大阪城 大阪府大阪市 日本100名城 | くろかんのブログ

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令和5年11月25日に10年ぶりに行ってきました。前回は嫁と3歳くらいの長男と一緒でしたが、今回は1人でした。嫁と次男が大阪の鶴橋にコリアンタウンに行くと言うので、自分が車を出しました。真田幸村の真田丸とか豊臣秀頼を祀った神社、自刃の地とか豊臣時代の石垣とか見てきました。今の大阪城は徳川秀忠が作ったものの復元なんですが、以前中に入ったことあるし、観光客があほほど多かったので入りませんでした。豊臣家巡礼ツアーみたいになりました。以前書いた文書に今回新たに撮った写真を付け加えリニューアルしましたのでご覧ください。


明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。平成25年1月13日今年最初はおめでたい人が建てたお城ということで大阪城に行ってきました。家族3人で高速を使って行きました。

 

着いたらお昼だったので、まず売店でたこ焼き、うどんなど、これぞ大阪て食べ物で腹ごしらえしました。非常に寒かったんでうどんの汁が身にしみました。天守の中に入ると、外のほうが楽しかったのか、くずる息子を嫁に任せて展示物を見てきました。覚えてるものとしては、千石久秀の鎧、細川忠興の軍扇、秀吉の軍配、大阪の陣の屏風そして、なぜか南北朝時代の護良親王の刀がありました。ちょっと意外だったので見入ってしまいました。それにしても中国人、韓国人の観光客多かった。何度もカメラのシャッター押すの頼まれました。恥ずかしいけど、おきまりの「はいチーズ!」と言ってしまいました。あれ何で言ってしまうのかな~中国語では何て言うんやろ?あと城の周りをランニングしてる人も多かった。何か生活に溶け込んでる感じですね。この城のお堀はかなり立派です。江戸城に次ぐくらいの大きさやないかな~。
全然計画性はないですが、今年も色々と史跡、100名城を回ってみます!




天守


北西の外堀と櫓


北西の外堀の石垣 横矢かけ

 

大手門


鉄砲狭間


豊臣秀頼、淀殿自刃の地


石山本願寺推定地


ここは元々は、戦国時代末期から安土桃山時代初期に顕如が治めていた石山本願寺があったところですが、織田信長により制圧され、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)豊臣秀吉により大阪城が建てられました。

 

蓮如上人袈裟懸けの松
 
秀吉の死後、徳川家康により攻め滅ぼされて、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)に2代将軍秀忠により再建されて現在の形になっています。と言っても、昭和の戦時中に空襲被害を受けて城は焼け落ちたので、天守閣は戦後に建てられたものです。なので名古屋城同様中にはエレベーターがあります。大手門前には秀吉を祀った神社がありました。出世のご利益があるということなので一応お参りしておきました。
 
神社の豊臣秀吉像
 
日本の歴史上で秀吉のように先祖一族が武士ではない農民の一子息が一時は全国を統一したというような大出世はないのでないでしょうか。源頼朝にしろ、足利尊氏にしろ、織田信長にしろ、徳川家康にしろ先祖代々が武士で基盤もありました。秀吉は当然頭も良かったでしょうが、それに加え人望や世渡りのうまさや何と言っても信長の家臣になれたという運が大きいですね。まあでも晩年はおかしくなってしまって、家臣に領地を与えるためになのか、家臣の力を削ぎたいのか分かりませんが2度に渡る朝鮮出兵をやってます。秀吉時代には城の縄張り、外堀もそうとう広かったようです。どんな城だったんでしょうね。金の茶室を作るくらいの派手好きな秀吉なのでそりゃもう今の天守と比べると全然違った豪華な城だったのでしょう。NHK大河ドラマの「秀吉」はおもしろかったですね~竹中直人うまかったな~。もう一度見たい。


大阪城北西側にある豊臣時代の三の丸推定地

追手門学院小学校周囲に残る豊臣時代の石垣




発掘された豊臣時代の石垣をガラス越しに見れるのですが、反射して階段が写ってしまいます。






玉造稲荷神社に立つ豊臣秀頼像


胞衣塚大明神


豊臣秀頼奉納鳥居

阪神淡路大震災で基礎が損傷した


千利休顕彰碑


大阪冬の陣1614年


真田丸の位置


三光神社の真田幸村像


真田の抜け穴

真田丸と大阪城がこの抜け穴を通して繋がっていたとも言われている


真田丸跡は現在学校の敷地になっており今はかつての面影はない


真田丸跡近くに立つ心眼寺にある幸村の墓


真田丸再現CG(NHK歴史探偵VR大阪の陣真田VS徳川より引用)


真田丸再現CG


真田丸再現CG


御歌頭さんが書いた大阪城の墨城印


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