生の不安とオモチャの気持ち | 絵画的世界の窓

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7月上旬に開催の企画展「オモチャの気持ち」展のDMをそろそろつくらないといけない時期になって来ました。

ところで改めて考えてみるとオモチャってなんだ?

ですよなね。

さらにこども時代から遠く離れた今となっては、です。


まずゲームではない。


オモチャなんですね。ぼくなんかだとオモチャっていうと、ブリキのオモチャ。ブリキで出来ているつまりブリキ製のオモチャ全体を指す言葉が染み付いていて、じゃあブリキのなに?って突っ込まれると、その先はボンヤリとして具体的な名が思い出せない。プラスチックがまだ普及される以前の話しなんだろうなと思う。なんでもブリキで出来ていたんだろう。

あっ、でも「オバケのQ太郎」の指人形はプラスチックだった。嫌な匂いを今でも思い出すから。


でもオモチャっていうと、もっと小さい頃との付き合いの気がするな。

もっと空想と現実がいっしょくたに溶け合っていた頃に出逢う数々の「モノ」。空想と現実とをつないでこどもの想像力をふくらませる「モノ」。


でもそのことが却って現実と想像の境い目をあいまいにして、ピーターパンシンドロームを作用させる現実逃避の感覚をもまた促すのかも。


夢と現実。


でもこの問題は生きる根本のような気がするし。いい悪いの次元ではもはやないのではないか。

つまりオモチャは人間が生きる上で、その最初期に遭遇する危うさの第一に通過する関所ともいえるのでは?

だとするとかのオモチャの気持ちはイカばかりか。生死のスレスレのところで、赤ちゃんの不安とともに喜んだり驚いたりしながら、この不確かな現実の脆さを共有している唯一の友かもしれないのだ。