海のない埼玉県で、川越は水の都と言っていいくらい水に恵まれた土地。
新河岸川、入間川、不老川、小畦川、九十川などなど、それぞれの地域で馴染みの川があるはず。
川越の地形は、新河岸川が内側、入間川が外側、と共に円を描くように流れ、二重丸のように市内を流れている形になっているのが特徴。
かつて多くの物や人が往来していた川越街道から東武東上線新河岸駅を東へ、新河岸川の下新河岸の旭橋に差し掛かる。
20年前の台風による氾濫で架け直され、近代的な橋に生まれ変わっています。
「九十九曲がり 仇では越せぬ
通い船路の三十里
主がさお指しや 私はともで
かじを取り取り 魯はともで」
船頭が歌う調子のいい舟唄が川面に響く。
魯で力強く舟を押し出し、新河岸川川上に向かって進むひらた舟。
かつて川越で繁栄を極めたこの川の舟運(しゅううん)で歌われていた舟唄が、今の時代に、同じ節で蘇っている。
「新河岸舟唄(しんがしふなうた)」。
それは、舟に乗せた人々を楽しませるためでもあり、長い行程を歌うことで気を紛らわせるためでもあり、舟の旅には欠かせない唄だった。
ここは、川越の歴史が流れていると言ってもいい川、「新河岸川」。
今穏やかに流れる川の底には、かつての、今の、川越人たちの想いがずしりと溶け込まれていると言っていい。
川越の中でもっとも親しまれている川で、なおかつ川越の発展に一番寄与した川が新河岸川。
この川があったればこそ、川越商人たちの繁栄があり今の一番街の街並みがある。
そして今、年間700万人を超える観光客が訪れるようになっている川越。
賑わいは良いとして、忸怩たる思いに駆られるのも事実。
一番街にやって来るなら、切っても切れない川越の歴史に触れてもらいたい。
川越は中心市街地から離れたところにも様々な魅力があり、川越でしか体験できないものもある。
その一つが、「新河岸川の舟運」。
一番街が注目される川越で、その繁栄の歴史の流れを遡ると辿り着くのが、新河岸川。
一番街の蔵造りの建物の多くは明治時代に建てられたものですが、川越の舟運の歴史はさらに古く、江戸の初めの頃に始まった。
新河岸川を知る事が、川越をさらに知ることになる。
川越の発展の源流と言える、新河岸川で行われている川越ならではの行事があります。
江戸時代に始まり、当時の川越ー江戸の新河岸川の舟運を体感してもらおうと、「小江戸川越春まつり」の併催事業として毎年4月29日に旭橋の新河岸川船着場で開催されているのが、「ひらた舟乗舟体験」。
小江戸川越春まつりは、3月下旬から5月のGWまで続く川越の春の恒例イベントで、3月のオープニングイベントから毎週のように川越市内で行事が行われます。
その一つ、4月29日に行われているのが、ひらた舟乗舟体験。予約不要で乗ることができます。
「ひらた舟乗舟体験」
毎年4月29日(祝)10:00~14:00頃
旭橋下流(新河岸川船着場)予約不要、当日会場へ※雨天中止
新河岸自治会と新河岸商栄会が中心となって舟を復活させ、「舟の浮かぶ街 川越」を定着させようと、かつての乗舟の体験を毎年続けています。
「こういう体験を通して、新河岸川に親しんでもらい、地元の人には新河岸に誇りを持ってもらいたい」。
ひらた舟に乗り、新河岸川を舟で渡る、川越の歴史を知れば知るほど、こんなに川越らしい体験はない。
川越で乗舟体験なら、毎年春に氷川神社裏の新河岸川で行われる舟遊びも広く知られて好評を博していますが、、実際の河岸があった場所から乗る舟の体験は、川越的に貴重なもの。
川の恵みと同じくらい川の被害を被ってきた川越。
旭橋から見下ろすと、下を流れる新河岸川。
川越市民にとって、誰しもなにかしらの思い出が浮かぶ川かもしれない。
いつ見ても変わらずゆったりと流れる川ですが、ここがかつて川越のみならず、広範囲地域に及ぶ物流の重要拠点と聞いたら、大きな舟が何艘も行き来していたと聞いたら、想像できるでしょうか。。。?
そういう時代がありました。
車も電車もない時代、物を速く大量に運ぶのに効率が良かったのが、川を使った舟運。
新河岸川には、荷物を積み下ろしする船着場である「河岸(かし)」が現在の川越だけでも何ヶ所もあって、舟を浮かべ人や荷物を乗せては江戸と川越を行き来していた。
今でいう物流センター、ターミナル駅、空港、人と荷物の集積地として機能していた新河岸川の河岸。活気に満ちた声が想像できるよう。
当時はまさに新河岸が川越の経済の重要地点。
特に上、下新河岸の様子は、それはそれは賑わっていたという。
また、新河岸川の歴史散策としては、川越市シルバー人材センターによる「小江戸川越 新河岸川舟運(しゅううん)めぐり」も行われており、ひらた舟乗舟体験と合わせ、新河岸川の歴史・体験として定着している。
(川越style「小江戸川越 新河岸川舟運(しゅううん)めぐり」川越市シルバー人材センター)
新河岸川の舟運の歴史を伝え、体験できる「ひらた舟乗舟体験」。
旭橋には多くの人が列をなして乗舟体験を集まっています。
乗舟を待つ土手の上には飲食や雑貨・ワークショップなどの出店、お囃子や太鼓の演奏もあり、乗舟に留まらない地域のお祭りになっている催しでもあります。
毎年500人くらいの参加者、目安として昼くらいだと待ち時間は1時間ほど。
ひらた舟乗舟体験は、単に舟に乗るというアトラクションではない、楽しい中にも川越のルーツを感じられることが意義深い。
乗舟は2艘の舟を使い、10人くらいの乗舟で運行しています。
船着場からそっと舟に乗り込み、いよいよひたら舟が出発。
新河岸川の砂中学校のある上流方向へ進んで行きます。
「着いた着いたよ 新河岸橋に
主も出て取れ おもてもや
千住出てから牧の谷までは
竿も魯かじもままならぬ」
川越と江戸は、手こぎの舟で15時間半の旅路。
ひらた舟に揺られながら、いざなわれる川越の歴史。
今の川越の発展は、新河岸川の舟運を抜きには語れない。
特に、川越の人、川越に興味持つ人には、新河岸川の舟運の歴史は特に注意して欲しいもの。(NHKの「ブラタモリ」で旭橋の河岸場跡を紹介していたことはさすが。タモリさんがひらた舟に乗舟していた)
「それまでは、物を運ぶのは引き車か馬しかなかった。
川が一番効率良かったんです。それで舟が一気に広まった」
新河岸川舟運が発達する契機となったのが、喜多院大火という災害が背景にあったこと、その復興という側面で資材運搬に新河岸川が使われたこと。川越と徳川家の関係があったからこそ、大火の再建にいち早く将軍家が江戸ー川越を結ぶ新河岸川を活用することになったことは見逃せない。
さらに遡れば、川越と徳川家の関係は、喜多院の天海僧正と徳川家康の密接な関係が代々(主に家光の代まで)受け継がれた歴史に起因する。
1638年の川越大火により喜多院・東照宮が類焼、その復興のために徳川家光が指揮して江戸から資材を運ばせ再建に乗り出す。現在、喜多院に「家光誕生の間」があるのはこの時運んだものです。
その後、川越城主の松平伊豆守信綱が新河岸川舟運を本格的に整備。
ここから、江戸ー川越が直に結ばれ、流通の大動脈となって川越の栄華が花開いていきました。
旭橋を中心に河岸を設置され、河岸の周囲には船問屋商家が軒を連ねていきます。
江戸行きの舟には、醤油、綿実、材木、炭など、川越行きの舟には、油、反物、塩、砂糖、干鰯などを載せていた。川が商品経済における物流のターミナル、大動脈として利用されていきました。
改めて、新河岸川舟運の今日に至る流れを振り返ってみましょう。
新河岸川舟運の歴史~川越五河岸と仙波河岸~
・1638年(寛永15年)川越大火により喜多院・東照宮類焼、再建資材を江戸より運送
・1644年(正保元年)松平伊豆守信綱、新河岸川舟運を開始
・1651年(慶安4年)上・下新河岸が開設される
・1671年(寛文11年)比企郡玉川領より年貢米を新河岸川を利用して江戸へ運送 蔵物
・1683年(天和3年)松平伊豆守信輝、振袖火事で焼けた江戸屋敷再建資材輸送の為、扇河岸を開設
・1766年(明和3年)この頃より五河岸問屋は、船積問屋の業務に加えて農村・商人相手の仲買人の機能を持つ
・1774年(安永3年)番舟出入り訴訟勃発
1850年(嘉永4年)繋船騒動勃発 江戸では米騒動が起こり、川越では諸物価が高騰した
・1859年(安政6年)船数:上新河岸22隻・下新河岸22隻・扇河岸23隻・寺尾河岸12隻・牛子河岸4隻 計82隻 他に上下河岸共有早船2隻 川越藩御用船4隻 この頃早船の利用者増える
・1865年(慶応元年)天狗党83名の江戸への護送の為、新河岸川舟運が利用される
・1867年(明治元年)地元大仙波の原伝三により仙波河岸完成
・1877年(明治10年)仙波河岸の舟運利用に許可が下りる
・1895年(明治28年)川越鉄道 川越ー国分寺間開通
・1906年(明治39年)川越電気鉄道 川越久保町ー大宮間開通
・1914年(大正3年)東上鉄道 池袋ー川越間開通
・1931年(昭和6年)県より「通船停止」命令出される
・1934年(昭和9年)旧赤間川は、田谷堰から北上して伊佐沼に流入していたが、流路変更で直接赤間川から新河岸川に流れ込むようになる。
ざっくりと言うと、
喜多院天海僧正と徳川家康・徳川家との関係
喜多院大火で再建資材を新河岸川を使って江戸から運んだ
その後川越城主松平伊豆守信綱が新河岸川舟運を整備江戸ー川越の流通が発展という経緯。
今見ている川より昔の新河岸川は、ずっと幅も深さもあった。
九十九曲がりと言われるほど蛇行する川で、当時はもっと蛇行する川だった。
そこに、帆柱が10メートルを超える高瀬舟が川に浮かび運航していた。米100俵が乗るくらい大きな舟。
舟が行き交い、船着き場の活気が新河岸にありました。
新河岸川に五つあった河岸のうち、上、下新河岸が大きく、巨大ターミナル船着場の様相を呈していた。
大きな荷物はそこでほとんど降ろし、残りは小さな舟に積み直して川幅の狭くなる上流の河岸へと運んでいました。
その様子は、大きな荷物はトラックで運び、入り組んだ細道に運ぶ小さな荷物はバイクや自転車で運ぶ、今でも見られる運送スタイルと通じるものがあります。
河岸で降ろされた荷物は、川越のみならず今の入間市、狭山市、飯能市などに運ばれ、逆に江戸行きは川越の河岸に集められて舟で運ばれていた。
群馬の桐生市や富岡市にも荷物は届けられ、川越と桐生は今でも織物文化を通した交流があります。
そして、川越の人にとっては意外かもしれませんが、世界遺産に登録された「富岡製紙場」の毛織物は、江戸に運ぶために川越の新河岸川の河岸まで来て、そこから舟で江戸まで運んでいた。
荷物だけでなく、時には人を乗せて江戸から川越へ、川越から江戸へ、観光バスの代わりに舟が使われていました。
その舟上で歌われていた新河岸舟唄は、さながらバスガイドがお客さんを歌で楽しませるのと変わりません。
川に乗りながら通り過ぎる地域の紹介したり、場所によって舟唄の節を変えて楽しませていた。
「物や人を運ぶのに、川しかなかった時代だったから、それはそれは河岸は人で賑わっていたんだよ」
ひらた舟乗舟体験を運営する新河岸自治会、新河岸商栄会は、口々に新河岸川の思い出を語ります。
「小さい頃には仙波河岸に舟が残っていて、よく遊んでいたなあ」
「新河岸川は学校から帰って来たら真っ先に向かった場所。泳いで飛び込んで魚を取っていた」
遊び場所といえば新河岸川か、すぐ近くの日枝神社しかなかった。
「新河岸川では鮒に鯉に鯏(うぐい)がよく獲れていたんだよ。それからウナギね」
川越=ウナギのルーツがここにあります。
歴史がある地域だからこそ、地域に誇りを持っている人が多く、川に寄せる思い入れもあって、こうしてひらた舟を復活させることに至る。
新河岸川のひらた舟復活は、平成7年に舟を2艘を作ったところから始まりました。
新河岸川の思い出を持つ地元の人は多く、
「思い出があるなら話してるだけじゃなく、舟を復活させればいいんじゃないか」
という事になり、ひらた舟を復活させるプロジェクトが始動。
完成させたひらた舟は、当初は敬老の日などに地域のお年寄りを乗せて楽しんでもらっていた。
今は市民に広く訴え、
「お年寄りには懐かしさ、子供には思い出作りを」を合言葉に、楽しんで体験してもらう催しへと発展し、毎年4月29日続けています。
今でも旭橋の周辺を歩くと古い建物が残り、歴史のある地域だということはすぐに分かります。
日枝神社。
そして昔の船問屋の建物が目に入ります。
冷蔵庫のなかった時代、蔵は、中の湿気を一定保てるので食料などの保存に適していました。
河岸周辺に船問屋が軒を連ねていた頃は、まさに一番街に劣らないほど蔵造りの建物が並んでいたそう。
知られざるもう一つの一番街がここにありました。
舟から岸に上がった船頭役の商栄会の人が話します。
「ひたら乗舟体験は、始めのきっかけとしては『舟に乗るの楽しそう』でいいんです。
そこから、どうしてここ船着場があるんだろう、なんでここから舟が出てるんだろうと、少しでも新河岸川に興味もってくれれば嬉しい」
新河岸川をゆったりと進んだひらた舟は、また旭橋の船着場に戻ってきました。
今の川越の主要道路は国道16号や254号があり、鉄道なら東武東上線、西武新宿線、JR川越線があり、新河岸川しかなかったかつての物流と比べたら、今の物流網は複雑に絡み合っている。隔世の感があります。
しかし。
なぜ喜多院に家光誕生の間があるのか?
なぜ川越には蔵の町並みがあるのか?
なぜ新河岸川に河岸が残されているのか?
なぜ舟唄を歌っているのか?
新河岸川の流れを遡るように川越の歴史を遡ると、行き着くのが新河岸川の舟運。
「川越」。
川越は川の文字を使った街で、川には川越人の魂が流れている。
川越を楽しむのは、川を楽しんでこそ、川越の神髄がここにあります。
「九十九曲がり 仇では越せぬ
通い船路の三十里
主がさお指しや 私はともで
かじを取り取り 魯はともで
着いた着いたよ 新河岸橋に
主も出て取れ おもてもや
千住出てから牧の谷までは
竿も魯かじもままならぬ
舟が来る来る 万来る中で
私の待つ船 まだ来ない」
「ひらた舟乗舟体験」
毎年4月29日(祝)10:00~14:00頃
旭橋下流(新河岸川船着場)予約不要※雨天中止