昨日、鍛冶職人さんの工房へお邪魔しました。



こちらの工房では、馬の蹄鉄職人さんが1頭1頭に合わせて作業を行なっています。



競走馬の蹄鉄はアルミ製とのことで、昨今では炉に火を入れる機会も減っているそうですが、いつでも作業が可能な設備が整っていました。



馬の蹄鉄には専門の技術者が不可欠で、蹄鉄技術を競うコンクールも開催されているそうです。



今回は、友人で甲冑修復家の佐藤さんのご好意で、見学会に便乗させて頂きましたが、想像以上の設備に感動すら覚えました。



私が使っている刃物類は、基本的に自作です。
理由は、刀剣工作に用いる刃物は用途が限られるため、ほとんど市販されていないからなのです。
やむなく自作する場合は、どうしても火造りの場所の確保に苦労します。

実は現在、別件にて鍛冶場の提供に向けて交渉中です。
会場の確保が実現すれば、体験型ツアーで刃物作りのイベントも開催したいと思っています。
柄前完成です!

いろいろな拘りのあるご依頼でしたので、時間ばかりかかっています。

この度の外装は、基本的な形状は武蔵拵の部類に入ります。
武蔵拵というと、特別なイメージがありますが、パッと見は肥後様式です。
肥後ですと、言い方が悪いですが、ゴロンとしていて強靭さを重視した拵えになりますが、この度の柄前は使用感に重きを置いていることが特徴です。



鍔は、鉄地の海鼠鍔です。当初、安易に入手できるものと高を括っていたのですが、取り寄せてみるとサイズが小さかったり、カタチがいびつであったりと、なかなか気持ちの良い海鼠透かしが手に入らず、気付いたら4つも5つも手に入れてしまいました。
中でも特に大振りな一枚が気に入ったので採用しました。



鍔が決まると、今度は縁頭の選択です。ここでも武蔵を意識して、刀装具を選択します。

武蔵という剣豪は大変拘る性格のようで、こと刀装具となると自作しており技法は稚拙ですが、使用感やバランスが絶妙です。そのため、形状から材質まで同様のものを選ぶのは、大変な労力を要しました。

下地の整形では、武道にお使いになられるご様子でしたので、実用の美を意識して妥協せずに柄成りを作り込みました。

ご指示により、鮫皮は総巻きに背で合わせ、柄巻きは正絹の諸摘みです。
柄糸の色は、青系統の指定でした。私は個人的に既製色の青が嫌いなので、一から染色を繰り返して深みのある紺色に仕上げました。



目貫は特にご指定いただかなかったので、ご予算の都合も考えて現代製の勝虫を選択しました。
ご依頼により、目貫の位置を表裏逆に取り付けました。

ちなみに、目貫の位置を逆にするイコール柳生拵と思われがちですが、柳生拵の掟からいって目貫を逆にしただけでは連也斎の嗜好を踏襲した事にはなりません。下地から全く別の作り込みを施さなければなりませんので、この場合は目貫の位置を表裏逆に取り付けたに過ぎません。(逆目貫にしても、逃げ目抜きにはなりませんので、ご注意下さい。)

また、軍刀拵が逆目貫と思っていらっしゃる方もいるかもしれませんが、軍刀の場合は太刀拵えの一種ですので、太刀と刀では別物です。

次に鞘を仕上げます!
鎌倉は、古事記や万葉集にも見られるように、大変古い歴史をもった古都です。
承平年間(931~938)に編纂された「倭名類聚抄」には鎌倉郡七郷の記載があります。
それらは、鎌倉郷・沼濱郷・埼立郷・荏草郷・梶原郷・尺度郷・大島郷です。

このうちの主要地区は、名称から言っても尺度郷(サカド、シャクド=測定の基準)が鎌倉郡の本郷であったと考えられます。つまり、当時の鎌倉の中心地は、現在の横浜市栄区の本郷台周辺でした。

なお、JR本郷台駅付近には、かつて七石山という墳墓群がありました。
残念なことに線路の敷設工事で、大半が消失してしまいましたが、現在もなお一部が保管されています。



この棺室構造をもつ横穴墓は、いたち川流域に集中してみられる特徴的な横穴墓で、いたち川流域以外の横浜市内では港南区、磯子区、港北区にもいくつかみられます。
なぜ、この地域だけに特殊な形状の横穴墓が密集しているのか、様々な推測をよんでいますが、6世紀中旬~8世紀初頭までに作られたことが知られています。

私見ですが、この墳墓群は、製鉄技術者との関係が濃厚だと思います。
柄前の革巻き依頼にて、ご指定の鹿革が届きました。



二蹄分の鹿革です!

包みを開けた瞬間の興奮がさめやらず、他の作業が手につきません(笑)。
すごい高級品に、感動しています。
当該イベントは、横浜市栄区周辺に残る製鉄技術者の足跡を実際にたどり、関東の鉄文化と歴史を学ぶトレッキングツアーです。



相州鍛冶の出現は、粟田口の国綱が建長期に北条時頼の求めに応じて下向し、その後、備前の三郎国宗、一文字助真が続いて、鎌倉鍛冶の源流になったと伝えられています。
また、刀剣類の資材である鋼材及び鉄材が、どのようにして供給源から消費地である相模国鎌倉郷に運送されたのか、また流通経済の過程はいかなるものであったのかについては、既に多くの研究がなされており、定説化しています。

そこで、城之内正衛氏の「鎌倉山内鍛冶居住跡推考」の抜粋を紹介し(以下、赤文字は原文より)、定説の確認をしたいと思います。

 この時代の荘園制度は、物資交流経済で、隷属領地に命じ、必要な資材として鋼材は刀剣鍛錬上の必要から、玉鋼及び木炭(赤松炭)を荘園経済を司る領事(山内荘に古名字が在する)が荘務権職に命じ、荘官及び定役権職がその荘務を補職し、または荘官等を供給地に派遣の手続きや、方法などを講じ、幕府の必要の鋼材である玉鋼及び木炭等を、すでに廃れ行きつつあった延喜式を参酌して下命し、東海道職制の陸水路を活用して、幕府の所在地である鎌倉郷へ搬入したものと推定される。

コメント:荘園制度にのっとって、理路整然とした物資の流通が行なわれていたことが紹介されており、鎌倉時代の流通が適切に管理・運営されていれば、後世に劣らない素晴らしいシステムが確立していたことになります。しかし、当時の武家の気性を考えると、刀剣や武具の調達に順序を経て杓子定規にルールを守ったとは考え難く、自らの命に関わる武器や武具の製造は、自己責任でおこなわれたことが想像されます。

 優れた刀剣や武具の鍛錬には良質の玉鋼が最も必要であることは申すまでもないが、それらの資材の供給源は主として山陽道方面であった。この地域は幕府の鉄鋼の経済的隷属地ともいうべき地方で、地頭は、頼朝の功臣である佐々木高綱一族が守護職として、支配している。

コメント:鉄の供給源について、山陽道方面を挙げていますが、鎌倉山内地域で鉄が取れないことが大前提の論旨です。鎌倉山内周辺で純度の高い豊富な鉄が産出されるとなれば、コスト的にも確実性からいっても遠方からの貿易に頼ることはリスクが大きすぎます。

 備前(中国山地の玉鋼)・伯耆・筑紫等の国々から、河川などの水路と、更に海運船の便を使用して、鋼材たる玉鋼を搬出し、その運送方法は、初めに考え得るのは船を利用して海路を運搬することと、他の方法は陸路便を活用することである。この陸路便はすでに時代と共に慣習化し、延喜式によれば人的資源として荷負疋夫が最も多く使用せられた。

コメント:備前伝の肌をして、材料の優位性を認めることは難しいと思いますし、古伯耆の特徴の一つは、大肌鍛えですが、相州伝に通ずる作域を感じます。山陰の鉄の品質が、他地域の鉄に比べて優れているとすれば、粟田口の様な良く練れた肌の伝法になっていてもおかしくないはずです。

 馬は、この時代は運搬の具ではなく、権力のある人が乗用するもので、当時は馬が少なく、貴重な戦力でもあった。時代が進むにつれて、馬匹が増加し、馬背で運搬を行なうようになった。

コメント:旧山内地区から鎌倉へ入城するルートは、切通し意外には鎌倉開幕以前から存在する修験道の古道があります。現在も当時の雰囲気を留めているこの古道は、相模国と武蔵国の国境に位置し、要所には馬の地名や馬頭観音が点在していることから考えても、鎌倉時代当初から運搬の足として馬が多用されていたことが伺えます。

 海路は船舶便で行い、幕府の公用船と、海運業者として、集団請負船族も存在し、生産地、供給地から需要地の鎌倉山内地領へ運送されたものである。即ち、陸路便もしくは水運船を利用して、延喜式に示される方法で、荷負疋夫と担夫馬背方式で、幕府へ上納もしくは納入したのであった。海運便は、特に経済的で、商業貿易船団が大量の物資を運送したことは肯ける。但し船運には、十分に季節を考えねばならぬことと、海賊の襲来を考えねばならない。また、陸路便は特に貴重品類に重点をおき、これらの運送は、人背、馬背、牛背等によった。


コメント:長年の実地調査より、旧鎌倉山内地区は関東でも有数の鉄の産地です。従来より、鎌倉周辺は鉄分が多いと言われているものの製鉄には向かない赤目砂鉄とされてきましたが、必ずしも断言出来ないのでは?と考えるにいたっています。

 陸揚げ港すなわち幕府公認港は、材木座海岸の和賀江港である。しかし和賀江は、地形ならびに立地条件が悪く、港としては最適地ではなかった。たびたび改港もされたが効果がうすく、それに反して六浦港は内海性を有する港で、風潮の変化はあっても、和賀江港より天候の変動による荒れも少なく、気温も穏やかで地形もよく、幕府の経済交易港としては最適であったと推察される。幕府が多量の資材を海路によって集積する政治体制を樹立した時代には六浦港を幕府の公式の港として活用したのももっともと思われる。

コメント:和賀江島には、当時外国の船舶も就航していたといいます。恐らく、大型船舶は沖に停泊し、小船で和賀江島へ向かったのではないでしょうか?和賀江島は、貿易港としての性格よりも、税関や海の関所としての役割が優先されたと想像します。

 この六浦港はかつて三浦氏の支配下にあった。幕府は六浦港を物資の陸揚げ港とし、陸揚げされた物資は、延喜式等に見る人・牛・担夫等によって山内の本郷地区にある鍛冶ヶ谷および鍛冶谷戸地帯へ運んだ。鉄材、鋼材、木炭等をこの手工業地帯に集積し、荘官の管理下で使用されたと推量される。


コメント:六浦港が第一級の貿易港であったことは間違えありません。しかしながら、相州鍛冶の材料は、幕府需要を潤すだけの十分な鉄を現地で調達できたと考えられます。そのため、六浦港から鉄を輸入する必要性を感じられません。山内地区ばかりか久良木地区も鉄の原料が取れる土地柄であり、関連する地名が多く残されています(金沢、氷取沢(旧火取沢)など)。六浦港の最も重要な役目は、鎌倉周辺で製造された刀剣や甲冑といった武器類を輸出し、嗜好品や先端技術を輸入することにあったと感じます。
そのため、金沢周辺は鎌倉城内よりも先に最新の文化を取り入れることができ、浄土式庭園や金沢文庫、南宋文化といった思想などを、いち早く吸収することができたのだと思います。


ブログで紹介できることは一部に過ぎません。一人でも多くの方に、刀剣の面白さ・謎の多い相州伝についてなど、ご紹介しています。また、従来の理解では解釈が難しい、横浜市栄区の地域の魅力も発信しています。

ご興味をお持ち頂いた方は、下記リンクよりお問い合わせください。
http://www.mononofukougei.com/event.html
子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

言わずと知れた論語の冒頭文です。

解釈については、時代や国の違いによっても、若干の解釈の違いがあるでしょう。
当時のことを想像して解釈すると「学びて習う」ことは礼です。理由は、司馬遷が何百年後に魯国の孔子廟へ観光?へ行き、「時習礼其家」(つねに礼楽を孔子の家に習っている人達がいた)と記録しているからです。つまり、音楽を学びて習うということです。
私は、読む人によって違う解釈があっていいと思います。私の場合は、「志」です!

ちなみに余談ですが、司馬遷のかっこいいところは「時習礼其家」を、孔子の「學而時習之」と「時習」で韻を踏んでいるところです。


いずれにしろ、最近特に論語に共感を覚えます。

と言うわけで、自己流の解釈を交えて現代語訳させて頂きます。


 師はおっしゃいました。
 志を学んで、様々な体験をつみ、それを自分のものにしていく・・・。
 あ~ぁ、なんて遣り甲斐のある生き方だろう!
 正しいと信じて突き進んでいると、同じ志を抱く友が訪ねて来てくれたりする。
 あ~ぁ、なんて人生は楽しいのだろう!
 でも、他人からどう思われるかなんて、たいして大事なことではない。
 己が道を突き進むなら、かりに社会に認められなくたって、些細なことなのだ。
 そして、志を貫き通すことこそ、真の求道者なのではないだろうか。
日本刀を日本刀らしく構成している要素に、柄巻きがあります。

柄巻きとは、読んで字の如く柄に紐を巻く日本古来の外装製作技法です。
通常は、紐状の正絹や木綿、革などを用いて鮫皮を着せた柄下地に巻いていきます。
変わったものでは、紙で巻いて漆を塗ったものや、筒金という金属で表面を覆ってしまうもの、木の皮の蛭巻きなどなど、大変凝ったものを拝見する事もあります。

一見簡単そうな柄巻きですが、実は意外な重労働です。
きれいに仕上げようと思えば、いくら時間があってもきりがありません。



今回の柄巻きは、正絹の諸摘み巻きという技法です。
あとちょっと!あとちょっと!ですが、頭まではまだまだ先なのです。
日本刀には、鑑賞研磨を施します。
これは、包丁やナイフを研ぐのとはわけが違って、鑑賞や鑑定をおこなううえで大変重要な要素になります。

中にはそうした鑑賞研磨を施さずに、もっぱら刃先を立てて平肉のコンディションを調整するだけの実用研ぎもあります。今日では武道刀にのみ施しますが、日本の刀剣類は武器として以前に、美術品として取り扱う事が大前提です。現代刀や戦時中に戦闘目的で作られた刀剣以外に、そのような研磨法を施すと、取り返しのつかない過ちになりかねません。一度削ぎ落とした鉄は、二度と元には戻らないからです。



今回研磨中のお刀は、鑑賞研磨を施した状態から巻き藁や竹を切ったと見えて、物打ち周辺に無数の傷が残っています。
この傷を「切りヒケ」などといいますが、修復する場合に意外と馬鹿にできない深い傷なのです。
内曇砥(仕上げ砥石)では落としきれないため、改正砥あたりまで戻らなければなりません。
砥石の番手を下げれば下げるほど、仕上がりまでには時間も労力もかかります。

ちなみに、研ぎ師なら切りヒケを見れば、使用者の剣術の腕がわかります。また、何を切ったかも検討がつきます。
10年ほど前は、戦後長らく放置されて古研ぎ状態で発見された刀剣がよく持ち込まれました。それらの実戦刀からは、巻き藁や竹とは一風変わった切りヒケを目にする事がありました。
何とも表現し難いヒケ傷なのですが、後にそれが動物を切った時につく特徴的なヒケなのだということを、先輩研ぎ師に教えられてゾッとしたものです。
栄区の鍛冶ヶ谷周辺にある小高い丘の公園です。


・傾斜地に設けられた公園からは、鍛冶ヶ谷周辺が一望できます。

ここは、鎌倉時代に斉田左衛門という人物の砦があったとされ、地名からも分かるように刀剣でいうところの相州伝の製鉄技術者が住んでいました。
ちょうどJR本郷台駅周辺を一望できるような位置なのですが、まさしく山ノ内鍛治の聖域とも言うべきスポットです。


・対岸の住宅地が見えます。夜見ると家々の明かりが、無数のたたら操業の明かりのようにも見えてきます。

先日実施した相州鍛治の足跡を探るトレッキングツアーでは、眼下を流れるいたち川を上流まで歩き、相州鍛治の歴史や地域の遺構などを巡る、壮大な謎解きイベントといたしました。


・この方向に、春日神社→本郷台駅(七国山跡)があります。

当初計画していた天園越えルートは、前日からの雨で断念したため、急遽ルートを練り直さなければならず、ツアーのストーリーを練りながらガイドを行うという、過酷な立ち位置に追い込まれてしまいました(笑)。
何とか着地点を見出して、参加者の皆さんをゴールまで導く事ができて、ホッとしました。

・鍛冶ヶ谷の周辺です。この一帯は、傾斜地になっていて鉄穴流しに適した形状で、近隣地区からはたたら製鉄跡も無数に発見されています。

後日、トレッキングツアーのアンコールのお声を多数頂きましたので、同ルートで再開催を検討しています。
研ぎ桶がバラバラに分解してしまいました。

元々既製品を加工して使用していたのですが、軽い気持ちで洗って乾かしたところ・・・
水漏れが酷くなってしまいました。



やむなく今はバケツを使っています(涙)。

刀剣研磨用の桶は、やけにコスト高なので買うには抵抗があります。

もう少しコンパクトで、安価なお風呂用の桶でもいいのかな?と思っています。
お風呂用の手桶なら、サイズ的に二つ置けるので、行程に合わせて水を汲み直さなくて良い利点は有りそうです。
候補品を探すのも、おもしろいものです!