(ss)









しんしん、という音を聞いたのがその時だったと思う。
僕はその意味がよくわからなくて、そう、あの時誰かに聞いたのだけれど、やっぱりよく分からなかった。
僕がその音を聞いたのは、ようやく髪が肩についた頃だ。









黄色い明かりの部屋は暖かく、外と隔てる窓は温度差で白くくもった。
そこへ指で文字をかく遊びを覚えたのも数日前で、文字にならない文字ではあったが、意味はある文字だ。
外は息の白くなる 時間だろう。夜の時間が長い季節があるのも知らなかった。覚えていないだけかもしれないが。

ヴァレンタインが毛布を被り曇り硝子を眺める
曇り硝子には北斗七星のような何かが指でなぞった跡があった。
ふふふ、と満足そうにヴァレンタインが笑った。


「何を書いたんですか」
抑揚に乏しい音に声をかけられ、ヴァレンタインが肩越しに振り返った。
「ふふふ ないしょです」
ヴァレンタインが満足そうに笑うのを、アラーニェが呆れたような、笑ったような顔を向けて応えた。
「それより ねえ まだ?」
「まだです」
「こげちゃうよ」
「ちゃんと見ています」
「チョコレートとチーズ」
「クラッカーと花の紅茶も」
「やったあ!」
ぱっとヴァレンタインの笑顔が華やぎ、細い手足が柔らかいカーペットの上でばたついた。
それを見て、長椅子のような車椅子に横になったアラーニェが小さく笑う。
深く刻まれた皺が優しくよって暖炉の炎で陰となる。
「昨日はチョコレートフォンデュだったのに、よく飽きませんね」
暖炉の正面で横になるアラーニェに、ヴァレンタインが膝でにじり寄り、アラーニェの腹の上に顎をのせ、ころころと笑う。
「はい あきません だって楽しいもの」
ずり落ちて道中に置いていかれた哀れな毛布に視線を投げながら、アラーニェは喉の声帯へ組み込んだ拡声器越しに言葉を綴る。
「甘いものが好きでしたね、向こうでも」
「あのひとほどじゃあ ないですけどね」
ふふ、と首を横に傾けながらヴァレンタインが笑う。
ブランケット越しのアラーニェの腹に頬を寄せながら、懐かしい日を思う。
目を閉じて思い出せば、覚えているあの時たちが光の明滅の如く強い光彩を放ってヴァレンタインを揺すり始めるのだ。

小さな眩暈を覚えるようなその感覚に、ヴァレンタインは幸せをおもう。
視界に散らばる自分の髪が、あの頃よりずいぶん伸びたことにも。



「眠たいのですか」
平たくぎこちないその声を、彼はあまり好きではないらしい。
耳触りは羽根のように柔らかくはないが、自分にはとても優しく心地いい、とヴァレンタインは思う。
「うとうと しそう かも」
それは、その声が誰の声であるかに重きを置いている結果かもしれない。
ゆっくりと目を開けると、視界の端でほんの少し、痙攣のような動きがあった。

ヴァレンタインはその意味がわかった、気がしただけかもしれないが、それに胸に暖かいものが広がるようだった。
すっとその、震えるように揺れるアラーニェの指を両手で包むと自身の頬へ寄せ、鳥のように軽くキスをする。
「あたま なでなでは まだおあずけです」
だから早くなでてくださいね、とヴァレンタイン が笑う。
アラーニェの目が細くなった。
「...そうですね、はやく」
ぴくり、と握られた指の動きが、いまの彼の最大かもしれない。
「貴方の伸びた髪も、邪魔になるまえに、結わないといけませんし」
せめてその淡い髪を梳くほどに。
「やだあ、らぁねさん、三つ編みじょうずにできるのお」
三つ編みがいいとヴァレンタインが楽しそうに告げ、アラーニェの腕を胸に引き寄せるように抱いた。

「また次の冬にでも」
ぱちり、と暖炉の爆ぜる音がした。
「いっしょにマシュマロやきながら 三つ編みのれんしゅう しましょうね」
その時はおひざに座っていい?と募るヴァレンタインに、アラーニェは静かに笑う。
その夜、雪が降った。