テクノロジーの飛躍的な進歩は社会と人間にひたすら合理性を要求しつづけて、結果、人間はその合理性に打ち砕かれるまま自我の希薄化を進ませて、人間でありながら人間でない人擬きに韜晦する。
藤井義充著「擬人化する人間」(朝日新聞出版)。
ぼくはこの本をペラペラしながら、TVドラマのあるシーンを思い浮かべた。
TVドラマと言えばお茶の間に相対して頻繁に登場する食卓のシーンだ。
最近あまりTVを観ないが、観ればたぶん必ず気になる食卓シーンの、食べるという行為にまつわる日常のリアリティーだ。
いつ頃からか、そのリアリティーが消えた。ドラマから消えることで案外実生活がドラマ化しているのではないか?
疑いがぼく中ではうまれている。
つまりどういうことか?
何がって、食べながら喋らない不自然さが、どうしても気になる。
だって家族で、あるいは近しい仲間内で食卓を囲むとき、食べながら話すのは当たり前ではないか?喋りながら食べる、食べながらお喋りに嵩じる。二つの行為は全然別なことで、一緒にすることではないが、普段何気ない日常では、この二つの行為は極めて自然に同時に行われる。少々エチケットに反する迷惑はあっても、日常はあっさりその迷惑を飛び越える。
なのにドラマの中の気心知れた連中は喋るとき、下手をすると箸を置いてしまう。
二つの別々の行為を礼儀正しく二つの行為に分けてしまう不自然さを自らに強いてしまうのだ。
喋りながら食べるという、普段なら当たり前の「ながら」を止めてしまって、二つの行為を分断してしまうのだからお行気が良すぎて、もはや現実を映しているとは言い難い人擬きを演出している。
こうしたあり得ない現実を見せられていると、堪らなくなってTVを消す。ないし番組を変える。
食べる、喋る、いずれも命をつなぐ基本的な行為にリアリティーを求めない演出を施し、それを観せられる側に身を置いていると、何か人間とは違う生き物を見ているような、生命力を奪われた人形を感じて落ち着かなくなるのだ。やり易いように処理された、生きている何かが生活の中に充満している。
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