世の中が複雑になり、どんどん変化もしていく中で、自分達の組織の在り方を改めて定義しようとした時、今までの通りには行かなくなってくる。
自分達を取り巻く環境を分析し、組織としてのビジョンを明確にしても、外野からは「あっちの点はどうなんだ」「この観点が盛り込まれていない」といった指摘が飛んでくる。
指摘は尤もだと思う面もあるが、外野は所詮外野にしか過ぎず、自分達で動かすことなんてしない。
また、本来は組織を動かす立場にある人間が、自らのビジョンなり在り方を示すことなく、批判だけに終始するなんてこともあったりする。
少し前に書いたけれど(調整型リーダーの退場。)、調整型のリーダーは今の時代には、こうした振る舞いに陥りやすいのだろう。
自らの頭で自分達の組織の在り方を考えなくても済んだか、もしくは、はるか昔に定義した在り方から頭の中が更新されていないから。
そもそも、これだけ変化が激しく、複雑になってきている社会において、全てを包含するような大きなビジョンを描くこと自体に無理があるのかもしれない。
全てを包含しようとした時、極めて抽象的で、ほとんど何も言っていないに等しいことになってしまうのではないだろうか。
中央官庁であろうと、役所であろうと、企業であろうと、それぞれに中長期的なビジョンとか目標、計画を掲げるけれど、外野からは掲げたことに対して批判も多い。
人口動態とか地球環境の変化などは、中長期的には予測が立てやすい。
今、10歳の人が10年後の20歳になった時に、20歳の人口が増えるということはあり得ない。
地球の平均気温が10年後に劇的に下がるということも、まずあり得ないだろう。
地球がある限り太陽は東から昇り西に沈む。
そうした大きく変わることがない物事をベースにして、自分達の組織は「こうしていく」という意志を示すしかない。
意志というベクトルを示すと、そこからこぼれてしまうものも出てくる。
遠い視点の意思を示せば、ある程度は皆が同じ方向に向かうことができるかもしれないけれど、あまりに遠いと、歩んでいくのが嫌になってしまう人たちも出てくる。
全てを包含することが出来ないとなれば、ある程度意思が統一できる単位まで組織のユニットを小さくするしかないのかもしれない。
大きことは良いことだとされ、どんどん組織を大きくし、売り上げも大きくし、みたいなことが良しとされてきた。
大きくし、増やしていくことが成長であり、そうした成長こそが善なのだと。
だが、今まで善だったこと、これからも善であるとは限らない。
大きく増やす右肩上がりの成長の在り方は、複雑で変化の激しい社会にあっては、むしろ害悪になりかねない。
究極的には、組織の在り方というより、個々人の在り方を自分で定めると言った時代になってくるのだろう。
そうなった時、在り方を丸投げするような組織のリーダーはいらなくなってくるし、批判ばかりの人たちもいらなくなってくる。
そうした人たち(輩)が社会のエスタブリッシュ層に君臨している限り、国や企業などの組織は堕ちていき、やがてなくなってしまうのだろう。
それに気づいた人たちは、いつまでも泥舟に乗ることはないので、逃げ出す準備をしている。
ただ、逃げ出された側は、それが自分の存在の責任だとは思わない。
堕ちていくにしても、底があればまだ良いのだが、どこかで一掃するようなことをしないと、底なし沼に堕ちることになりそうだ。
加速主義と言われるものもあるけれど、底なし沼に堕ちたなら、いくら堕ちる速度を上げても、浮かび上がることが出来ない。
だが、現在のエスタブリッシュ層を一掃すると言ったところで、テロ的な行為は混乱に拍車をかけるだけで、底を見える状態にするわけでもない。
革命を起こすにしても、多くの犠牲が伴い、やはり混乱に拍車がかかる。
そして、混乱に嫌気がさして、全てを委ねようと独裁者を待望する機運が広がってくる。
フランス革命の後にナポレオンが登場したように。
澱んでしまった水は、一気に入れ替えるような荒治療も必要かもしれないが、基本は絶えず循環させていくことなんだろう。
残念ながら、循環を怠ってしまった組織は、一度解体するぐらいのことが必要なのかもしれない。
ゾンビを成仏させるように、ゾンビ企業も成仏させる方が、むしろ賢明なのかもしれない。
ゾンビは自分達がゾンビだと認識していない、という問題もあるのだが。