3月24日(土)は埼玉県嵐山町にある杉山城での見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。今回の見学会は史学会評議員の奥田好範さんが案内してくれました。

 集合場所は東武東上線の武蔵嵐山駅でした。集合時間になって参加者はタクシーに分乗して杉山城に向かいます。この日の参加者は杉山城現地集合も含めて33名でした。武蔵嵐山駅から延べ7台のタクシーに分乗して杉山城に向かいました。

 

東郭からみた杉山城本郭、南郭方面

 

 天気予報ではこの日は雨のち曇りであまりよくありませんでした。雨天決行の見学会なのでどうなるか心配していましたが、ほとんど雨は降ることなく無事に見学会が出来ました。この日は関東では雨が降った場所は多かったですが、杉山城周辺は大丈夫でした。

 

当日の見学会の様子

 

出郭

 

 タクシーで杉山城の入口にある積善寺を目指します。積善寺の裏山が杉山城になります。積善寺の入口でタクシーを降りて一時集合してから杉山城に向かいます。

 

出郭2

 

 杉山城の南東から城内に入ります。積善寺から少し登った場所は出郭で城内になります。ここには説明板やパンフレットが置いてあります。出郭は曲輪になっていて、西側には土塁や空堀がありますが、東側は削平が不十分です。出郭全域が城として機能したかは疑問です。

 

大手口に向かう

 

 出郭のすぐ先に大手口があります。大手の虎口は土橋、空堀、土塁で守られていて、なかなかの重防御です。

 

大手口土橋と空堀

 

外郭

 

 杉山城は遺構がよく残り、喰い違いや枡形の多様な虎口、随所に見せる横矢、横堀、竪堀の巧みさの縄張りから「戦国時代の城郭の最高傑作、山城の教科書」といわれてきました。永禄年間以降(1558から1570)に後北条氏によって築城されたと考えられていました。

 

外郭北側

 

 杉山城では平成14年から19年に発掘調査が行われて、山内上杉家の特徴を持つかわらけが発見されました。一緒に出土された物は15世紀末から16世紀初頭にかけての遺構だと判断されました。後北条氏時代の遺構は発見されませんでした。

 古河公方の足利高基の書状写に「椙山の陣」の記述があり、書状の内容から椙山の陣は永正9年(1512)から大永3年(1523)の出来事だと想定されました。発掘調査と文献史料が一致したことにより永正の終わりから大永にかけて(1520前後)に山内上杉家によって築城された城だという一応の結論がでました。

 

西側馬出

 

 杉山城を見てみると巧みな縄張りに目を引きますが、土塁や空堀との距離はそれほどありません。鉄砲の使用を想定していない城に思えます。古河公方の政氏、高基親子間での永正の乱のときに一時的に使用された陣城ではないかとの事でした。

 

井戸郭土橋と虎口

 

 杉山城井戸跡

 

 南二の郭から土橋を通り井戸郭に入ります。井戸郭の名称ですが井戸跡はここにはなく、すぐ西側の数M低い曲輪にあります。井戸跡には破城の印として巨石がおかれていました。井戸郭のすぐ東側は本郭があります。空堀があり直接入れないので東側にまわってから本郭に入ります。

 

本郭東虎口から入る

 

 杉山城の中心にある本郭(本丸)は東西南の三方向に虎口がありました。現在でも東虎口と西虎口から入れます。東虎口は発掘調査から幅1.8M、高さ43センチ石列が発見されました。虎口は内部の郭に向かって「ハ」の字の形で広がる作りでした。

 

本郭東虎口

 

本郭南虎口

 

 本郭南側は「コ」の字型の土塁であり、西側の土塁の切れた箇所には虎口があります。虎口の正面には空堀があり先には井戸郭があります。ここは木橋でつないでいたと思われます。

 

本郭西虎口から北の郭に向かう

 

 本郭には三箇所虎口があり、西側の虎口から北側を目指します。

 

北二の郭虎口と空堀

 

 北側は北二の郭と三の郭の二つの曲輪があり、枡形虎口や土塁、空堀で守られています。南側に比べると少し雑な縄張りに見えます。

 

北三の郭

 

 北の郭を見学した後は本郭経由で東の郭に向かいます。ここも二つの曲輪から成り土塁、空堀、土橋、枡形虎口があります。城北側、東側は以前より整備されて、遺構が分かりやすくなり、見学しやすくなっていました。

 

本郭方面から東郭に入る

 

東二の郭土橋

 

東三の郭の土塁

 

 杉山城を見学したら杉山城の模型や史料を展示している嵐山町役場を目指します。役場に着いて史料や模型を見て、この日の見学会は終了です。現地集合の人とはここでお別れです。役場から嵐山駅まで少し距離があるので奥田さんに駅まで案内していただきました。

 

杉山城模型

 

 嵐山駅に着いたらここで見学会は解散です。杉山城は土の城で雨が降ったり、地面が濡れていると斜面部分の移動は難儀したことでしょう。当日の天気はいつ雨が降ってもおかしくなかったですが、ほとんど雨は降らずに支障なく見学出来ました。見所の多い杉山城を効率よく見学出来た見学会でした。
 

 2月27日(土)は茨城県笠間市にある笠間城での見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。今回の見学会は史学会評議員の坂井尚登さんが案内してくれました。

 この日の天気は晴天で山城見学には絶好の天気でした。つくばエクスプレスの研究学園駅に集合してバスで笠間に向かいました。バスの定員の関係もあり参加者は二十数名でした。笠間城の見学がメインですが、同じ笠間市内にある宍戸陣屋の移築門と土塁を先に見学します。

 

 

笠間城八幡台櫓(麓に移築)

 

 最初の目的地である宍戸陣屋移築門までは少し時間がかかりました。途中で以前史学会で見学した小田城を間近に通り、筑波山を車中から見ながら移動しました。坂井さんから途中にある城跡や地形の説明を聞きながらの車中でした。

 

宍戸陣屋移築門

 

 宍戸陣屋は水戸徳川家の支藩である宍戸藩の陣屋です。天和2年(1682)水戸徳川家の初代頼房の七男頼雄が1万石で宍戸に入り、幕末まで続きます。明治に入って廃藩置県を経て陣屋の西側にあった表門が現在の場所に移築されて今に至っています。江戸時代後期の安政5年(1858)に建てられた長屋門です。

 

宍戸陣屋移築門の葵家紋

 

 宍戸陣屋は中世の宍戸城を再利用した陣屋です。宍戸城の本丸周辺を陣屋としました。今でも断片的ですが土塁が残っています。宍戸城は鎌倉時代初期の有力御家人である八田知家の末裔である宍戸氏の居城でした。天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐時に対応を誤り所領を失いました。

 

宍戸陣屋土塁跡1

 

宍戸陣屋土塁跡2

 

宍戸陣屋土塁跡3

 

 宍戸陣屋を見学した後は笠間城に向かいます。笠間城は山城ですが途中まで車で行くことが出来ます。今回は麓から笠間城に登ります。西側の笠間市街地側から登るのが一般的ですが、今回は北側の坂尾土塁から登ります。

 

坂尾土塁

 

 坂尾土塁は今でも土塁がよく残っています。左右の二つの土塁があり、土塁はそれぞれ少しずれていて喰い違い虎口を形成しています。今でも喰い違い虎口は残っています。土塁の外側には堀がありましたが、今では埋められています。正保城絵図にも笠間城の坂尾土塁の喰い違い虎口は記されています。虎口を通り城に向かう現在の道は当時の登城路の一つでした。

 

北側から城内に入る

 

 当時の登城路に近いルートである遊歩道を登っていくと車道と合流しました。車道に沿って進むと巨大な大黒石があります。大黒石は戦いの時に攻め手に対して落とした伝承がありますが、真実ではありません。石の周りが風化して堅いところだけが残り今に至りました。

 

大黒石

 

 大黒石を通り車道を進むと、千人溜跡に着きました。千人溜は曲輪の広さを活かして現在は駐車場になっています。多少の改変や破壊はされていますが曲輪の広さは今でも体感できます。ここまでは車で来ることが出来ます。笠間まで乗ってきたバスはここで待機しています。

 

大手門跡

 

 笠間城は鎌倉時代初期に宇都宮氏一族の笠間氏によって築城されたといわれています。建武4年(1337)に烟田氏の軍忠状に笠間城の記述があり、これが資料での初見です。宍戸城と同じく笠間氏の城として使用されますが、笠間氏の所領没収後は宇都宮氏や蒲生氏が入ります。江戸時代に入っても笠間城に入る大名は短い期間で転封が多くて落ち着きませんでした。江戸時代中期に譜代大名の牧野氏が笠間城に入り、幕末まで続きます。

 

本丸に入る

 

笠間城本丸

 

 本丸には八幡台櫓跡の石碑がありますが、実際はこの場所には建てられていませんでした。石碑がある場所から数Mほどずれた場所に建てられていました。

 

笠間城八幡台櫓跡の石碑

 

実際に八幡台櫓があった場所

 

 城内には門跡や建物跡だと思われる場所に複数の礎石が残っていました。貴重な遺構ですが名称版や説明板がないので気がつきにくいです。

 

礎石跡

 

 本丸を見学した後は、天守曲輪に向かいます。天守曲輪は2011年3月の東日本大震災で石垣や建造物が破損して、修復がなかなか進まずに今でも途中から立入禁止になっています。この日の見学会も立入禁止の看板の所までの見学でした。

 

天守曲輪石垣(震災前)

 

 天守曲輪にある神社の社殿は笠間城の天守を解体した時に部材を流用しています。柱をよくみると関係ない場所に穴があったりして、以前天守だったときの名残があります。

 

佐志能神社社殿(震災前)

 

 本丸に戻り、行きとは違うルートでバスの停まっている千人溜跡を目指します。途中には櫓跡や石垣がありました。

 

穴ヶ崎櫓跡

 

 笠間城見学後は麓の真浄寺に向かいます。ここには寺院には似つかわしくない二層の櫓があり、これは笠間城八幡台櫓の移築建造物です。

明治13年(1880)に城内から現在地に移築されました。原形のまま移築されたと言われていますが、出っ張った箇所などは移築後に改変されたのではと思われます。

 

真浄寺

 

 今回の見学会では櫓内にも入れました。今でも2階建て構造ですが、二階は荷物置き場になっているので入れませんでした。外観は少し大きく感じる櫓でした。

 

移築櫓内

 

 真浄寺見学で今回の見学会は終了です。バスで集合場所の研究学園駅を目指します。天気にも恵まれ、それほど寒くもなく冬の山城見学には最適な天気でした。笠間までは少し遠かったですが、笠間城と宍戸陣屋の2城を見学でき、それぞれの城の移築建築物も見学できたので、予想以上に濃い内容の見学会でした。

 12月9日(土)は日本城郭史学会の2023年度第3回城郭史セミナーがありました。テーマは「小牧山城の最新の発掘調査から」です。今回は小牧市教育委員会小牧山課の田中芳樹さんを講師にお招きしました。田中さんは今年放送されたNHKBSプレミアム「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城 徳川家康の城(後編)」に出演して小牧山城を案内しています。

 

小牧山城土塁

 

 小牧山城が信長の居城だったのは永禄6年(1563)から永禄10年(1567)の5年弱でした。その後、天正12年の小牧・長久手の合戦の時は小牧山城は家康の陣城でした。これまで信長は4年しか小牧山城にいなかったので、その後の岐阜城や安土城に比べると見劣りするたいした城ではなかったという認識が地元の人を中心にありました。最近の発掘調査で信長時代の遺構が多く発見され、これまでの認識と違う城だと分かりました。

 

セミナー当日

 

セミナー当日2

 

  小牧山城はほぼ山全体が国指定史跡になっています。小牧山は中生代のチャートの岩山で標高86Mです。今は木が生い茂っているが堆積岩の岩山です。小牧山周辺は堆積岩が浸食しないので山の地形が残りました。
 小牧山は中世以前は不明ですが、寺院があったと考えられます。小牧山北西にある間々龍音寺に小牧山にあった堂宇(四方に張り出した屋根(軒)をもつ建物)が移転した伝承があります。

 

小牧山城遠景1

 

 織田信長が居城としたときに小牧山城の城下町は形成されました。規模は南北1.3キロ、東西1キロの規模で東西南北に延びる道路がありました。道路によって東西120M、南北80Mの長方形街区に分かれていました。道路の面した間口が6から7M、奥行きが55から65Mの短冊形の地割の街並みでした。

 

小牧山城遠景2

 

 平成10年(1998)から平成14年(2002)に城麓東側の小牧中学校跡地で発掘調査が行われました。浅い地表面の遺構は破壊されて確認出来ませんでしたが、深い場所の遺構は残っていました。
 ここに一辺40M前後の方形の形の曲輪が12発見されました。一定の区画だったので家臣の屋敷があったのではと考えられます。発掘調査後は史跡公園として整備されました。小牧山城の麓東側は幅2.5Mの堀と内側に土塁があったと考えられます。


 

 

麓東側土塁

 

土塁断面1

 

 徳川方は小牧長久手の合戦前の改修で麓を一周する土塁と堀を築きました。さらに5ヶ所の虎口も造りました。山頂に続く道を曲げて麓から登りにくくします。この時の改修は短期間で一説では5日間と言われています。時間短縮のために土塁は版築をしないで一気に盛り上げて構築しました。
 江戸時代は尾張藩によって「御勝利御開運の御陣跡」として領民の立入禁止として保護されたので遺構はよく残っていますが、昭和2年(1927)の国指定史跡後に麓に中学校や市役所が造られて一部が破壊改変されました。昭和43年(1968)に山頂に小牧歴史館の模擬天守を建てられます。この時は許可も調査もなく造られたので周辺の遺構は破壊改変されたと考えられました。

 

 

土塁断面2

 

 麓北西にある屋敷跡伝承地でも昭和63年(1988)から平成元年(1989)に発掘調査が行われました。中世期、永禄期、天正期の三期の遺構が発見されました。中世期からは土抗、柱穴、永禄期からは土塁、石列、天正期からは永禄期の土塁をさらに高く盛り足した高い土塁が発見されました。

 

屋敷跡伝承地土塁

 

屋敷跡伝承地水堀

 

 平成16年(2004)から19年(2007)に主郭周辺で試掘調査が行われ、その後発掘調査が行われて現在も継続中です。主郭から三段の石垣が、礎石建物、玉石敷き、庭園跡が発見されます。石垣は裏込め石から高さを推定しました。1.2Mから3.8Mの高さの石垣があったと推定されます。

 

主郭石垣裏込め石

 

主郭石垣

 

 石垣に使用された石は大半が小牧山の堆積岩ですが、一部は花崗岩や河原石も使用されています。花崗岩は近くの岩崎山から採掘されて搬入されています。小牧長久手の合戦時は岩崎山周辺は秀吉方の陣だったので、石垣は信長時代に造られたと考えられます。小牧山城の石垣は野面積みの平積みです。主郭の搦手側から礎石が発見されました。搦手門跡ではないかと思われます。

 

主郭石垣跡

 

模擬天守からの眺め

 

 小牧山城は国指定史跡になった後に遺構が破壊改変されたのは残念ですが、昭和の終わりから発掘調査を行い、破壊された遺構も復元されました。今でも発掘調査が行われて整備されている小牧山城は今後どんな風になるのか楽しみに思えたセミナーでした。

 

 11月25日(土)は栃木県宇都宮市飛山城と壬生町の壬生城内にある精忠神社、歴史民俗資料館の鳥居元忠企画展の見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。
 今回の見学会は史学会委員の笹崎明さんが案内してくれました。宇都宮市は2023年8月に宇都宮ライトレールの路面電車が開業されました。ライトレールは飛山城近くを通り駅もあります。交通アクセスが大幅に改善された事もあり今回の飛山城の見学となりました。

 

飛山城空堀と櫓台

 

 この日は宇都宮駅に集合して飛山城を目指しました。集合後は乗る予定の電車まであまり時間がないので、すぐにライトレールの駅に向かいます。

 

 

鬼怒川越しの飛山城遠景

 

 宇都宮駅を出た路面電車はしばらくは道路併用軌道を走り、鬼怒川の少し手前から専用軌道を走りました。専用軌道でも最高時速40キロで少しゆっくりでの走行でした。鬼怒川を渡ったら飛山城跡駅に着きました。

 

 

飛山駅とライトレール

 

 駅前と知っても周辺は田畑で民家もまばらです。通常では降りる人もあまりいない駅ですが、この時は見学会の参加者30人近くが降りて、駅前は少し賑やかになりました。

 

飛山駅遠景

 

 飛山駅前で今回の見学会の予定や説明がありました。この日は飛山城見学後は壬生町に行く予定なので、急いで飛山城を目指します。

 

飛山駅前

 

 駅から北に向かって歩くと飛山城が近くに見えてきました。城の南西側から城内に入ります。

 飛山城は永仁年間(1293~98)芳賀高俊が築城したと言われています。南北朝時代の1341年に南朝方の春日顕国に攻められて落城しますが、程なく芳賀氏が奪還します。天正18年(1590)芳賀高継のときに秀吉の命により廃城になります。

 

飛山城南西

 

 鬼怒川東岸の河岸段丘に築城された城なので、城内まで少し登り坂です。道に沿って進むと最外郭の空堀に入りました。

 

飛山城最外郭空堀入口

 

 飛山城の最外郭の空堀(6号堀)とすぐ内側の空堀(5号堀)はどちらも他の堀に比べて幅、高さがあり、遮断性の高い空堀です。どちらの堀もほぼ直線状に掘られています。

 

飛山城最外郭空堀

 

 最外郭には5箇所の櫓台がありその部分が突出しています。櫓台部分は防御力が高いですが、空堀は延べ600Mに及ぶので、櫓台5箇所だけでは足りないように思えました。

 

飛山城北側櫓台

 

 飛山城の南西から入り,南側部分の堀底を歩きながら、城の東側を目指します。

 

飛山城東側入口

 

 東側入口から木橋を通るとすぐ前に角馬出があります。現地の説明板には枡形と書かれていますが、外側の三方向に空堀があり、縄張り図的にはどう見ても角馬出です。馬出の土塁や空堀は今でも残っていますが、土塁は高さがなく、堀も幅がそれほどありません。馬出としてどれだけ有効だったか少し疑問です。

 

飛山城馬出

 

曲輪Ⅳと空堀、土橋

 

 途中の曲輪では掘立柱跡が発見されたので、その曲輪には何棟かの建物が復元されています。

 

復元掘立柱建物

 

 城の北側にある主郭を目指します。主郭、二の郭は長年の浸食で曲輪が削られてしまい。今ではだいぶ小さくなりました。

 

主郭周辺

 

 主郭からは鬼怒川越しに宇都宮市街地が見えます。川越しの見えるこの光景は当時とあまり変わらなかったでしょう。

 

主郭から見える鬼怒川越しの風景

 

 主郭まで行ったら、もと来た道を戻り、飛山城体験館に寄ってから、飛山城を後にします。ライトレールの宇都宮に戻り、鉄道、タクシーを使って壬生に移動します。

 

飛山城最外郭空堀2

 

 壬生城は戦国時代に壬生氏によって築城され、壬生氏滅亡後も使用されてきました。江戸時代は数々の大名の入封転封を繰り返しながら、正徳2年(1712)鳥居忠英が壬生城に3万石で入封します。鳥居忠英は関ヶ原合戦の初戦の伏見城の戦いで、家康の命を受けて伏見城を守り、討ち死にした鳥居元忠の子孫です。

 

壬生城礎石

 

 鳥居元忠の功績により鳥居氏は一時期22万石の大名でしたが、暗君が続き、転封減封されました。一時は取潰し寸前になりますが、鳥居元忠の功績で鳥居家を取り潰すわけにはいかないとの事で何とか命脈を保ちます。壬生に入った時の鳥居忠英は名君で、ようやく鳥居氏は幕末まで壬生に落ち着く事になりました。

 

壬生城前

 

 壬生城内には鳥居元忠を祀る精忠神社があります。

 

精忠神社

 

 精忠神社には畳塚があります。伏見城落城の時に自害した鳥居元忠の血染めの畳を埋めた塚です。鳥居元忠の忠義を称えて幕末まで江戸時代に血染めの畳はありました。明治になって新政府から鳥居氏に畳は払い下げられて、それを埋めて塚にしました。

 

畳塚

 

 今回の見学会の最後は壬生町立歴史民俗資料館に入ります。大河ドラマに合わせて企画展「家康と元忠 -伏見に散った忠誠心-」を開催していました。企画展は展示が意外と充実していて無料でした。

 

壬生町立歴史民俗資料館

 

 歴史民俗資料館を出て、ここで見学会は終了です。既に日は暮れていましたがまだ少し明るかったです。壬生駅に向かった歩いているとすっかり暗くなりました。駅に着く頃には完全に夜でした。

 少し慌ただしかったですが、中世の飛山城、近世の壬生城の二つの城を見学出来た見学会でした。

 

 

 9月23日(土)は静岡県静岡市駿府城の見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。
 今年の4月の総会で駿府城発掘調査のセミナーがありました。今回の見学会は総会の続きでもある駿府城見学会です、案内講師は静岡市役所歴史文化課の松下高之氏と松井一明氏でした。さらにお二人の上司である文化課課長田中稔久氏も終始同行されました。お目付役としての参加でしょうか。松下高之氏は総会で駿府城のお話をされた方です。

 

駿府城天守台(天正期と慶長期)

 

静岡市役所歴史文化課の松井一明氏

 

静岡市役所歴史文化課の松下高之氏

 

 この日は静岡駅に集合して駿府城東御門、巽櫓を目指しました。ここで松下、松井両名と合流して見学会が始まりました。発掘調査の見学会でもあるので参加人数は最大で30人と制限されての見学会でした。天守台では通常見学するのとは少し違うコースでの見学会でした。

 

今回の見学会の概要を説明中

 

 今回の見学会のメインは発掘調査中の天守台ですが、その前に東御門と巽櫓に立ち寄りました。東御門と巽櫓は平成元年(1989)に木造で復元されました。寛永15年(1638)に建てられた時の姿を可能な限り復元した建築物です。

 

東御門

 

駿府城模型

 

 東御門、巽櫓内には発掘調査で発見された物や駿府城関連の様々な物が展示されています。その中には二の丸櫓にあった現存鯱鉾がありました。復元された鯱鉾に見えましたが、青銅製の本物の鯱鉾です。近年二の丸の堀底から発見されました。地震等の災害で櫓が破損して屋根にあった鯱鉾はそのまま水堀に落ちてしまい。長い間忘れられていました。鯱鉾は目立つ場所に残っていたら戦時中の金属供出で持っていかれた可能性もあるので貴重な遺構です。

 

青銅製の鯱鉾

 

 東御門、巽櫓を出て、天守台に向かいました。静岡市は当初は天守復元を視野に入れた発掘調査を行いました。慶長期の天守台だけではなく天正期の天守台も発見されました。駿府城の最初の天守は天正18年(1590)以降に中村一氏の時に造られたと考えられていました。新しく発見された天正期の天守台は小天守もあり、家忠日記の記述と一致する事から最近では天正13年以降に家康が天守を造ったと考えられています。

 

慶長期天守台と水堀跡

 

 天守台に着いたら二手に分かれてそれぞれ松井氏と松下氏に案内されての天守台見学です。

 慶長期の天守台南西部分の石垣は途中から形状が変わっています。打込ハギの石垣は南側部分の一部は切込みハギの石垣になっています。江戸時代中期の宝永年間(1704から1711年)に地震で損壊して、修復された部分は切込みハギの石垣になっています。

 

慶長期天守台南西部分

 

 天守台のすぐ北側は発掘調査で掘った土砂が積まれて、シートで覆われています。さながらこちらも天守台に見えます。

 

 

左手は発掘調査で出た土砂

 

 

慶長期天守台と水堀北東部分

 

 天守台石垣を発掘すると共に堀跡も掘られていきました。天守台の堀も復元されたかのようになりました。掘られた堀跡からは水が湧き出てきて、今では水堀になりました。天守台の堀に貯まった水は二の丸の水堀の流しているとの事でした。

 

慶長期天守台と水堀北東部分2

 

 天正期の天守台からは金箔瓦が発見されました。発見された金箔瓦は織田信長の安土城と同じへこんだ部分に金箔を貼る凹面金箔瓦でした。豊臣秀吉時代は居城の大阪城をはじめとする金箔瓦は出っ張った部分に金箔を貼る凸面金箔瓦です。

 秀吉の時代の城にも関わらず、信長時代の金箔瓦を採用した事は興味深いです。

 

天正期天守台(金箔瓦が一番発見された所)

 

 天正期の天守台は東西33M、南北37Mとかなりの大きさです、東側には小天守台もあり、大天守と渡櫓でつながっていたと考えられます。これらの建物には金箔瓦が使用されていました。

 

天守台東側

 

 一方、慶長期の天守台は東西63M、南北69Mの規模です。四隅に櫓があり、内部に天守が建てられていたと考えられます。ここまでの規模だと天守曲輪といった方が正しいかもしれません。江戸時代の記録では曲輪の表記はなく天守台と呼ばれていました。慶長期の天守は天正期の天守を拡大発展させたものではなく、天正期の天守台を埋めて一から造ったものです。天下人になった家康は最後の城となる駿府城でこれまでの生涯で最大級の城を造りました。

 

天守台西側

 

 二手に分かれて見学しましたが、最初の場所に戻り見学会は終了です。少し前までは普通に歩いた場所の地下に想像以上の天守台石垣が残っていました。静岡市の中心部にある駿府城でこれほどの新発見があった事に驚いた見学会でした。今回は天正期、慶長期の天守台を間近で見ることが出来ました。今の発掘調査の現場を静岡市は今後どう生かして行くか楽しみです。

 

駿府城天守台(県庁別館展望ロビーから)

 

駿府城東側(県庁別館展望ロビーから)