevento)の近郊グランデッラの平原において決戦が行われました。そして、皇帝軍が惨敗を喫して、マンフレーディは戦死してしまいました。破門された死者は埋葬されないで野ざらしにされるのが規則でしたが、カルロ・ダンジョの計らいで、ベネヴェントを流れるカルロ川の橋のたもとに埋葬され、その上に兵士たちがひとりひとり順に石を投げて塚を築きました。しかし、あくまでもマンフレーディを許さない教皇クレメンテ4世は、コンセンツァの司教バルトロメーオ・ピニャテッリに命じて遺体を掘り出して、教会区の外へ運んでヴェルデ川の堤に曝しました。

 

皇帝と教皇の対立図

  マンフレーディがダンテに向かって「かつて現世で私を見たかどうか思い出してくれ (pon mente se di là mi vedesti unque)105」と言いました。マンフレーディがベネヴェントの戦いで戦死した1266年の年は、まだダンテは生まれたばかりでしたので、その王には出会っているはずがありません。ダンテは霊魂の顔をじっと見つめました (guardail fiso)が、知りませんでした。しかし、その霊魂の顔は、「片方の眉毛が一撃を受けて裂かれていました (l’un de’ cigli un colpo avea diviso)108」、その容姿は、「金髪で、目鼻立ちが整っていて優雅な物腰 (biondo era e bello e di gentile aspetto)107」でした。ダンテが描くマンフレーディ像は、後者と同世代人の司教で年代記作者でもあったサバ・マラスピーナ (Saba Malaspina)が書いた『シシリア国事史 (Rerum Sicularum historia)』から採られたものである言われています。サバはマンフレーディのことを「金髪の人で、優美な容貌をしていて、見かけも温和で、赤みを帯びた頬をして、全体的容姿も美しく、中肉中背であった(Homo flavus, amoena facie, aspectu placibilis, in maxillis rubeus, per totum niveus, statura mediocris)」と記述しています。

  ダンテと同時代の歴史家ジョヴァンニ・ヴィラーニ(Giovanni Villani、1276頃~1348)は『新年代記(Nuova Cronica)』の中で、マンフレーディについて書いていますが、彼の記事はサバ・マラスピーナとダンテの両者から情報を得ている可能性もあります。ヴィルラーニの記述の要点をまとめておきましょう。

 

  ロンバルディア地方の侯爵ランチャ家の美しい娘との間に生まれたマンフレーディ王は美男子でした。そして、彼は父親フリードリッヒ2世と同様に技芸にも造詣が深く、自ら音楽を奏でたりしました。しかしまた、マンフレーディは、父親に輪を掛けた道楽者でしたので、彼の周囲に、多くの曲芸師(giocolieri)や宮廷人(uomini di corte)や美しい愛人たち(belle concubine)を侍らせていました。彼は緑色の高級織物で仕立てた服を着用していました。そして彼は、気前が良く、物腰が優雅で、愛想が良かったので、臣民から愛され慕われていました。しかし、マンフレーディ王は、本質的には享楽主義者(エピクロス学派)でしたので、神も聖人も重んじることをしないで、現世的享楽を求めました。彼の父フリードリッヒ2世と同様に教会や司祭や修道士たちを敵に回して、多くの教会を占拠しました。そして、父王の遺産だけでなく、異母兄弟コンラート4世の財産も独占して、ますます裕福になりました。さらに、教会との戦いに明け暮れたにもかかわらず、彼は死ぬまで、陸においても海においても、権力と富を維持し続けました。(参考文献:チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』)

 

   以上のようなマンフレーディに関する伝記を基にしてダンテの詩を鑑賞してみましょう。その王の霊魂は、「私は、マンフレーディで、コンスタンツァ皇后の孫である (nepote di Constanza imperadrice)113」と名乗りました。ダンテは、なぜ、彼に「フリードリッヒ皇帝の息子 (figlio di Fedelico imperatore)」と名乗らせなかったか、という疑問が残ります。それは詩的技法(とくに韻律)の問題であるかも知れませんが、読者側からは、父王の名を上げなかったマンフレーディの意図を読み解く必要があります。

  ダンテが師と仰ぐブルネット・ラティーニ (Brunetto Latini、ダンテはラティーノと呼ぶ)という文筆家がいます。そのブルネットにとってマンフレーディ王は、彼がフランスへ亡命する原因になった人物でした。ブルネットは、亡命中に、俗語(この場合はフランス語)で書かれた最初の百科事典といわれている『知識の宝典(Li Livres dou Tresor)』を著しました。その中で、怨敵マンフレーディについての項目では、マンフレーディが、父親フリードリッヒも、彼の異母兄弟コンラート4世も、二人の甥(名前不詳)も殺害したことになっています。さらに、その王がコンラディーノまで殺害しようとしたと、ブルネットは書いています。ダンテは、ブルネットの著書を読んでいたに違いありませんが、さすがに、それらの殺害までは信じていなかったことでしょう。もし、ブルネットを信じていたならば、マンフレーディを煉獄に登らせることはあり得ません。

  マンフレーディが父フリードリッヒのことを愛していたのか憎んでいたのかは分かりません。しかし、彼は庶子として、常に優遇される嫡流のコンラートを良くは思っていなかったことは、容易に推測できます。シチリアの王位を継承しましたが、それは名目だけで、実際は摂政でした。マンフレーディは、ブルネット・ラティーニが言うように父フリードリッヒと嫡流のコンラートを殺害したことはあり得ないにしても、彼らに対して好意的ではなかったことでしょう。それゆえに、マンフレーディは、祖母コンスタンツァの血統で自分を紹介したのだといえます。そして彼は、祖母を慕い誇りにしていたので、彼の娘に祖母の名前を付けたのでしょう。

 

破門者マンフレーディでも救われる

 

前述のように、マンフレーディはアレクサンデル4世とウルバヌス4世の二人の教皇から破門宣告を受けました。それでもダンテは、彼を天国へ昇ることが許される霊魂として、煉獄に入れています。父王フリードリッヒは地獄の第6圏谷に落ちています。さらに、地獄の第8圏谷第3濠では聖職売買をした何人もの教皇が穴の中に逆さにされて埋められていますが、ニコラウス3世(在位:1277~1280)が「この私の頭の下には私より前に聖職売買をやった他の法王どもが引きずりこまれて、岩の裂け目に隠れてうずくまっている(平川訳)」と言及した教皇の中に、マンフレーディを破門にしたウルバヌス4世も、彼を塚から掘り出してナポリ王国の国外へ曝すように命じたクレメンテ4世も含まれているとするのがダンテ学者の間の通説です。

 

マンフレーディの依頼

 

  マンフレーディは、ダンテが現世へ戻ることが許されている人物だと知って、次のような依頼をしました。

 

  君が現世に戻ったら、シチリアの誉れとアラゴンの誉れの母となった私の美しい娘のもとへ行って、世の噂が違っているなら、真相を伝えてくれ。(『煉獄篇』第3歌114~117、平川祐弘訳)

 

  「シチリアの誉れ (l’onor di Cicilia)」とは、1296年にシチリア王になったフレデリック (Frederick)のことで、そして「アラゴンの誉れ (l’onor d’Aragona)」とは、アルフォンゾ (Alfonso)もしくはジャコモ (Jacomo、Iacomoヤコモ)のことです。そして彼らの母で、マンフレーディの娘とは、コンスタンツァ (Constanza)であることは言うまでもありません。そして、マンフレーディがダンテに依頼したことは、「間違って伝えられているなら、彼女には真実を伝えてほしい (dichi ’l vero a lei, s’altro si dice)」ということです。(dichiはdireの接続法現在のdicaの古語で、願望命令文)

 

  ここで、ダンテの言う「世の噂」すなわち「間違って伝えられている (altro si dice)」こととは、ブルネット・ラティーニが『知識の宝典』で記述した「マンフレーディが多くの親族を殺害した」という話だと考えられます。それは尊敬する師の著述なのでダンテも読んでいたが、信用することはありませんでした。もし、ダンテがその話を信じていたならば、マンフレーディを煉獄に入れることはなかったに違いありません。彼の父フリードリッヒ皇帝も、彼を破門にしたウルバヌス教皇も、彼の遺体を塚から掘り出してナポリ国外へ曝したクレメンテ教皇も、ダンテは地獄に押し込めています。また、マンフレーディを手厳しく批判したブルネットも罪業は「男色」ではありますが第7圏谷第2円の地獄に押し込めています。それゆえに、ダンテがマンフレーディを煉獄に入れたことは、その王に対して強い好意と同情を寄せていたことを証明しています。では、どの様な好意と同情であったかは、巡礼者ダンテに対して訴えたマンフレーディの言葉から判断できます。そのシチリア王は娘コンスタンツァへの伝言を次のように続けました。

 

  致命的な傷を二箇所に受けて、この身が砕かれた時、涙して私は、進んで許し給う方のみもとへ行った、私の罪の数々はそら恐ろしいものだった、だが限りない恵みは大きな両の腕をひろげて、それに向かう者みなを包容してくださる。当時〔法王〕クレメンテから命令を受けて、私を狩り立てていたコセンツァの司教が、神の中にこの面もよく読み取っていたなら、私の骸骨はいまでもベネヴェントの橋のたもとの重い石塚の下に護られていただろう。だが私の骨はいま王国の外、ヴェルデ川のほとりで雨に打たれ風に曝されている、司教が松明を消させて、そこへ骸骨を移したのだ。(『煉獄篇』第3歌118~132、平川祐弘訳)

 

   上の詩文に描かれたマンフレーディは、身体に「二箇所の致命的な傷 (due punte mortali)119」を受けて絶命する間際に、「私は、進んで許し給う方のもとへ許しを乞うために赴いた」と告白しました。「進んで許し給う方 (quei che volontier perdona)120」とは、言うまでもなく「神」のことです。真偽のほどは分かりませんが、ダンテはマンフレーディが絶命する間際に回心 (conversion)をしたと考えています。そして、マンフレーディをキリスト教への回心者として描き、神を「限りない恵みは大きな両腕を持っているので (la bontà infinita ha sì gran braccia)、彼に心を向ける者は誰でも受け入れる (che prende ciò che si rivolge a lei)122~123」と、ダンテは唱えることによって、ローマ教皇クレメンテの聖人にあるまじき非道な所業を際立たせているのです。そして、その教皇の極悪非道な所業は、ダンテがマンフレーディの口を借りて訴えていることです。すなわち、「ベネヴェントの近くの橋のたもと (in co del ponte presso a Benevento)128」(co=capo)に埋葬されていたマンフレーディの遺体を掘り起こしてナポリ王国の外へ移したことです。しかも、破門者や異端者には灯明を着けないという当時の慣わしに従って暗闇の中で行ったのです。

 

改めるに遅すぎることはない

 

  マンフレーディは、最後に次のような教訓を告げました。

 

   望みが少しでも緑であるかぎりは、教会が破門しようとも、人が破滅して永劫の愛が及ばなくなるなどということはありえない。(『煉獄篇』第3歌133~135、平川祐弘訳)

 

   この言葉は、『煉獄篇』第3歌の主役マンフレーディの口を借りたダンテの信条です。堕落したローマ教皇から破門されても神の愛によって救われる、とダンテは主張したいのです。「望みが少しでも緑であるかぎり」はあきらめてはならない、と彼は言いたいのです。その原文は難解で、いまだ納得のいく解釈がなされていないのですが、シングルトンの注釈から敷衍して説明してみましょう。原文の直訳は「望みが緑の花を着けている間は (mentre che la speranza ha fior del verde)135」となるでしょう。現代では、「緑色」は自然保護や若さと活力を象徴する好印象の色ですが、イタリアには「緑の服を着る人は自信過剰 (Chi di verde si veste, troppo di sua beltà si fida)」という格言や「無一文だ (essere al verde)直訳:緑の所にきている」という慣用語があります。ダンテの「緑」の用法に連関しているのは後者のほうです。イタリアの昔の蝋燭は、底の部分が緑色に着色されていたと言われています。それゆえに、蝋燭が燃え尽きる前には緑の部分が現れますので、「終末」という意味で使われていました。それゆえに、ダンテの詩句は「望みの蝋燭の火がまだ緑の部分にある間は」という意味になるのです。

 

浄罪の期間

 

   我が国の仏教では、死んでから運良く天国(=浄土)に行けたとしても、一つの関門をそれぞれ7日ずつかけて七つの関門を49日で旅をします。ダンテの『神曲』の煉獄では、七つの関門を通過しなければならないことは偶然に同じですが、それにかかる日数は決まっておりません。この世でおかした罪業の重さによって、浄罪の期間がことなります。煉獄前域では、マンフレーディが次のように説明しています。

 

    聖なる教会から破門されて死んだ人は、たとえ末期に前非を悔いたとしても、不遜に過ごした時の30倍の時を山の外れのこの谷で過ごさねばならぬというのは事実だ、善良な人々の祈りで、この掟の時間が短縮されれば別だが。(『煉獄篇』第3歌136~141、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   聖なる教会からの破門の状態で死ぬ者は誰であろうとも、たとえ死の間際に悔い改めようとも、人がその人の慢心の状態であったそれぞれの期間の30倍、ここの断崖(壁)の外側に留まらなければならない、と言うことは真実である、もし、そのような掟が、善良な人の祈りによって短くなることがなければ。

 

    上で述べられている二つの事項は、『煉獄篇』全篇を通して語られることです。法律的な罪は別にして、この世でまったく罪を犯さないで人生を終えた人間などという者は存在しません。宗教的および道徳的罪は、死んでから計量されることになりますが、その重さに従って煉獄での浄罪期間が決定されます。上の詩文に述べられた最初の項目は、煉獄前域では、この世の罪の30倍だけ留まって罪を浄めなければならない、ということです。当然、他の煉獄の場所では、また別の基準が設けられています。第二番目の事項は、この世で生きている者が死者のために祈ることによって、浄罪期間が短縮されるということです。この条件は、煉獄界のすべてに該当することです。

 煉獄前域において留まらなければならない「30倍」という数字の根拠は、ダンテ自身も明らかにしておりません。ダンテ学者も、まだ誰も解明していないようです。ただ、そのダンテの数値を基にして、19世紀末から20世紀初頭に活躍したダンテ学者フランチェスコ・トラーカ (Francesco Torraca)が、マンフレーディの煉獄滞在期間を算定しています。マンフレーディが破門宣告をうけたのは1257年で、宣告を受けたままで死んだのが1266年ですから、その破門期間は9年です。それゆえに、彼が煉獄前域に留まらなければならない年数は270年ということになります。そして、ダンテと出会っている年号は1300年なので、マンフレーディが煉獄に来てまだ34年しか経っていません。ということは、まだあと236年間この前域で浄罪しなければ、煉獄本地に入ることができないのです。ただし、マンフレーディの娘コンスタンツァ(1302年死去)か、または孫のアラゴン王ジャコモ(1327年死去)か同じく孫のシチリア王フレデリック(1337年死去)が彼のための鎮魂のミサでも行うならば、浄罪期間は短縮されます。ダンテが現世に戻ってから、マンフレーディの娘や孫に出会ったという記録はありません。ただし、それも煉獄前域だけの話で、本地に環道(コルニーチェ、Cornice)に入れば、他の浄罪が待っているかも知れません。この遥か先の第5環道で出会うことになる古代ローマ詩人スタティウスなどは西暦96年ごろ亡くなっていますので、1200年以上も煉獄山で浄罪を続けていました。

 

 マンフレーディの霊魂は、別れ際に次のようにダンテに依頼をしました。

 

   さあもし私を喜ばせてくれる気があるなら、私の娘のコンスタンツァに会って伝えてくれ、君が見た私の様子やこの禁制(さだめ)を。ここでは現世の人々の祈りで進みがずっと早くなるのだ。(『煉獄篇』第3歌142~145、平川祐弘訳)

 

ブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)と、パジェット・トインビーの『ダンテ辞典』です。
原文:C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2:Commentary, Vol.2.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols, Princeton U.P.
P. Toynbee (Revised by C.S. Singleton) “A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of Dante”Oxford U.P.