瞼の裏で解けた粒子が再構築しない。1と0のスパイラルが終わる。 ホワイトノイズの先は肌を掬うような湿気だった。
ヴァレンタインが強く瞑った瞼を開く。
その世界は仄暗く、埃臭い。
ヴァレンタインは眠るように丸くなっていた身を起こし、周りを見渡した。
壁は無機質に継ぎ目なく灰色で、細かな装飾の照明は落ち一層暗い。
そこは廊下だった。
左右を見、前を見、薄暗いここは夜なのかも分からないが、明り取りの窓は見当たらない、閉鎖された空間。
冷たい床は突き当たりの絵画の額縁を飾る壁まで届き、 唸るように底深い機械音が響く。
その音を聞きながら、ご都合主義の結末はどうだい、と、φは笑った事を思い出していた。
ヴァレンタインには、ここがどこかは分からない。 あのデータの世界の崩壊の後、自分は自分の住む世界を選ばなかった。
随分と卑怯なことをしたと思う。
ヴァレンタインは、自分の未来を自分で決めなかった。それはただ怖かったし、少しだけ期待をしたかった。
自分は望まれてここに呼ばれたのだと、言ってほしかった。
それはヴァレンタインの精一杯の我儘で、精一杯の愛だった。
ブゥン、と唸る機械音を聞きながら、自分の未来を知る。
壁は無機質ながら、電子で構築され浮かびあがる天使やディスプレイ、天井には鳥たちがあった。
ヴァレンタインが試しに床を歩く水鳥に触れるが、浮かぶ映像の虚像は指を透けた。
ヴァレンタインが顔をあげる。
正面突き当たり、廊下の終わりを告げる壁の壁画は、電子で煌めく聖書のマリアだ。
隣には誰もいない。生命を持つものは、ここには自分しかいない。
時折バチンと電気のはぜる音がした。
ここがどこかは分からないが、この音は聞いた覚えがある。
「ギギ、のとこ、こんな音してたなあ」
舌が渇くようで、もともと回らない呂律がさらに心許なくなる。
ギギのいる研究所は、こんな風に、暗くて、バチリと音がしていた気がする。はっきりと覚えているわけではないが、魂に染み込んだ地界の記憶だ。
機械的な音だけなら、永鉄のメンテナンスだって、そんな音を立てていた気がする。
場所がどこか分からなくても、自分一人しかいないこの事実は、変わらない。
ヴァレンタインは、この場所を想像し、それよりも、今ひとりきりであることが全てだと思った。
一人だと自覚した途端 、胸を衝く不安や衝動が吐き気の様にヴァレンタインを襲った。
「あ、あぁ」
背を折、掻き毟らないよう胸と腹を折り曲げる。
視界が濡れて歪むが、暗い中ではたいして違いはわからなかった。
彼の望んだ結末が、ヴァレンタインとの別れならば、それはきっと彼の幸せな未来なのだろう。
背中の淵がぱきりと音を立てて皺を増やした。
大丈夫。
腰を曲げ俯いて、ヴァレンタインの細い指が、背中の淵をそっと撫でる。
「だいじょうぶ、すぐ、わすれるもの」
あの世界も、彼のことも、この気持ちも、 全て月が消えれば忘れられる。
「だから、だいじょうぶ」
ずっとそうやって唱えてきた。そうやって諦めてきた。
それは魔法のような、呪いの言葉だ。
その言葉だけが、不確かな自身の真実で、唯一自分の側にいてくれるものだった。
彼が幸せであるならば、自分の些細な我儘なんてどうだっていい。
「だから、ぼく、だいじょうぶだよ、らあねさん」
「ーーッゴホッ..」
ヴァレンタインが弾かれたように顔をあげた。
遠くでなにかの声がした。
自分の声でない存在に、心臓が大きく跳ね、おそるおそる再び周りを見渡した。
そして気づく。
ヴァレンタインの後ろ、長い廊下の奥に、少しだけ開いた扉から差した灯りが揺れていた。
後ろの廊下突き当たりには、天使の羽根が浮かんでいた。
「ーーー..ッ」
また、聞こえた。
ヴァレンタインがゆっくりと立ち上がる。
冷たい床をひとつ蹴ると、ふわりと無重力の身体が宙に浮き、浮かび上がった埃が粒子のように煌めいた。
空気が冷たい。
何も考えていなかった。
ただ、声がした方へ、明かりの方へ、街灯へ群がる羽虫のように。
少しだけ開いた扉に手をかけ、ゆっくりと金のノブを押せば、小さな音を立てて内側へ開いた。
部屋の中は薄暗く、窓からの月明かりさえ見えない。そこは夜で冷えた部屋だった。
唯一の光源はパソコン端末のディスプレイで、その光が眩しすぎ、逆に部屋が何も見えない程暗いと言ってもいい。
暗いところに、誰かがいるような、誰もいないような部屋だった。
ヴァレンタインが光源のディスプレイに近寄ると、真っ白なディスプレイの左上、端詰めに、無機質な文字列が一列だけ、並んでいた。
読み書きを覚えたその文字は、先ほどまでいた電子の世界で使われていたものだ。
ヴァレンタインはそのディスプレイをなぞりながら、無意識に口にのせる。
「...i..i、wish....you...where、...here」
ゆっくりとなぞった言葉の意味を考えた。
かたり、と暗いところから音がした。
ヴァレンタインが考えるのをやめ、音のした暗いところを向き、やはり見えないその部分へ、ブラウンの瞳を凝らした。
静かな空間で、空気の抜ける音がした。
呼吸というには歪なそれは、なにか管を通るように音が漏れ、ピッ、と定期的な点滅がする。
雲に隠れた満月が窓の向こうで姿をだすと、暗いところは明るいところになった。
ヴァレンタインの呼吸が止まった。
ヴァレンタインが覗いていたディスプレイだけでなく、部屋の壁一面に機械端末が巡り、電源の落ちたそれらはステイモードで最低限の動作だけをしていた。
そしてそこには、ひとがいた。
ひとは老人で、月の下でも分かる干からびた様な肌に皺を刻み、落ち窪んだ目は虚ろに虚空を眺めていた。
無機物的な曲線を描くベッドに横たわり、 手元には埃を被った飾りとばかりのキーボードと、口元を覆うマスク型の透明なマイク。
喉から延びた太い呼吸器のコードから、先程聞こえた空気の漏れる様な音がする。
呼吸のたびに薄く上下する胸を見ても、彼はまるで生きていないようだった。
彼が重い瞬きの後、目だけがヴァレンタインを向いた。
視線があい、反射的にヴァレンタインは身を竦めた。見てはいけないものを見た気がしたから。
老人の彼は乾いた唇を開きかけ、閉じた。
お互いが何も喋らないまま数拍、満月はまた雲に隠れ、部屋は暗く落ちた。
「ーーッゴホッ、ッ...」
「!」
老人が顔を顰めたかとおもうと、何度も咳き込みだした。
背を丸めることもできないようで、肉の削げ落ちた頬が咳き込む度に陰を揺らした。
ヴァレンタインは弾かれたように老人へ走り寄った。
その顔はくしゃりと歪む。
「だいじょうぶ?さっきも せき してたでしょう?」
廊下で聞いたのはこの声だったと気付いたら、いてもたったも居られなくなった。
彼の声は耐える辛さをもって、ヴァレンタインの肌や耳に刺さる。
言葉で訴えられぬ辛い声は、 聞いてしまうと代わりに泣きたくなる。
「どこか わるいの?おくすりとか ない?ぼく なにかできる?」
オロオロと泣きそうなヴァレンタインが、老人のざらついた手を握った。
透けずふれられた事に安堵しながら、 ぴくり、と握った指が動いた気がして、ヴァレンタインは一瞬、握ってはいけなかったかと後悔し、手を引っ込めようか迷う。
「ーー、ぁ...」
彼の喉がヒュッと鳴り、けれど何か紡ごうと、目元を苦しく細めながら口が意思のある音を訴える。
「ーーーっ、ぃ、...ん...?」
「なあに?ゆっくり、ね? ぼく ここにいるから」
再び、握った彼の指を強く包み、彼の口元へ耳を寄せた。
「....ヴァレ、ン、タイン..?」
満月が再び雲から顔を出した。
月明かりに照らされ見えた彼は、先程より皺を濃く刻んでいた。
虚ろだった瞳はしっかりとヴァレンタインを捉え、その瞳は深く青く、幾分色褪せた風な髪は黄。
それはひどく懐かしく、まるで月のように美しいと思い、かつての彼が重なった。
皮の寄れた口元が、震えながら言葉を発する。
「ヴァ、レン、タイン」
噎せる息を飲み込みながら放った声は、ヴァレンタインの鼓膜を震わせ、ヴァレンタインを動けなくさせるのに余りあった。
「ヴァレン、タイン」
繰り返す度に言葉は滑らかに、平坦な声が優しく深くなる。
「私、が、わかります、か」
「......ふ、ぇ...っ」
ヴァレンタインが寄せた顔を、老人の頬へ擦り付ける。
「う、うえ....ふっ....うう、」
過ぎた衝動が形を変えて、ヴァレンタインを包んだ。止まらない涙を拭えないまま、両手で老人の頭を抱きしめた。
体重のない身体が老人のベッドへ乗り上げ、離れないように、確かめるように更に彼の身体を引き寄せる。
ヴァレンタインの涙が頬、顎から落ち腕を伝い、老人の目尻へ落ちた。
「らあね、さん、らあ、ね、さんっ」
嗚咽を混ぜながら、ヴァレンタインも言葉を重ねる。
「ぼく、おいて、いかれたのかって、おも、って、ぼく、」
ひとりになったのかとおもって。
ヴァレンタインが涙で詰まりながら必死に繋ぐと、 嗄れた声が戸惑った。
「笑って、くれないんですね」
彼の喉に繋がる呼吸器のコードが、言葉を紡ぐ度にごうっと音をあげる。
「泣く程、この私は、お気に召しませんか」
困った声音にヴァレンタインが顔をあげると、そこには不安げに揺れる青い瞳があった。
この、とは、今自分が抱きしめているこの身体のことだろうか。
ヴァレンタインがふと考え黙って老人を見つめるの、 老人が更に不安そうに口を開き、結局何も言わずに視線を外し、また伺うようにヴァレンタインを見た。
それがなんだか可笑しくて、ヴァレンタインは目もとを強く擦った後、ふわりと笑って彼に顔を寄せた。
「ううん、だいすき!」
口付けたアラーニェの唇はかさついていたが、それはデータではない、本物の彼のものだった。
かたり、と二人の背後で光る唯一のディスプレイが動く。
左上の文字列が不器用にバックスペースや改行、打ち直しを繰り返す。
かたり、ともう一度音を立て、そのディスプレイは動かなくなった。
『I wish you where here.
I'm with you.
Congratulation,Game Clear 』
ーーー
企画終わって一年経つけどこれやってねえわって思い出した