再掲 「いつ夕」解説 55

五日目 Ⅳ

 

 

 

海を見ながら、友子がノロケます。

 

この場所へ来たのは、波立った気持ちを鎮めるためでもあったのでしょうね。

 

ヨシ君に話を聞いてもらえてスッキリしたのと、

 

海を見て心が落ち着いたのでしょう、

 

一矢を、この海のような心を落ち着かせてもらえる存在だと語り、

 

一矢の意志を手に取るかのように代弁し、

 

友子自らも、この海のように一矢を包んであげたいと述懐します。

 

こんな羨ましいコト、想いを寄せている女性(ひと) の口から聞いた時にゃあ、

 

ヨシ君でなくとも、愛おしさと狂おしい嫉妬に叫び出したくなるでしょう。

 

「何で、その愛情を俺には注いでくれないんだーーっ!」

 

ヨシ君は衝動的な行為をしてしまいます。

 

取り返しのつかないことをしてしまうことってあるかと思います。

 

やったことはやったことだし、

 

過去には戻れず、やり直しもできず、過去は消せません。

 

やったことに対して、「今、どうするか」が、大事なのでしょう。

 

ヨシ君は、これまで、「今、どうするか」ということに直面することを避けていた、

 

今、現実、自分、から、目を背けていた、目を背けられていた、

 

避けられて、すり抜けられて、逃げられてきたのでしょうが、

 

友子という存在が現れ、現実、今、自分に直面せざるを得なくなってしまったのです。

 

これが、どうでもいい他者なら無視することもできるのでしょうが、

 

愛する他者は無視できません。

 

愛するとは、自我の、自己愛の投影でもあるのでしょうから、

 

自我を、自己愛を無視することはできない。

 

愛する他者の為にも、愛する自己の為にも、カッコつけなければならない。

 

虚栄、偽善かもしれませんが、ここは踏ん張り処です。

 

他者を愛するとは、回りくどく自己を愛することなのかもしれませんね。

 

愛し、愛されたいと望むのですから。

 

好く他者を愛せる者は、好く自己を愛し、

 

好く自己を愛する者は、好く他者を愛せるのでしょう。

 

 

ヨシ君は自分の行為を詫び、正直に自分の気持ちを友子に告げます。

 

友子も自分のいたらなさを詫び、ヨシ君の気持ちに答えます。

 

お互い様なんですね。

 

 

日日好日

 

 

 

この場面。

 

「坊っちゃん文学賞」の募集要項に「青春小説」とありましたので、

 

青春っぽい場面も描こう、と。

 

砂浜を駈け、倒れ込む。青春ですなあ。

 

 

令和六年二月八日。

 

俺がバーテンダーの職に就けられて、

 

35周年を迎えることができました。

 

ありがとうございます。

 

 

 

 

ヨシ君の歳を、21歳になる年の二十歳(ハタチ)としたのは、

 

「いつ夕」を2月の物語にしたのは、

 

無意識のうちに、俺のバーテンダー物語の、

 

〝はじまり〟と重ねたトコロもあるのかもしれません。

 

 

青春とは、一般的に10代~20代前半の期間を云うようですが、

 

「青春とは人生の或る期間を云ふのではなく、心の在り様を云ふのだ」

 

と、云う言葉ではじまる、サミュエル・ウルマンの詩もありますので、

 

そーゆー意味なら、今の俺も青春ですねー。

 

さすがに砂浜を駈けたりはしないでしょうが……(多分)

 

 

 

 

暁をまちながら