当該イベントは、横浜市栄区周辺に残る製鉄技術者の足跡を実際にたどり、関東の鉄文化と歴史を学ぶトレッキングツアーです。
相州鍛冶の出現は、粟田口の国綱が建長期に北条時頼の求めに応じて下向し、その後、備前の三郎国宗、一文字助真が続いて、鎌倉鍛冶の源流になったと伝えられています。
また、刀剣類の資材である鋼材及び鉄材が、どのようにして供給源から消費地である相模国鎌倉郷に運送されたのか、また流通経済の過程はいかなるものであったのかについては、既に多くの研究がなされており、定説化しています。
そこで、城之内正衛氏の「鎌倉山内鍛冶居住跡推考」の抜粋を紹介し(以下、
赤文字は原文より)、定説の確認をしたいと思います。
この時代の荘園制度は、物資交流経済で、隷属領地に命じ、必要な資材として鋼材は刀剣鍛錬上の必要から、玉鋼及び木炭(赤松炭)を荘園経済を司る領事(山内荘に古名字が在する)が荘務権職に命じ、荘官及び定役権職がその荘務を補職し、または荘官等を供給地に派遣の手続きや、方法などを講じ、幕府の必要の鋼材である玉鋼及び木炭等を、すでに廃れ行きつつあった延喜式を参酌して下命し、東海道職制の陸水路を活用して、幕府の所在地である鎌倉郷へ搬入したものと推定される。
コメント:荘園制度にのっとって、理路整然とした物資の流通が行なわれていたことが紹介されており、鎌倉時代の流通が適切に管理・運営されていれば、後世に劣らない素晴らしいシステムが確立していたことになります。しかし、当時の武家の気性を考えると、刀剣や武具の調達に順序を経て杓子定規にルールを守ったとは考え難く、自らの命に関わる武器や武具の製造は、自己責任でおこなわれたことが想像されます。
優れた刀剣や武具の鍛錬には良質の玉鋼が最も必要であることは申すまでもないが、それらの資材の供給源は主として山陽道方面であった。この地域は幕府の鉄鋼の経済的隷属地ともいうべき地方で、地頭は、頼朝の功臣である佐々木高綱一族が守護職として、支配している。
コメント:鉄の供給源について、山陽道方面を挙げていますが、鎌倉山内地域で鉄が取れないことが大前提の論旨です。鎌倉山内周辺で純度の高い豊富な鉄が産出されるとなれば、コスト的にも確実性からいっても遠方からの貿易に頼ることはリスクが大きすぎます。
備前(中国山地の玉鋼)・伯耆・筑紫等の国々から、河川などの水路と、更に海運船の便を使用して、鋼材たる玉鋼を搬出し、その運送方法は、初めに考え得るのは船を利用して海路を運搬することと、他の方法は陸路便を活用することである。この陸路便はすでに時代と共に慣習化し、延喜式によれば人的資源として荷負疋夫が最も多く使用せられた。
コメント:備前伝の肌をして、材料の優位性を認めることは難しいと思いますし、古伯耆の特徴の一つは、大肌鍛えですが、相州伝に通ずる作域を感じます。山陰の鉄の品質が、他地域の鉄に比べて優れているとすれば、粟田口の様な良く練れた肌の伝法になっていてもおかしくないはずです。
馬は、この時代は運搬の具ではなく、権力のある人が乗用するもので、当時は馬が少なく、貴重な戦力でもあった。時代が進むにつれて、馬匹が増加し、馬背で運搬を行なうようになった。
コメント:旧山内地区から鎌倉へ入城するルートは、切通し意外には鎌倉開幕以前から存在する修験道の古道があります。現在も当時の雰囲気を留めているこの古道は、相模国と武蔵国の国境に位置し、要所には馬の地名や馬頭観音が点在していることから考えても、鎌倉時代当初から運搬の足として馬が多用されていたことが伺えます。
海路は船舶便で行い、幕府の公用船と、海運業者として、集団請負船族も存在し、生産地、供給地から需要地の鎌倉山内地領へ運送されたものである。即ち、陸路便もしくは水運船を利用して、延喜式に示される方法で、荷負疋夫と担夫馬背方式で、幕府へ上納もしくは納入したのであった。海運便は、特に経済的で、商業貿易船団が大量の物資を運送したことは肯ける。但し船運には、十分に季節を考えねばならぬことと、海賊の襲来を考えねばならない。また、陸路便は特に貴重品類に重点をおき、これらの運送は、人背、馬背、牛背等によった。
コメント:長年の実地調査より、旧鎌倉山内地区は関東でも有数の鉄の産地です。従来より、鎌倉周辺は鉄分が多いと言われているものの製鉄には向かない赤目砂鉄とされてきましたが、必ずしも断言出来ないのでは?と考えるにいたっています。
陸揚げ港すなわち幕府公認港は、材木座海岸の和賀江港である。しかし和賀江は、地形ならびに立地条件が悪く、港としては最適地ではなかった。たびたび改港もされたが効果がうすく、それに反して六浦港は内海性を有する港で、風潮の変化はあっても、和賀江港より天候の変動による荒れも少なく、気温も穏やかで地形もよく、幕府の経済交易港としては最適であったと推察される。幕府が多量の資材を海路によって集積する政治体制を樹立した時代には六浦港を幕府の公式の港として活用したのももっともと思われる。
コメント:和賀江島には、当時外国の船舶も就航していたといいます。恐らく、大型船舶は沖に停泊し、小船で和賀江島へ向かったのではないでしょうか?和賀江島は、貿易港としての性格よりも、税関や海の関所としての役割が優先されたと想像します。
この六浦港はかつて三浦氏の支配下にあった。幕府は六浦港を物資の陸揚げ港とし、陸揚げされた物資は、延喜式等に見る人・牛・担夫等によって山内の本郷地区にある鍛冶ヶ谷および鍛冶谷戸地帯へ運んだ。鉄材、鋼材、木炭等をこの手工業地帯に集積し、荘官の管理下で使用されたと推量される。
コメント:六浦港が第一級の貿易港であったことは間違えありません。しかしながら、相州鍛冶の材料は、幕府需要を潤すだけの十分な鉄を現地で調達できたと考えられます。そのため、六浦港から鉄を輸入する必要性を感じられません。山内地区ばかりか久良木地区も鉄の原料が取れる土地柄であり、関連する地名が多く残されています(金沢、氷取沢(旧火取沢)など)。六浦港の最も重要な役目は、鎌倉周辺で製造された刀剣や甲冑といった武器類を輸出し、嗜好品や先端技術を輸入することにあったと感じます。
そのため、金沢周辺は鎌倉城内よりも先に最新の文化を取り入れることができ、浄土式庭園や金沢文庫、南宋文化といった思想などを、いち早く吸収することができたのだと思います。
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