good bye my rule 12 } 過剰は毒 | maro's diary

maro's diary

私の今までの人生で経験した事やこれからの事を記録として残してシェアをしたいと思います






ADHD 不登校 抜毛症 鬱病 摂食障害 を経験した
私が思う 「当たり前」「普通」の概念から生まれる
マイルールについて書くseries 12


「過剰は毒」











1. 0か100かじゃない


自分の当たり前や普通に対して
完璧を求めると疲れちゃうと思う


当たり前=完璧 じゃない


当たり前や普通を100%とせず
52%くらいだと捉えていた方が
自分の余裕と気楽さがあると思う


 


2. 過剰の強迫




摂食障害さんは脳の萎縮により
判断する力が乏しくなっている一方で
" 絶対 " の意思は強くなっています



それが摂食障害の症状だからです



そこから少し距離を置けたとしても
それが当たり前や普通になっているから
癖のようになっていて
" 絶対 " を手放す事に不安を感じるはず


これを 過剰の強迫と表現します



摂食障害の症状である痩せたいという気持ち
容姿や数字に執着する姿は
病的であって過剰であって
どこか操られているように動いています


摂食障害というお化けに憑依されている
そう捉えてもいいかもしれません




自分が
「あれしなきゃ」「これしなきゃ」
「これができてない」「何もできてない」

と思う対象は
摂食障害から強迫されている事なのか?


区別を付けることで
距離が保ちやすいかなと思います





3. 過剰は毒 " 数字 "




これまで、完璧や過剰について書いてみました

具体的に何が毒なのかという話をします
経験談になります


回復を決めて食べ始めた頃の話

ご飯のg数を測って回復期を過ごす方が多くて
それがまずは正しい事だと思って
私もご飯のg数字を測るようにしました


しかし
測る手間もそうなのですが
外食に行く際はどうしますか?


この先一生家で白米を食べる?
そんな訳ありません


一度、近くの町中華に
「はかり」を持って行った事もあります

でも、器分の重さを引かなければならない
その器がどのくらいかも分からなかった


プチパニックを起こしました



これ、必要のないパニックだったと思います
病的でした



私はただ回復したいだけなのに
摂食障害の思考が過剰にも執着させた数字
これじゃなきゃ不安と思わせた


また、g数を測る行為はそれを煽っています



カロリー計算
体重測定も同じです


私達は容姿や生き辛さから食事に執着を持って
数字にこだわりを持って
安心を得ようと評価の対象にしてきた数字



回復期でそれに(数字)頼ろうとしていたのは
私は間違いでした


余計に苦しくなる、でした


それからいちいち悩むのは変だなと思って
辞めたらいいやと思って辞められました



カロリー計算に走った3日間があります
たったの、3日間ではありますが
辞めた理由から話すと「疲弊した」からです


3日間といっても
3食3間 × 3 ですから 大体18回の計算です



カロリー表示されているものを食べるだけじゃないです



外食に行って頼んだお食事
お家で作ったごはん
パン屋さんで売っているパン



カロリー表示がない方が多いような気がしたんです




その時私はどうしたか?
カロリー計算をすると安心すると思った私




とにかく一つ一つの食材のカロリーを調べます
そこから、大体何g使われているか予測します

調味料から計算します
大体の食材や調味料までの分量が分かったら
それをまとめて計算しました





これを毎食やっていて、気が狂うかと思ったし
既に気が狂っていたと思います
摂食障害の "絶対" の過剰に毒されていました


私は疲れを感じてイライラしていたのですが
客観的に「おかしい」と思って
もう辞めたらいいしカロリー見るだけ疲れるわ
と思って見るのを辞めました



測るのも、気にするのも、計算するのも
辞めたらとーっても楽だった



その分少し不安になる事もあったけれど
そんな事より
数字に過剰になる姿よりは健康的だと思いました





また、体重測定も病院の検査などで行いますが
先生や看護師さんに事前に
「私は体重を見たくありません」と伝えておきます



私は回復期の終わりまで体重は見ずに
回復期を過ごしました



なので、体重で目安や目標を定めるのではなく
ただ単に自分の心で回復を模索していきました


これをやって良かったと思う事は
標準体重に囚われることなく回復できた
そのお陰で体重に執着がなくなった事





回復期にカロリー計算/g数/体重測定 は不要
そう思います





4. 過剰は毒 "可視化"


こちらも経験談になります


私はダイエット期から
自分の体の写真を撮り続けていました


" 可視化 " です


(数字も可視化の一部ではありますね)



パッと見の比較ができるのって
写真だったりしませんか?

そう、体の比較として写真を撮っていました



摂食障害になり病気も重病化した辺りでは
少しの角度の違いに
不安になり、心を揺さぶられて、苦しくなった

「痩せなきゃ、痩せなきゃ、痩せなきゃ」




自分の体の写真を撮って眺めてそう思っている姿
まさに病的、過剰な毒。




他人の体の写真を見て同じ様に思う事も
重ねて過剰であり、毒であると思います

(それを発信する側も同様だと思います)




ただ、私はダイエット期から摂食障害の渦中
1番体重が低かった時
自分の写真や鏡に映る自分見て比較した時

怖い」「こんな姿は求めてなかった

と、客観視する事ができた瞬間があって
私は回復を決めたキッカケの一つになりました



それから写真を撮る事が癖になっていて
回復の当初は1週間毎に写真を撮っていましたが
段々と違和感を抱いて辞めるに至りました




次に可視化の対象(安心できるもの)として
" 食事記録 " を始めました



やっぱり目で見て安心できる何かを求めてしまう
一旦はこのフェーズが来るかもしれません


ただ、何度も繰り返しますが過剰は毒です



回復期初期は口にするもの全て写真を撮っていました


ですが撮ってどうする訳でもなくって
ただ、回復の記録として
こんなに食べられた私すごいよね
という気持ちに
私の感情を持っていった気がするんです



でも、それを毎食撮ってしまう事が
病的だったと感じます




写真で切り取らなくても
私が食べられた凄さは自分で感じられるようにしたい
誰に評価されるより
自分で自己評価できる練習をした方がいいと思います





私は今でも食事の写真は撮ったりします
ただ "目的が違う" 


贅沢や楽しみや思い出の記録として
食事を切り取って残しているだけで

「何を食べた」「これ食べた私」

そんな目的で撮っているのではありません



撮る意味に容姿や食への執着を重ねた時
それが過剰であり毒になると思います





୨ৎ 最後に ୨ৎ



過剰にさせているのは
摂食障害の症状の一つ

摂食障害というお化けが憑依して抱かせる感情

それは自分自身を責める事より
まずは距離を持って考えたい事



病気なのだから過剰になってしまって
となってしまっているから病気なんです


回復期はそれを手放す為の時間


そこにこれまでのマイルールや当たり前などは
要らないと思いませんか?



手放していく練習なのだから
何かに囚われる必要はないんだよ




そして他人と比較せず
自分や数字とも比較せず
ソウルのトキメキ



これを感じてあげられるようにしていきたいです



不安は二の次
辞める勇気を持って変わる世界を見る


そうやって
摂食障害や過剰さから距離を置いて
フリーになっていきましょう






私の good bye my rule でした