瞼の裏で解けた粒子が再構築しない。1と0のスパイラルが終わる。 ホワイトノイズの先は肌を掬うような湿気だった。
ヴァレンタインが強く瞑った瞼を開く。
その世界は仄暗く、埃臭い。








ヴァレンタインは眠るように丸くなっていた身を起こし、周りを見渡した。
壁は無機質に継ぎ目なく灰色で、細かな装飾の照明は落ち一層暗い。
そこは廊下だった。
左右を見、前を見、薄暗いここは夜なのかも分からないが、明り取りの窓は見当たらない、閉鎖された空間。
冷たい床は突き当たりの絵画の額縁を飾る壁まで届き、 唸るように底深い機械音が響く。
その音を聞きながら、ご都合主義の結末はどうだい、と、φは笑った事を思い出していた。





ヴァレンタインには、ここがどこかは分からない。 あのデータの世界の崩壊の後、自分は自分の住む世界を選ばなかった。
随分と卑怯なことをしたと思う。
ヴァレンタインは、自分の未来を自分で決めなかった。それはただ怖かったし、少しだけ期待をしたかった。
自分は望まれてここに呼ばれたのだと、言ってほしかった。
それはヴァレンタインの精一杯の我儘で、精一杯の愛だった。




ブゥン、と唸る機械音を聞きながら、自分の未来を知る。
壁は無機質ながら、電子で構築され浮かびあがる天使やディスプレイ、天井には鳥たちがあった。
ヴァレンタインが試しに床を歩く水鳥に触れるが、浮かぶ映像の虚像は指を透けた。

ヴァレンタインが顔をあげる。
正面突き当たり、廊下の終わりを告げる壁の壁画は、電子で煌めく聖書のマリアだ。
隣には誰もいない。生命を持つものは、ここには自分しかいない。
時折バチンと電気のはぜる音がした。
ここがどこかは分からないが、この音は聞いた覚えがある。


「ギギ、のとこ、こんな音してたなあ」
舌が渇くようで、もともと回らない呂律がさらに心許なくなる。
ギギのいる研究所は、こんな風に、暗くて、バチリと音がしていた気がする。はっきりと覚えているわけではないが、魂に染み込んだ地界の記憶だ。
機械的な音だけなら、永鉄のメンテナンスだって、そんな音を立てていた気がする。
場所がどこか分からなくても、自分一人しかいないこの事実は、変わらない。
ヴァレンタインは、この場所を想像し、それよりも、今ひとりきりであることが全てだと思った。



一人だと自覚した途端 、胸を衝く不安や衝動が吐き気の様にヴァレンタインを襲った。
「あ、あぁ」
背を折、掻き毟らないよう胸と腹を折り曲げる。
視界が濡れて歪むが、暗い中ではたいして違いはわからなかった。


彼の望んだ結末が、ヴァレンタインとの別れならば、それはきっと彼の幸せな未来なのだろう。
背中の淵がぱきりと音を立てて皺を増やした。
大丈夫。
腰を曲げ俯いて、ヴァレンタインの細い指が、背中の淵をそっと撫でる。
「だいじょうぶ、すぐ、わすれるもの」
あの世界も、彼のことも、この気持ちも、 全て月が消えれば忘れられる。
「だから、だいじょうぶ」
ずっとそうやって唱えてきた。そうやって諦めてきた。
それは魔法のような、呪いの言葉だ。
その言葉だけが、不確かな自身の真実で、唯一自分の側にいてくれるものだった。
彼が幸せであるならば、自分の些細な我儘なんてどうだっていい。
「だから、ぼく、だいじょうぶだよ、らあねさん」





「ーーッゴホッ..」
ヴァレンタインが弾かれたように顔をあげた。
遠くでなにかの声がした。
自分の声でない存在に、心臓が大きく跳ね、おそるおそる再び周りを見渡した。
そして気づく。
ヴァレンタインの後ろ、長い廊下の奥に、少しだけ開いた扉から差した灯りが揺れていた。
後ろの廊下突き当たりには、天使の羽根が浮かんでいた。


「ーーー..ッ」
また、聞こえた。
ヴァレンタインがゆっくりと立ち上がる。
冷たい床をひとつ蹴ると、ふわりと無重力の身体が宙に浮き、浮かび上がった埃が粒子のように煌めいた。
空気が冷たい。
何も考えていなかった。
ただ、声がした方へ、明かりの方へ、街灯へ群がる羽虫のように。


少しだけ開いた扉に手をかけ、ゆっくりと金のノブを押せば、小さな音を立てて内側へ開いた。
部屋の中は薄暗く、窓からの月明かりさえ見えない。そこは夜で冷えた部屋だった。
唯一の光源はパソコン端末のディスプレイで、その光が眩しすぎ、逆に部屋が何も見えない程暗いと言ってもいい。

暗いところに、誰かがいるような、誰もいないような部屋だった。
ヴァレンタインが光源のディスプレイに近寄ると、真っ白なディスプレイの左上、端詰めに、無機質な文字列が一列だけ、並んでいた。
読み書きを覚えたその文字は、先ほどまでいた電子の世界で使われていたものだ。
ヴァレンタインはそのディスプレイをなぞりながら、無意識に口にのせる。
「...i..i、wish....you...where、...here」
ゆっくりとなぞった言葉の意味を考えた。


かたり、と暗いところから音がした。
ヴァレンタインが考えるのをやめ、音のした暗いところを向き、やはり見えないその部分へ、ブラウンの瞳を凝らした。

静かな空間で、空気の抜ける音がした。
呼吸というには歪なそれは、なにか管を通るように音が漏れ、ピッ、と定期的な点滅がする。
雲に隠れた満月が窓の向こうで姿をだすと、暗いところは明るいところになった。


ヴァレンタインの呼吸が止まった。
ヴァレンタインが覗いていたディスプレイだけでなく、部屋の壁一面に機械端末が巡り、電源の落ちたそれらはステイモードで最低限の動作だけをしていた。

そしてそこには、ひとがいた。
ひとは老人で、月の下でも分かる干からびた様な肌に皺を刻み、落ち窪んだ目は虚ろに虚空を眺めていた。
無機物的な曲線を描くベッドに横たわり、 手元には埃を被った飾りとばかりのキーボードと、口元を覆うマスク型の透明なマイク。
喉から延びた太い呼吸器のコードから、先程聞こえた空気の漏れる様な音がする。
呼吸のたびに薄く上下する胸を見ても、彼はまるで生きていないようだった。

彼が重い瞬きの後、目だけがヴァレンタインを向いた。
視線があい、反射的にヴァレンタインは身を竦めた。見てはいけないものを見た気がしたから。
老人の彼は乾いた唇を開きかけ、閉じた。
お互いが何も喋らないまま数拍、満月はまた雲に隠れ、部屋は暗く落ちた。


「ーーッゴホッ、ッ...」
「!」
老人が顔を顰めたかとおもうと、何度も咳き込みだした。
背を丸めることもできないようで、肉の削げ落ちた頬が咳き込む度に陰を揺らした。
ヴァレンタインは弾かれたように老人へ走り寄った。
その顔はくしゃりと歪む。
「だいじょうぶ?さっきも せき してたでしょう?」
廊下で聞いたのはこの声だったと気付いたら、いてもたったも居られなくなった。
彼の声は耐える辛さをもって、ヴァレンタインの肌や耳に刺さる。
言葉で訴えられぬ辛い声は、 聞いてしまうと代わりに泣きたくなる。

「どこか わるいの?おくすりとか ない?ぼく なにかできる?」
オロオロと泣きそうなヴァレンタインが、老人のざらついた手を握った。
透けずふれられた事に安堵しながら、 ぴくり、と握った指が動いた気がして、ヴァレンタインは一瞬、握ってはいけなかったかと後悔し、手を引っ込めようか迷う。
「ーー、ぁ...」
彼の喉がヒュッと鳴り、けれど何か紡ごうと、目元を苦しく細めながら口が意思のある音を訴える。
「ーーーっ、ぃ、...ん...?」
「なあに?ゆっくり、ね? ぼく ここにいるから」
再び、握った彼の指を強く包み、彼の口元へ耳を寄せた。







「....ヴァレ、ン、タイン..?」

満月が再び雲から顔を出した。
月明かりに照らされ見えた彼は、先程より皺を濃く刻んでいた。
虚ろだった瞳はしっかりとヴァレンタインを捉え、その瞳は深く青く、幾分色褪せた風な髪は黄。
それはひどく懐かしく、まるで月のように美しいと思い、かつての彼が重なった。
皮の寄れた口元が、震えながら言葉を発する。
「ヴァ、レン、タイン」
噎せる息を飲み込みながら放った声は、ヴァレンタインの鼓膜を震わせ、ヴァレンタインを動けなくさせるのに余りあった。
「ヴァレン、タイン」
繰り返す度に言葉は滑らかに、平坦な声が優しく深くなる。
「私、が、わかります、か」







「......ふ、ぇ...っ」
ヴァレンタインが寄せた顔を、老人の頬へ擦り付ける。
「う、うえ....ふっ....うう、」
過ぎた衝動が形を変えて、ヴァレンタインを包んだ。止まらない涙を拭えないまま、両手で老人の頭を抱きしめた。
体重のない身体が老人のベッドへ乗り上げ、離れないように、確かめるように更に彼の身体を引き寄せる。
ヴァレンタインの涙が頬、顎から落ち腕を伝い、老人の目尻へ落ちた。
「らあね、さん、らあ、ね、さんっ」
嗚咽を混ぜながら、ヴァレンタインも言葉を重ねる。
「ぼく、おいて、いかれたのかって、おも、って、ぼく、」
ひとりになったのかとおもって。
ヴァレンタインが涙で詰まりながら必死に繋ぐと、 嗄れた声が戸惑った。
「笑って、くれないんですね」
彼の喉に繋がる呼吸器のコードが、言葉を紡ぐ度にごうっと音をあげる。
「泣く程、この私は、お気に召しませんか」

困った声音にヴァレンタインが顔をあげると、そこには不安げに揺れる青い瞳があった。
この、とは、今自分が抱きしめているこの身体のことだろうか。
ヴァレンタインがふと考え黙って老人を見つめるの、 老人が更に不安そうに口を開き、結局何も言わずに視線を外し、また伺うようにヴァレンタインを見た。
それがなんだか可笑しくて、ヴァレンタインは目もとを強く擦った後、ふわりと笑って彼に顔を寄せた。
「ううん、だいすき!」
口付けたアラーニェの唇はかさついていたが、それはデータではない、本物の彼のものだった。











かたり、と二人の背後で光る唯一のディスプレイが動く。
左上の文字列が不器用にバックスペースや改行、打ち直しを繰り返す。
かたり、ともう一度音を立て、そのディスプレイは動かなくなった。


『I wish you where here.

I'm with you.










Congratulation,Game Clear 』







ーーー

企画終わって一年経つけどこれやってねえわって思い出した




(ss)




















まるで暖色に光の降る様だった。華やかな大通りはライトやキャンドルに溢れ、ベルの音がそこかしこで輝いている。






暖かなコートとマフラーに包まれた人々は、ブーツで薄く積もった雪を踏みしめながら 家路を急いだ。






刺すような冷たさは肌を、目を、息を凍えさせ、 しかし気温だけでない暖灯が街を冬の寒さから掬い上げている。






雪のちらつく中、神の子の生まれた今日は聖誕祭であった。






皆々この夜、家族の待つ暖かい家へと静かに早く歩いていた。




















アリエノーレも例に漏れず、母親に頼まれたケーキと少しばかり家族を笑顔にするための花を持っていた。






花束というわけにもいかない苗の花だが、神の子の生まれた際喜んだ天使達が冬の庭一面に咲かせたというこの花は、雪のように白く可憐であった。






庭に植えよう、と提案すれば、嬉しそうに笑う家族が浮かび、アリエノーレは薄い紫のマフラーで隠れた口許を小さく綻ばせた。













自然と急く。街灯の照らす石畳みの大通りを時計台へ向けて進む。そこは上り坂で広い階段になっている。上まで登り切れば大通りを見下ろせ、その大通りの中心の広場にある大きな噴水も、静謐なイルミネーションでさぞ幻想的であろう。






アリエノーレはケーキと苗鉢を抱え直し、ついでに学業に必要なテキストのはいる鞄も持ち直し、一歩一歩ゆっくりとあがっていった。













登りながら、不意に夜空を仰ぎ見た。






ふわりふわりと散る雪はグレーの空に輪郭が滲み、雪空さえ黒や白へ斑に色をもっている。






底冷えする街の真ん中で、じわりと虚しさがアリエノーレに染み渡る。






まるで大事な何かに取り残されているような。






なにを、と思う。家族がある。友人がある。花を見せようと思う相手がいて、虚無を抱える要素がないと、アリエノーレは首を振る。






小さく息を吐いた。息は白くパリの宵に消える。






ただなんとなく、この抱える花は、違う誰かが似合う気がするのだ。



























雪が瞼の上に落ち目を顰めた。そろそろ階段も終わるだろう。登りきった踊り場から街を見下ろそう。そうすれば美しい暖色に焦燥感も溶けてゆくはずだ。






「ーーーっ!!」






滲み出した思考は何か叫ぶ音を拾ったが、明確に意味を理解することはなかった。






数拍後、その音が「危ない」 と言ったと理解しだしたときには、アリエノーレの視界に真っ白な花が夜空を飛んでいた。




















「さいってい!ひとにあたるとこだったじゃない!」






「お前が約束破ったからだろ?!」






「それとこれとは別だよ!」






遠くで男女らしき言い争いが聞こえた。






とくに避けることもしなかったが、二歩と離れていない場所にそれは潰れて落ちた。






がしゃりと文字通りひしゃげたそれは、柔らかい土と根がクラフト紙の袋からはみ出し、鉢だったのだろう赤茶の陶器の破片が見えている。






そしてふわりと、先ほど宙を舞っていた白い花がアリエノーレの足元へ落ちた。






「ごめんなさい!あぶないから、うごかないでっ」






「おい!まだ話が」






「わかったから後にして!」






この鉢から落ちたのだろうか、と考えながら足元の花と袋を交互に見ていると、頭上から軽いブーツの音と焦ったような声が聞こえた。口論をしていた声だ、とおもい、面倒ごとに巻き込まれるのは御免なんだが、と口の中で舌を打ったアリエノーレがゆっくりと顔をあげたとき、ふわりと頬に触れる指があった。









































お互いにそんなつもりはなかったのだ。






アリエノーレは億劫で、もう一人は怪我を負わせたかと焦っていた。片方は渋々だが、たがいに相手を認識しようとした。






雪の降る石階段で2人は初めて出会った。事実はそれだけだった。























































「ヴァル!おい!何してんだ!」






ヴァル、と呼ばれた少年(その名が一般的な短縮名であるならばそれは男性名だからだ)は先ほどまで言い争っていた男に乱暴に肩を引かれ、自分が今何をしていたのか分からなかった。






きっと相手もそうなのだろう、先程まで瞬きを忘れていたかのように盛んに目を瞬かせ、今自分が何をしていたのか思考が追いついていないようだった。






はたから見ても、特に二人の間には数拍の間以外何もなく、ヴァルと呼ばれた少年がアリエノーレの頬に触れただけだった。






ただそれだけだった。






「おい、ヴァル..、おい?泣いてんのか?」






男が強引にヴァルを自分に振り向かせれば、ヴァルは大きく開いた目から溢れる涙を拭いもせずにいた。アリエノーレもその涙を見ていた筈だが、その時のアリエノーレはそのことが分からなかった。






ただ冷たい指先と、ヴァルの薄い緑の瞳や、ヴァルの唇に落ちた雪が溶けていく様をいやに鮮明に覚えていた。













「おい、泣くほどおこっちゃいねえだろ、」






「いい、これはかんけいない、」






「怒鳴って悪かったって」






「本当にもういいから」






ヴァルが狼狽する男をはねつけ、ばっとアリエノーレへ体ごと振り返った。






階段二段分ほど上から見下ろすヴァルは、近くで見ても少年にしては小柄だとわかった。雪のようなマーメイドホワイトのショートボブが雪風に揺れ、象牙の肌に混じる。






額に生えた一対の触覚に似た角で同タイプだと分かったが、雪のような虫がいたのか、とアリエノーレは首を傾げたくなった。






「けが、」






「..、?」






「切ったりとか、してない?いたく、ない?」






泣きながら堂々と聞いてくるものだから、アリエノーレも一瞬言葉がでなくなったため、ええ、おかげさまで、と少し曖昧な返事をしてしまった。






そう、と短く首を傾げたヴァルが、手を伸ばそうとした。













「もういいだろ、いくぞ!」






「ちょっ、」






伸ばした反対の腕を男に引かれ、ヴァルが崩した体勢のまま無理矢理に階段をのぼらされていった。






「やめて、きょうは」






「約束しただろうが!」






「おねがいだから..っ」






男にひきづられるようにヴァルが石階段を登る。ジャケットの上からでも分かる細い体は簡単に引き上げられ抵抗に値しない。






ヴァルの顔が苦しく揺れた。






すがるような瞳がアリエノーレを捉えたのと、アリエノーレがヴァルの手を引いたのは、どちらが先か分からなかった。




















「!、なにを、」






「嫌がっています」






「はあ?!お前は関係ないだろ?」






「だから、嫌がっています」






彼が、と腕の中に収めた小さな少年を示す。






彼というべきか迷った。腕の中の彼はなにか、性の判別ができかねた。






少年というには淡く、少女と呼ぶには強く思う。






「無理強いしては可哀想でしょう」






アリエノーレの凛とした声が石階段に響く。彼の声は強者にいわく、ひとの上に立つものの強さを持っていた。






青味がかった瞳が光彩を放って強く訴える。






その様を、間抜けとすらとれる唖然とした顔でヴァルがみあげていた。






「あの、」






「嫌じゃないなら離して差し上げますが」






「え、あ、うんと、えと、?」






「はっきり言いなさい」






「あ、いやじゃない、です、」






「..おや、意外に」






残念、と心の底から呟きながら、アリエノーレが腕から押し出す様にヴァルを離すと、至極慌てたように、ヴァルがアリエノーレの手を握った。






「そういう意味じゃ、なくて!」






再び泣きそうな顔をしたヴァルがぎゅっと握った手に力を込めた。






「そうじゃなくて、」






くしゃりと歪んだ顔は先ほどの印象より幼く見え、アリエノーレはその顔に懐かしささえ感じ、はていつだっただろうと過去を思うが答えはない。






アリエノーレの手袋越しにヴァルの細く冷たい指が絡んだ。






「そうじゃなくて」






























「そういうことか、ヴァル」






不意に湧いた声にヴァルとアリエノーレが同時に視線をやる、正直に言えばすっかり忘れていたが、 忘れられていた男は先ほどの怒りはどこへ行ったのか、一転呆れたような冷めた顔で二人をみていた。






「その綺麗なお兄ちゃんが今日の相手か?」






「っ」






「そのお兄ちゃんができたから俺はもういらないって?呆れたもんだな、いやさすが?俺はお前より繊細だから帰ってママに慰めてもらうわ」





「だからそうじゃなくて」






「黙れビッチ」





くたばれ、と男が潰れた花の苗を踏み、崩れた鉢の破片がさらに粉々になる音が響いた。






ガンと鈍い音がした。






「いい、いいの」






「あんなこと言わせておくんですか」






「それだけのことしてる」






アリエノーレの踵が男の鳩尾を狙ったが腕を伸ばしたヴァルによって石階段を削って落ちるにとどまった。





ふん、と苛烈なスラングを吐き捨てながらもう一度花を踏んで男が背を向け階段を登っていく。





ヴァルはその背中に唇を噛み締めた。























「その花」





アリエノーレが未だ唇を噛むヴァルに小さく問うと、ああ、と足元の踏まれた苗を眺めながら思い出したように呟いた。




「おばさんが、ううん、今日からおかあさんなんだけどね、どうしても皆でごはんがたべたいっていうから」





ヴァルが屈んで苗の土を指先で摘み、傍に落ちた白い花を掬う。





「この花、クリスマスローズっていうんだって。クリスマスの花、きょうのお祝いに、てんしが咲かせたんだって、おかあさんがいってたから」




プレゼントにしようとおもったんだけど、とヴァルが苦笑した。にあわないことしたからかなあと零すヴァルの笑顔は何かを諦めたようだった。









俯いていたヴァルが、風の流れが変わった気がして顔をあげると、目の前に視線を同じにしたアリエノーレがいた。



「おにいさん?」




「私のお願いに対する代金ということで、受け取っていただけますか」




「?なにを、」




「茶々をいれた無礼の代金でも結構ですが」




訝しむヴァルの手へ、アリエノーレが抱えていた包みを持たせた。それは袋の見た目も同じく、ヴァルの捨てられたものと同じクリスマスローズ。


「うそ」


「偶然ですが」



「うそ、もらえないよ、だって、あなたも」


「私の庭にも咲いています、それに」


アリエノーレがヴァルの指から落ちた白い花を掬いとり、ヴァルの頭へ花飾りのように近づける。

「少なくとも私より似合います」

ヴァルが瞬きを数度。意味を理解すると、ふわりと照れたようにはにかんだ。

少女のように柔らかく、花のように綻ぶように。

アリエノーレは自分の心臓の音を聞いた。





「どこかで」

「え?」

「どこかで、お会いしましたか?」





しまった、とアリエノーレが思った時には遅く、思わず口をついてしまった独り言は今の二人の距離で聞こえぬ筈もなく。

「それ、ナンパ?」

くすくすとヴァルが笑うと、失言だったとアリエノーレが眉をしかめて咳払いし、その様子に更にヴァルが笑う。



ゴーン、と時計の金が響いた。



「あ、行かなきゃ」

「ああ、なら、最後に一つだけお願いを」

「うん、お礼もしたいし、なんでもどうぞ」

お互い立ち上がる。ヴァルは腕にクリスマスローズを抱えて。

「貴方のお名前をお聞きしても?」

ヴァルが首を傾げたのち、ふわりと笑った。

「あのね」

ふわ、と肩にかかる重さと頬に緩やかな風を感じてすぐ、柔らかな感触。ついでちゅっ、という鳥のさえずりのような。

「こんど会ったときにおしえてあげる!」

固まるアリノエーレに手を振りながら走って石階段を降りていく。

「だからそのとき、おにいさんもおしえてね」





(ぼくも あなたに)







ヴァルの姿が宵闇に粒より見えなくなるまで見送りながら、頬と胸を押さえてアリエノーレが呟く。

「女の子、ですか、」

伸び上がってきた身体の柔らかさ、少しだけ胸にふれたあの控えめな弾力。

「..名前」

ヴァル、ヴァル、と口の中で呟く。この短縮名は確か男性名であったはずだ。

ファーストネームではそう多く聞かないが、たしか、正式名は。



「..ヴァレンタイン」









---


貴方に会って胸に湧いた感情に僕はうまく説明ができない
けれどまたすぐに会える気がした
















(ss)









しんしん、という音を聞いたのがその時だったと思う。
僕はその意味がよくわからなくて、そう、あの時誰かに聞いたのだけれど、やっぱりよく分からなかった。
僕がその音を聞いたのは、ようやく髪が肩についた頃だ。









黄色い明かりの部屋は暖かく、外と隔てる窓は温度差で白くくもった。
そこへ指で文字をかく遊びを覚えたのも数日前で、文字にならない文字ではあったが、意味はある文字だ。
外は息の白くなる 時間だろう。夜の時間が長い季節があるのも知らなかった。覚えていないだけかもしれないが。

ヴァレンタインが毛布を被り曇り硝子を眺める
曇り硝子には北斗七星のような何かが指でなぞった跡があった。
ふふふ、と満足そうにヴァレンタインが笑った。


「何を書いたんですか」
抑揚に乏しい音に声をかけられ、ヴァレンタインが肩越しに振り返った。
「ふふふ ないしょです」
ヴァレンタインが満足そうに笑うのを、アラーニェが呆れたような、笑ったような顔を向けて応えた。
「それより ねえ まだ?」
「まだです」
「こげちゃうよ」
「ちゃんと見ています」
「チョコレートとチーズ」
「クラッカーと花の紅茶も」
「やったあ!」
ぱっとヴァレンタインの笑顔が華やぎ、細い手足が柔らかいカーペットの上でばたついた。
それを見て、長椅子のような車椅子に横になったアラーニェが小さく笑う。
深く刻まれた皺が優しくよって暖炉の炎で陰となる。
「昨日はチョコレートフォンデュだったのに、よく飽きませんね」
暖炉の正面で横になるアラーニェに、ヴァレンタインが膝でにじり寄り、アラーニェの腹の上に顎をのせ、ころころと笑う。
「はい あきません だって楽しいもの」
ずり落ちて道中に置いていかれた哀れな毛布に視線を投げながら、アラーニェは喉の声帯へ組み込んだ拡声器越しに言葉を綴る。
「甘いものが好きでしたね、向こうでも」
「あのひとほどじゃあ ないですけどね」
ふふ、と首を横に傾けながらヴァレンタインが笑う。
ブランケット越しのアラーニェの腹に頬を寄せながら、懐かしい日を思う。
目を閉じて思い出せば、覚えているあの時たちが光の明滅の如く強い光彩を放ってヴァレンタインを揺すり始めるのだ。

小さな眩暈を覚えるようなその感覚に、ヴァレンタインは幸せをおもう。
視界に散らばる自分の髪が、あの頃よりずいぶん伸びたことにも。



「眠たいのですか」
平たくぎこちないその声を、彼はあまり好きではないらしい。
耳触りは羽根のように柔らかくはないが、自分にはとても優しく心地いい、とヴァレンタインは思う。
「うとうと しそう かも」
それは、その声が誰の声であるかに重きを置いている結果かもしれない。
ゆっくりと目を開けると、視界の端でほんの少し、痙攣のような動きがあった。

ヴァレンタインはその意味がわかった、気がしただけかもしれないが、それに胸に暖かいものが広がるようだった。
すっとその、震えるように揺れるアラーニェの指を両手で包むと自身の頬へ寄せ、鳥のように軽くキスをする。
「あたま なでなでは まだおあずけです」
だから早くなでてくださいね、とヴァレンタイン が笑う。
アラーニェの目が細くなった。
「...そうですね、はやく」
ぴくり、と握られた指の動きが、いまの彼の最大かもしれない。
「貴方の伸びた髪も、邪魔になるまえに、結わないといけませんし」
せめてその淡い髪を梳くほどに。
「やだあ、らぁねさん、三つ編みじょうずにできるのお」
三つ編みがいいとヴァレンタインが楽しそうに告げ、アラーニェの腕を胸に引き寄せるように抱いた。

「また次の冬にでも」
ぱちり、と暖炉の爆ぜる音がした。
「いっしょにマシュマロやきながら 三つ編みのれんしゅう しましょうね」
その時はおひざに座っていい?と募るヴァレンタインに、アラーニェは静かに笑う。
その夜、雪が降った。