3月24日(土)は埼玉県嵐山町にある杉山城での見学会がありました。日本城郭史学会主催の見学会です。今回の見学会は史学会評議員の奥田好範さんが案内してくれました。
集合場所は東武東上線の武蔵嵐山駅でした。集合時間になって参加者はタクシーに分乗して杉山城に向かいます。この日の参加者は杉山城現地集合も含めて33名でした。武蔵嵐山駅から延べ7台のタクシーに分乗して杉山城に向かいました。
東郭からみた杉山城本郭、南郭方面
天気予報ではこの日は雨のち曇りであまりよくありませんでした。雨天決行の見学会なのでどうなるか心配していましたが、ほとんど雨は降ることなく無事に見学会が出来ました。この日は関東では雨が降った場所は多かったですが、杉山城周辺は大丈夫でした。
当日の見学会の様子
出郭
タクシーで杉山城の入口にある積善寺を目指します。積善寺の裏山が杉山城になります。積善寺の入口でタクシーを降りて一時集合してから杉山城に向かいます。
出郭2
杉山城の南東から城内に入ります。積善寺から少し登った場所は出郭で城内になります。ここには説明板やパンフレットが置いてあります。出郭は曲輪になっていて、西側には土塁や空堀がありますが、東側は削平が不十分です。出郭全域が城として機能したかは疑問です。
大手口に向かう
出郭のすぐ先に大手口があります。大手の虎口は土橋、空堀、土塁で守られていて、なかなかの重防御です。
大手口土橋と空堀
外郭
杉山城は遺構がよく残り、喰い違いや枡形の多様な虎口、随所に見せる横矢、横堀、竪堀の巧みさの縄張りから「戦国時代の城郭の最高傑作、山城の教科書」といわれてきました。永禄年間以降(1558から1570)に後北条氏によって築城されたと考えられていました。
外郭北側
杉山城では平成14年から19年に発掘調査が行われて、山内上杉家の特徴を持つかわらけが発見されました。一緒に出土された物は15世紀末から16世紀初頭にかけての遺構だと判断されました。後北条氏時代の遺構は発見されませんでした。
古河公方の足利高基の書状写に「椙山の陣」の記述があり、書状の内容から椙山の陣は永正9年(1512)から大永3年(1523)の出来事だと想定されました。発掘調査と文献史料が一致したことにより永正の終わりから大永にかけて(1520前後)に山内上杉家によって築城された城だという一応の結論がでました。
西側馬出
杉山城を見てみると巧みな縄張りに目を引きますが、土塁や空堀との距離はそれほどありません。鉄砲の使用を想定していない城に思えます。古河公方の政氏、高基親子間での永正の乱のときに一時的に使用された陣城ではないかとの事でした。
井戸郭土橋と虎口
杉山城井戸跡
南二の郭から土橋を通り井戸郭に入ります。井戸郭の名称ですが井戸跡はここにはなく、すぐ西側の数M低い曲輪にあります。井戸跡には破城の印として巨石がおかれていました。井戸郭のすぐ東側は本郭があります。空堀があり直接入れないので東側にまわってから本郭に入ります。
本郭東虎口から入る
杉山城の中心にある本郭(本丸)は東西南の三方向に虎口がありました。現在でも東虎口と西虎口から入れます。東虎口は発掘調査から幅1.8M、高さ43センチ石列が発見されました。虎口は内部の郭に向かって「ハ」の字の形で広がる作りでした。
本郭東虎口
本郭南虎口
本郭南側は「コ」の字型の土塁であり、西側の土塁の切れた箇所には虎口があります。虎口の正面には空堀があり先には井戸郭があります。ここは木橋でつないでいたと思われます。
本郭西虎口から北の郭に向かう
本郭には三箇所虎口があり、西側の虎口から北側を目指します。
北二の郭虎口と空堀
北側は北二の郭と三の郭の二つの曲輪があり、枡形虎口や土塁、空堀で守られています。南側に比べると少し雑な縄張りに見えます。
北三の郭
北の郭を見学した後は本郭経由で東の郭に向かいます。ここも二つの曲輪から成り土塁、空堀、土橋、枡形虎口があります。城北側、東側は以前より整備されて、遺構が分かりやすくなり、見学しやすくなっていました。
本郭方面から東郭に入る
東二の郭土橋
東三の郭の土塁
杉山城を見学したら杉山城の模型や史料を展示している嵐山町役場を目指します。役場に着いて史料や模型を見て、この日の見学会は終了です。現地集合の人とはここでお別れです。役場から嵐山駅まで少し距離があるので奥田さんに駅まで案内していただきました。
杉山城模型
嵐山駅に着いたらここで見学会は解散です。杉山城は土の城で雨が降ったり、地面が濡れていると斜面部分の移動は難儀したことでしょう。当日の天気はいつ雨が降ってもおかしくなかったですが、ほとんど雨は降らずに支障なく見学出来ました。見所の多い杉山城を効率よく見学出来た見学会でした。