川越style「水村家住宅」江戸時代中期に建てられた県内最古の商家 川越市喜多町 | 「小江戸川越STYLE」

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「小江戸川越STYLE」代表:石川真


江戸時代中期(享保年間)に建てられた県内最古の商家とされる水村家住宅の保存運動を、市民有志が進めている。
保存の方策を市に求める署名運動を市北部の自治会を中心に始めた。

「水村家現地見学会」

日にち 3月18日(水)、19日(木)、22日(日)、25日(水)

時間 10:00~12:00

問い合わせ:水村

049-222-0079

 

建物があるのは、一番街の札の辻からさらに真っすぐ北に進んだ左手にあります。

『水村家住宅は、1726年(享保11年)の川越大火後に再建されたと推定される川越市で確認される最古級の町屋であります。
関東に残る町屋の中でも江戸町屋の形式を残す建造物としては最古級とされ、さらに、全国30本の指の中でも東日本に残されている数少ない建造物(その多くは西日本に存在しています)との事です。
専門家からは、保存できれば重要文化財になる可能性が非常に高いと評価されている。

この高い評価に反し、川越市の方針は「諸般の事情により保存する予定は無く、2月の最終調査で最後とする」とし、現在は取り壊しと待つばかりとなっている。

市長のメッセージにも「観光の面でも、蔵造りの町並みや川越まつりなど魅力ある歴史的・文化的遺産が市内のあちこちに残っており、多くの観光客の皆様に本市を訪れていただいております」とあるように、今や川越は観光都市として日本全国に知られている。

その川越が、全国に誇れる歴史価値の高い建造物を、ここで保存しないという事は、後世に大きな損失を与えかねない。』


水村家住宅主屋は『埼玉県の民家』(1972(昭和 47)年)や『川越の蔵造り』(1983(昭和 58)年)
において、川越市内に現存する板葺近世町屋の古例と高く評価されている。
水村家は川越本陣の分家と伝わり、味噌や麹を商い、幕末に川越総名主をつとめた家柄です。
屋敷は重要伝統的建造物群保存地区の北側に接する喜多町に所在し、主屋は同地区内を南北に縦貫する南町・喜多町筋に東面して建ちます。

 

喜多町は川越の近世市街地における町人地の中核をなした上五カ町のひとつで、1893(明治 26)年の大火を免れています。水村家住宅主屋は屋根の棟高が低く勾配が緩いのが特徴で、本来は石置き板葺または杉皮葺(現在は杉皮葺上に鉄板葺)と推察され、近代に川越の中心市街地で一般化する重厚な瓦葺土蔵造の町屋建築とは異なる風情を伝えています。建築年代は江戸時代中期に遡ると推定されています。


主屋の基本構成は、街路に面して切妻造・平入・中 2 階を有する店部が建ち、店部後方へ棟を
直行させた奥行の長い平屋建を居住部として接続します。さらに西南に突出部が取り付きます。
なお、店部の間口は北側 1 間分を増築しているので、現状間口は 5 間半あります。水村家住宅主屋は、近年まで米穀業を営んでおり、店部の改装も中 2 階を含めて数次にわたって行われ、居住部分も改造が少なくありません。しかし今までの調査研究によって建築時の形式の大要は把握されており、基本的な構造形式は建築以来の状況を留めると考えられています。

 

流しや炊事場などは古い形式をよく伝えています。屋根下地の一部は現在も竹製野地を留める点も貴重です。
以上のように水村家住宅主屋は、近世川越の町屋建築を考えるうえで建築年代の古さ、形式の希少性において、学術的価値・文化遺産的価値が極めて高いものです。すなわち、瓦葺・大壁形式町屋が出現する以前の川越市街の板葺系上層町屋建築の実態を示す遺構として、極めて価値の高い建築です。


1)建物の概要
水村家住宅主屋は、埼玉県川越市喜多町 1 丁目に所在する。喜多町は、近世川越の町割りにおける商人地「上五ケ町(本町・江戸町・喜多町・高沢町・南町)」の一つであり、重要伝統的建造物群保存地区(以下重伝建地区という)の北端に近接する。喜多町は 1893(明治 26)年の大火を免れた地域である。水村家の屋敷は、重伝建地区を南北に縦貫する南町・喜多町筋を札ノ辻交差点から約 200m 北進した西側に位置し、街路に臨んで東面する。
 

水村家は川越本陣の分家と伝える旧家で味噌や麹を商い、幕末には川越総名主もつとめた家柄で、明治以降は米穀問屋を営んできた。喜多町は米穀問屋が多く存在した。水村家住宅主屋の屋根は棟高が低く勾配が緩いのが特徴である。これは現状の波型鉄屋根の下に本来の杉皮葺屋根留めているためで、近代に川越の中心市街地で一般化する重厚な瓦葺土蔵造り町屋建築とは異なる風情を伝える。水村家住宅主屋の建築年代は明確ではないが、喜多町は明治大火を免れた地域であり、外観の古式さと間取りや構造手法から見て、家伝の「元禄建立」を紹介して江戸中期と推定するもの(参考文献1)、周辺地域における 1726(享保 11)年火災記録を参照して享保 11 年火災直後の再建と推定するもの(参考文献2)がある。いずれの場合も、現在川越市街で確認される最古級の町屋と評価する点は共通する。
 

主屋の基本構成は、街道に面して間口 27.6 尺(1 間 6 尺として約 4.5 間)・奥行 21 尺(3.5 間)、
切妻造・平入・中 2 階を有する店部が建ち、その後方へ棟を直行させた奥行 36 尺(6 間)の平屋建を居住部として接続する。以上の店部と居住部からなる主体部の背面西南に間口 15 尺・奥行9尺(2.5 間・1.5 間)の突出部を設け浴室と便所とする。主屋背面東側には土蔵が隣接し、蔵前で主屋に連絡する。なお、店部の間口は北妻側 1 間分を増築しているので、現状間口は 5 間半ある。
 

店部は近年まで米穀問屋を営んでおりミセと呼び、店舗・精米・貯蔵空間からなる。27.6 尺×15
尺(4.5 間×2.5 間)が本来の空間であるが、現状は居室部の東 6 尺(1 間)分を取り込み、さらに北妻側を 6 尺増築している。北妻側増築部には大型の精米機械を設置し、店部北半は本来板間だったらしいが土間に改装して中古の米貯蔵用板壁(半割丸太の間柱の板壁)を設け、本来南端に存在した通土間を低い板床張の事務室に改造している。こうした改造は、水村家が米穀商いを本格化した明治以後に行われたと考えられる。店部の中 2 階は、北半が 15 畳大の居室で南半は物置である。ただし居室の天井と造作は後設で、本来は南半と同じ屋根裏部屋的な部屋と考えられる。中2 階は麹作りの時などに使用人寝室に利用したと伝えるので、本来はそうした空間であったろう。
 

なお、店部の南妻面は改造が認められるが、本来の店部間口規模は明治 16 年の家屋調書の記載間取りをもとに、南側に 1 間延びて 5 間半(33 尺)であったと指摘されている(参考文献2)。
居室部は奥行 36 尺(6 間)を前後(東西方向)に3区分して 8 畳大室 2 列 6 室に区分する。北列の奥室と中室は奥座敷と控間で長押と棹縁天井を備え、部屋境に欄間を設け、奥座敷に床の間を備える。南列中室はナカノマとよぶ居間で棹縁天井を備える。南列奥室は南側の張り出し部も含めてオカッテと呼ぶ台所で、土間の一部に板間を張り出したものらしいが、現状は土間内に4畳半の室3を区画する。なお、南列・北列の前室は店部に半分取り込まれており改造が大きいが、柱に古材を留めるため、(柱の張板等を外して調査すれば)正確な復原考察は十分可能と思われる。
 

主屋は屋根材に現在も杉皮葺を留める点が注目されるが、居室部の屋根裏を見ると竹製野地上に杉皮葺した様子がよくわかり、現状はこの上に波型鉄板を張っている。この様子は軒先からも確認することができる。また、店部と背面突出部も杉皮葺を留めている(波型鉄板張り)が、こちらは下地が小舞の小間返し(隙間をあけて小舞板を打つ)である点が異なる。
 

以上、水村家住宅主屋は、経年による改造が目立つが、柱・梁の主要構造材は当初の状況をよくとどめ、南側土間の規模に今後の検討課題は残るが、おおむね当初形式の把握は可能である。建築年代については、架構や柱の風合いなどから見て江戸中期まで遡る可能性は高い。座敷周りの状況が上層商家の古式を伝える点、屋根形式がかつて川越の町屋に多く見られた板葺・杉皮葺系を伝える点はとくに重要である。
2)歴史的価値


①ビルディングタイプの観点からみた価値

川越の町屋は、1893(明治 26)年の大火後に南町・本町などに普及した重厚な瓦葺・土蔵造の町屋がよく知られており、この地区を中心に重伝建地区が形成されている。重伝建地区内に残る1893(明治 26)年大火前の近世町屋建築は重要文化財大沢家住宅(1792(寛政 4)年)があるが、大沢家は瓦葺・大壁形式の町屋である。すなわち大沢家住宅は川越における防火性能を有した町屋の初期事例として重要であるが、文献等で伝えられている近世川越の板葺・杉皮葺系の町屋ではない。
 

そのため、近世川越の町屋建築の歴史を正しく後世に伝えるうえで、防火に配慮した町屋出現
以前の形式を留める水村家住宅主屋の存在は重要である。しかも水村家住宅主屋は建築年代が江戸中期に遡る可能性が高く、今後その根本的な修理や調査が行われれば、川越における「板葺または杉皮葺の町屋」→「瓦葺の大壁造町屋」→「瓦葺の土蔵造町屋」、という変化進展を遺構により明確に伝えることが可能となる。しかも水村家住宅主屋は関東地方における年代の古い上層階層の町屋の類型として貴重なビルディングタイプと位置付けられる。
 

②技術史観点からみた価値
また、寿命が短く古い屋根材が残ることの少ない杉皮葺について、波型鉄板で養生されていた
おかげで少なくとも数十年前の屋根材を伝えること、しかもその下地は竹製野地と小舞野地の 2
種類を伝えることは、伝統屋根構法という技術史的視点からも貴重である。
 

以上のように水村家住宅主屋は、関東地方における板葺・杉皮葺系町屋の古例というビルディングタイプ的視点から見ても、杉皮葺屋根が 2 種の下地とともに残存するという技術史的観点から見ても、きわめて貴重な存在である。今後本格的な修理とそれに伴う詳細な調査が行われ、建築の実態が一層明確になるとともに、貴重な文化遺産として存続することを強く望む。
 

参考文献1 関口欣也、『埼玉県の民家』、1972(昭和 47)年、埼玉県教育員会
参考文献 2 荒牧澄多・内田雄造・浅井賢治・羽生修二・遠藤一善、「明治初期における川越およびその近在の町並み・集落に関する研究(その 2)川越・喜多町の近世町屋と「家屋取調書」について」、日本建築学会関東支部研究報告集、1985(昭和 60)年

「水村家現地見学会」

日にち 3月18日(水)、19日(木)、22日(日)、25日(水)

時間 10:00~12:00

問い合わせ:水村

049-222-0079