調整型リーダーの退場。 | こんちゃんの「社会世相を斬って、見てみる」

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VUCAと言われる時代にあって、組織を束ね、動かしていくのはリーダーのビジョンでしかない。

 

 

社会の大きな変動がなく、社会の仕組みも利害も比較的シンプルな時代であったなら、関係の調整が功を奏していた。

 

 

調整型のリーダーが重宝された。

 

 

ただ、調整型のリーダーは得てして自分のビジョンとか理念というものを持っていない。

 

 

調整型だからと言って、誰にも腰が低いかということそうでもない。

 

 

君臨しているから偉そうだったりもするし、自分のビジョンの無さを棚に上げて、組織がどうあるべきかを下の者に問うたりする。

 

 

言われた者たちは内心「それを考えるのがお前の仕事だろ」と思う。

 

 

ビジョンがない代わりに、と言うか、ビジョンがないが故になのかもしれないが、対処療法的とも言える具体的な「打ち手」といったことにこだわってしまう。

 

 

だが、「打ち手」と言うのは戦術でしかない。

 

 

大きなビジョンや戦略に基づかない「打ち手」を連発すると、傍目には「やっている感」を醸し出せる。

 

 

ただ、実際にそうした「打ち手」を立案し実行しているのは、組織のリーダーではない。

 

 

スタッフ部門が立案から実行まで行おうとするが、現場との調整もあるし、ビジョンがない中での「打ち手」でだから、自分達のやっていることにもイマイチ自信が持てないし、しっくりもいっていない。

 

 

乱発される「打ち手」は思いつきでしかないため、現場の末端に行くほど混乱の坩堝と化す。

 

 

調整型のリーダーは神輿に担がれる分にはいいが、ビジョンのない軽い神輿は担ぎ手の暴走を招く可能性もある。

 

 

満州事変や太平洋戦争などで参謀と称される連中が好き勝手にやってしまった例が顕著だ。

 

 

ここ数年でも、官邸官僚と称される人たちの思いつきの施策による混乱を目の当たりにしている。

 

 

ビジョン無きリーダーに生殺与奪を握られていると、どうしても「打ち手」を乱発して、やっている感を出さざるを得ない。

 

 

ビジョンが無いから、打ち手に一貫性もないし、乱発するから疲弊する。

 

 

スタッフ部門は疲弊し、組織は衰退の一途を辿るものの、リーダーは君臨し、調整に終始し、意気軒昂だったりする。

 

 

だけれど、そうしたリーダーを奉っている組織は厳しくなっており、いつひっくり返ってもおかしくない。

 

 

VUCAな時代に、今までの組織はどこまで生き残れるのか。

 

 

いや、組織はリーダーを変えることで生き残りを図るだろう。

 

 

ビジョン無きリーダーが退場するのみだ。

 

 

徐々にかもしれないが、おそらく、これから一気に加速をつけて起きてくることだろう。