川越style「山王塚古墳」発掘調査見学会2017年9月30日第四次発掘調査の成果発表 | 「小江戸川越STYLE」

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「小江戸川越STYLE」代表:石川真

川越の大東地区は、市南西部に広がる地区で、昔から川越の農を代表する地域であり続けました。
現代の大東地区の生活的ランドマークはやはり地区を横切る西武新宿線と南大塚駅。

(西武新宿線南大塚駅前)
南大塚駅や平行する国道16号が奇しくも地区の境界線のようになっていて、西武線・16号線から南は「畑」が広がる地域でさつま芋畑が広がります。川越のさつま芋畑と言えばここ。そして境界線の北側へ行けば田んぼがあちこちに広がる風景になり、南北で農の風景ががらりと変わるのが特徴的で面白い地区。

(大東地区のさつま芋畑)
今でこそ、大東地区は田畑広がる地区と形容される地域ですが、では、さらに時代を遡るとどうなるでしょう。いや、大田村と日東村があった頃なんていう100年、200年の話しではありません。(ちなみに大田村と日東村が合併して大東地区ができました。両村の一文字をとっています。「大田街道」はその名のまま今でも残っています)
さらにもっと昔、江戸時代・・・室町時代・・・鎌倉時代・・・平安時代・・・よりも前。
今からざっと1300年以上前の今で言う大東地区はどんな風景と人々の暮らしがあったのでしょう。
大東地区を象徴する市指定史跡であり、全国的にも珍しい史跡が「山王塚古墳(さんのうづか)」です。西武新宿線南大塚駅から徒歩20分ほど。ニトリ川越店西側にあります。(川越市大塚一)
大東地区の生活的ランドマークは南大塚駅であっても、地区を象徴するランドマークとしてはやはり、山王塚古墳でしょう。
山王塚古墳から、すぐ近くに「大塚」という地名が生まれ(確証されていませんがそれ以外考えられない)、大塚の南にあるので「南大塚」という地名が付けられ、と山王塚古墳から地域に派生したものは数多く、意識するしない関係なく生活に密着してきた史跡です。


2017年9月30日(土)に開催されたのが「山王塚古墳発掘調査見学会」。

 

 

 

 


市教育委員会 教育総務部 文化財保護課
午前10時・午後2時。それぞれ1時間程度
場所:市指定史跡・山王塚古墳(大塚1丁目21ほか)
内容:全国最大の上円下方墳である山王塚古墳の発掘現場を見学します。
市教育委員会が継続的に行っている第四次発掘調査の成果を発表する見学会。
今年の「山王塚古墳発掘調査見学会」にも各地から大勢の参加者が集まりました。

見学会は本格調査がスタートして以来、毎年行われています。
川越の人だけでなく、歴史ファン、特に各地の古墳巡りが好きな人も多くいて見学会に集まっているようでした。
参加者は二日間で700人。
午後の部、見学会の時間になると、市の担当者からまずは山王塚古墳の概略と見学会の段取りが説明されました。熱心に聞き入る参加者の姿。

現在の山王塚古墳は木々に覆われて、古墳である形をそのまま見ることはできない。
そのため、地元の人でもここが古墳であることを知らない人もいて、木が鬱蒼として小山?と見ている人もいあるはず。しかしここが全国的にも珍しい古墳で、歴史的背景のある古墳である事実があります。

川越の歴史を遡って振り返る上では、今の川越を語る上では外せない史跡なのです。俯瞰してこのくらいの年代から川越を見るのも面白いものです。

 


山王塚古墳は、全国でも珍しい上円下方墳として、昭和33年に市指定史跡になりました。
その規模は方形部の一部は約63mで、その高さは約1mである。円形部の径は約47mを有し、全高4.5mで方形部の外側には一部ではあるが幅約5mの周溝が現存しており、おそらく全体に巡っていたと考えられます。

これまでこの古墳の周辺では何回かの発掘調査が行われていますが、山王塚古墳の年代・被葬者等その実体は未だに明らかではありません。
こうした謎に迫る第一歩として川越市教育委員会では、平成24年度に墳形確認のための発掘調査を実施しました。
その後、詳細測量調査や埋葬施設の地下レーダー等を行い、本年度は主体部の遺存状態を確認するための発掘調査を行っています。
今回の発掘調査見学会では、細心の発掘調査の成果をご覧いただくとともに、山王塚古墳の造られた時代背景・近隣の古墳群・他地域の上円下方古墳などについて説明されました。

実際の古墳の様子と発掘調査の成果を現場を見てもらうために、担当者が先導して外周から墳頂部周年などの現地を歩いていきます。参加者が多いため、3班に分かれて見学。


 

 

 


山王塚古墳の造られた時代。
「古墳」自体は、3世紀半ばから7世紀にかけて造られた高塚式のお墓です。
考古学では3世紀半ばから4世紀に造られたものを前期古墳、5世紀に造られたものを中期古墳、6世紀のものを後期古墳、7世紀を終末期古墳、と呼び、時期区分しています。
これによれば、7世紀後半に造られたと考えられる山王塚古墳は「終末期古墳」として位置づけられます。
山王塚古墳が造られた7~8世紀と言えば、大化改新(645年)、壬申の乱(672年)を経て、日本が律令国家の建設に向け大きく揺れ動いた時代です。
(7世紀後半の川越と言えば、まだ川越氷川神社が欽明天皇2年(541))に創建されされて100年ほど経った頃。

逆に言えば川越氷川神社が古墳時代創建というのも凄いことです。)
この川越の地域でも、中央の地方経営政策の一環として武蔵国(川越含む)への渡来人の移住がはじまり、霊亀2年(716)には高麗郡が建郡されます。
(ちなみに昨年2016年には、「高麗郡建郡1300年」を記念した事業が日高市を中心に数多く開催されました)
また、7世紀後半には山王塚古墳の西方を南北に貫いて古代の官道である「東山道(とうさんどう)武蔵路」が建設されます。

この道がその後の川越の鍵となっていく。。。この道路の名前が時代が下った後でまた出てきますので、頭の片隅に置いてくだささい。

山王塚古墳の被葬者は、在地の豪族であると思いますが、この東山道武蔵路の開削に関わっていた可能性があることが指摘されています。

「東山道武蔵路」は、武蔵国府から群馬県太田市付近を結んだ古代官道で、この道を通って中央の都からの命令が届けられた。

上円下方墳とは何か。
日本が律令国家に向かい揺れ動いた7世紀から8世紀、墓制の上でも大きな変化が起こりました。それまでのように墳丘の大きさを誇る古墳が造られなくなり、小さな埋葬施設・小さな墳丘の古墳が造られるようになります。いわゆる「薄葬思想」に基づいた古墳の登場です。上円下方墳も本来こうした薄葬思想の下に築造されたものです。
近畿地方では石のカラト古墳(奈良県奈良市~京都府木津町・14m・7世紀末~8世紀初頭)、
東海地方では清水柳北1号墳(静岡県沼津市・13m・8世紀初頭)、
東北地方では野地久保古墳(福島県白河市・16m・8世紀初頭)などの上円下方墳が造られました。
これらはいずれも横口式石槨や火葬骨を埋葬する石櫃などの小型の埋葬施設を持ちます。
これに対して武蔵国では7世紀後半、府中熊野神社古墳(東京都府中市・32m・7世紀後半)・天文台構内古墳(東京都三鷹市・30m・7世紀後半)・山王塚古墳などの大型の上円下方墳が造られました。
これらの上円下方墳の被葬者は東山道武蔵路の開削に関わっていた可能性が考えられます。

7世紀末というのは、古墳の出現以来権力のシンボルとして造られ続けてきた前方後円墳はこの時代すでに築造されなくなり、各地に初期寺院が造られるようになります。

初期寺院としてこの近辺では、7世紀後半に創建された勝呂廃寺(坂戸市)や8世紀初頭の女陰影廃寺(日高市)などが有名です。
このように、旧来の体制が崩れ、新たな制度・価値観が創出される激動の時代に今の川越のこの地に、「山王塚古墳」は造られたのです。

(外周の縁辺部。土が盛られて結構な高さがあります。この部分は1300年以上前の当時と変わらず。当時はここから地平線まで見張らせたのかもしれません。)

 

(古墳をぐるりと巡る堀は、なんと今から700年前と同じ状態で残っているという)


実は、山王塚古墳はここに一基あるだけではありません。

近辺に数多く造られた古墳群の中の一基なのです。

古墳群の中で最後に造られたもので、最大のもの。当時の絶対的な権力者の古墳だろうし、古墳群の象徴的な存在です。

山王塚古墳含めた古墳群を南大塚古墳群といいます。
「南大塚古墳群」について。
この地域には山王塚古墳だけでなく、古墳が点在していたことが分かっていて、総称して南大塚古墳群と呼ばれてます。

(「ナンツカ」は古墳の街・・・ナンツカの見え方も変わっていきます)

その前に、川越市内には4つの古墳群が知られていますが、
・下小坂古墳群(小畔川左岸台地)
・的場古墳群(入間川左岸台地)
・仙波古墳群(仙波台地北東縁)などの古墳群があります。
これらはいずれも河川に臨む台地の縁辺に位置しています。川の近くにあったというのが川越の古墳に共通するポイント。
特に入間川両岸には古墳が点在していて、入間川左岸には的場古墳群、山王塚古墳の属する南大塚古墳群は入間川右岸にあり、台地縁辺に沿って約3㎞にわたり古墳が点在しています。

(南大塚古墳群の各支群)

ちょうど、南北の関越自動車と東西の入間川街道が交わるところに集中しています。国道16号はこの場所を避けて造られたわけですね。
入間川街道沿いに古墳が分布しているのがよく分かり、まさに古墳ストリートと言っていいかもしれない。
入間川街道は国道16号線に平行する道路で、16号が開通する前は生活のメインストリートです。


(入間川街道沿い かし野台にある氷川神社)
これらの南大塚古墳群は広い地域のため大きく4つの支群に分けられます。
地名をとって西方から、「大袋新田支群」、「豊田本支群」、「大塚支群」、「豊田町支群」と呼んでいます。
南大塚古墳群は現在27基(!)の古墳が確認されていますが、近代の開発により消滅した古墳もあり、現存するのは本来の数より少なくなっています。一体いくつの古墳がここにあったのか。。。
これまでの調査から南大塚古墳群は、小規模な前方後円墳(南大塚4号墳)と多くの小円墳からなる群集墳であり、主に5世紀前葉から7世紀にかけて造られたことが分かっています。

(関越自動車沿い、台地の下から南大塚古墳群を見上げる)

この高低差が古墳の鍵。急激な坂がある高低差はこの近辺の特徴で、ロヂャース川越店から北に行く時の下り坂、武蔵野病院から北に行く時の下り坂もここと地形が繋がっています。


大塚支群に属する上円下方墳の山王塚古墳は「最終段階」の古墳と考えられ、これ以降、古墳は造られなくなります。
隆盛を誇った古墳造営時代に一帯に造られ続けた古墳群。

そして時代が変わり、もう王を祀る古墳の時代ではなくなった。

古墳時代の幕が閉じようとする大団円に、最後の最後に造られた巨大な山王塚古墳。。。時代に抗うように、かつての隆盛を取り戻そうとする大号令のもとの一大土木事業だったのでしょうか。現代にも見られるような出来事にも見えます。




これまでの発掘調査の成果。
市による山王塚古墳の本格的な発掘調査が始まったのが、今から5年前のことでした。
山王塚古墳の現代における解明作業は、ここがスタートと言っていい。
史跡内容確認のための山王塚古墳の発掘調査は平成24年度に開始しました(第1次調査)。この時の発掘調査では、上円下方墳という墳形が確実であることが確認されました。

続く平成25年度には墳形の詳細測量調査を行い、幅広い周溝や下方部外縁を巡る土手など、築造当時の状況を示す微妙な起伏が現在も遺されていることが明らかとなりました。

この年に行われた現地説明会の様子を振り返った模様が以下です。

川越style

 

川越style 
(地中に見える白い線が古墳造営当時の地面。その上が落ち葉などの堆積で積もった部分です。1300年以上経ってもこれしか堆積していない歴史の驚き)

この当時は、本格的発掘調査が始まった間のない頃ですから、発掘するだけお宝が出土してくるような状況で、1300年以上ぶりに土の下からこんなものが出てきた!という熱気は今よりはるかにありました。
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南大塚古墳群の8号古墳から出土した太刀場所は関越自動車道のすぐ脇から。

 

川越style 
太刀に使われた鞘口。見ると状態がいい事にため息が漏れます。土中で空気に触れていなかったため、酸化せず錆びていない。。。

さらにさらに感動が続きます。

この山王塚古墳の横に山王塚西古墳という大きな円墳がありましたが(現在倉庫)、西古墳の土の下から出てきたものが・・・
なんと装身具の数々。
「丸玉、ガラス玉、切子玉、勾玉」。

今で言う、首飾りやイヤリング、ブレスレットなど。

状態の良さにも圧倒されましたが、デザイン的にも洗練されていて、今でもお店で売っていそうなくらいのものでした。
川越style

 

川越style


川越style 
今見ても素敵に見えます。という、素敵だと思う感性は当時からあったはずで、1300年以上経っても関係ないことに普遍性を感じます。

市の発掘調査は続いていき、次の年には古墳の本丸である、上円部の謎へ切り込んでいった。

平成26年度には上円部の地中レーダー探査を行い、「ハ」の字形に開く前庭部をもつ10mを越える規模の複室構造の横穴式石室が存在することが判明しました。

平成27年度の発掘調査(第2次調査)では、山王塚古墳の墳丘を巡る周溝部の調査とともに墳丘を東西方向に立て割り、ローム土で版築された横穴式石室の控え積みを確認することができました。

平成28年度の発掘調査(第3次調査)では、周溝の補足調査を行い周溝外縁での一辺が80mを超えること、また横穴式石室の前庭部から出土した須恵器から、7世紀後半に築造されたことが分かりました。

そして今年、平成29年度の山王塚古墳の発掘調査の成果。
今回の発掘調査では昨年度調査地点のさらに墳頂寄りにトレンチを設け、埋葬施設である横穴式石室を上面から面的に掘り下げています。
レーダー探査から想定された石室の位置、規模、構造また石材などを確認することが今回の調査の目的です。

 

 

 

 


トレンチ内を部分的に深掘りしたサブトレンチでは、石室の大半が後世の掘り込みによって壊されていました。どうも大規模な盗掘が行われていたようです。
埋土内から出土した中国の宋銭や青磁などの年代から、13世紀以降に掘り返されたことは間違いありません。

 

 

(古墳造営時のお金ではなく、造営から400年以上経って、盗掘された時代の宋銭が出土したということです)
また、石室を構成する石材の大部分も見当たらないことから、この時に持ち去られ何らかの別の用途に転用されたものと考えられます。
盗掘をまぬがれた大形の緑泥片岩製の板材や盗掘坑から出土したチャートや砂岩などの河原石、緑泥片岩の破片、角閃石安山岩の破片や加工石材などは、山王塚古墳の石室のや構築過程を推定する貴重な手掛かりとなります。

 

 

 

(これらの石はもともとここにあったものではなく、運ばれてきたことが分かっている)

しかし、残念ながら現在までの調査で得られた石室に関する情報はほんのわずかにすぎません。
山王塚古墳の墳頂へ登ると、山王社の小さな祠と巨木が姿を現します。墳頂部は神域で簡単に採掘することができないのが現実。(山王塚古墳の所有は市ではない)


古墳時代の終わりと律令時代を始まり結ぶ謎を解く鍵がこの古墳にはある。
しかし解明はまだこれから。
古代ミステリーに包まれた山王塚古墳はどこまでも想像を掻き立てられる。
先に記したように、山王塚古墳が造られた7世紀後半は、古墳はもう造られなくなっていた。
そんな時代に造られた山王塚古墳の謎。。。
古墳時代の終末期に、
上円下方墳という珍しい形で、
全国最大規模という巨大過ぎるほどの古墳を、
なぜこの場所に造ったのか。
一番の謎は被葬者。誰を埋葬したお墓なのか、被葬者は今でも判明していません。
すぐ隣に山王塚古墳西古墳があったことは記しました。今は残っていません。つまりそこを壊して、隣に造らせたのが山王塚古墳です。それだけの権力の持主とは一体誰だったのか。

さらに現ニトリ川越店があるところには人々が暮らす集落があったことが分かっているので、集落と巨大古墳が隣り合っていたという地域。


(山王塚古墳の林間からニトリが臨めます)

 

来れば来るたびに古代ロマンの旅へいざなわれる山王塚古墳。
山王塚古墳からさらに時代を遡れば、武蔵野台地の上には、多くの遺跡が分布しており、旧石器時代以来の人々の生活がうかがわれます。縄文時代の遺跡は、仙波や南大塚、下小坂などの台地の縁辺部に広がり、的場地区には弥生時代の集落跡が確認されています。
また、入間川流域の豊田本周辺には条理制の遺構が見られたことなどから、早い時期に集落があったことが分かります。

そして山王塚古墳の時代の深海から現代へ帰って来ます。
奈良時代に入ると、現在の上戸新町周辺に入間郡家があったことが推定され、「東山道武蔵路」もその近傍を通っています。この時代、入間川左岸の台地は、水運と合わせて、すでに要衝の地になっていました。
また、仙波の星野山無量寿寺(現、中院、喜多院など)をはじめ、古谷地区の古尾谷八幡神社、灌頂院などが創建されました。
平安時代後期より台頭してきた武蔵武士の一族である河越氏は、入間川左岸の上戸に館を構えました。
河越氏の館は東山道武蔵路の近くであり、まさにこの道路が大きな役割を果たしていただろう。時代を経てこの道が山王塚古墳と繋がるのです。
やがて、扇谷上杉氏が「河越城」を築城し、北条氏に奪われたあとに奪還しようとした戦い、河越夜戦が起こった。
江戸時代になると松平伊豆守信綱が市街地の町割りを行い、新河岸川の舟運を整えて川越を飛躍的に発展させました。そして川越氷川祭が始まります。
明治時代に入り、川越大火のあとに蔵造りの建物が競って建てられ、今の一番街の街並みが形成される。あとはよくご存じの昭和時代、平成時代と続いてきました。


目の前には巨大な山王塚古墳がそびえる。
振り返ってみると、今でこそ農の地域である大東地区が、権力者が治める都的な場所だったイメージが膨らみ、多層的な地区であることが分かります。


この時代から1300年以上経った今、大東地区は農の地域であり、南大塚駅周辺を中心に人気のお店があちこちにある地域に発展してきた。
そうそう、ナンツカではこの見学会のあとに、「街バルinなんつか」も開催されています。

1300年以上前と同じく「ナンツカ」は賑わっています。