令和5年5月4日にゴールデンウィークを利用して帰省したので家族で行ってきました。
これまでは太宰府に行くのに何の気なしに通っていましたが、続100名城に選定されたことで改めて訪れました。
7世紀後半の朝鮮半島では国の存亡をかけた戦いがくり広げられていました。新羅(しらぎ)は唐と結んで百済(くだら)や高句麗(こうくり)を滅ぼしました。
当時の日本は百済を助けるために大軍を送りましたが、663年の白村江(はくそんこう)の戦いで新羅、唐の連合軍に敗れました。その後、ヤマト朝廷は、朝鮮半島に最も近い福岡平野に大野城や基肄城(きいじょう)を築き、防人(さきもり)が置かれる事態となりました。そのような中で西暦664 年に水城が築造されます。
水城大堤の石碑
東門礎石
下の図のようにここに東門の門柱と門扉が建っていたようです。
土塁
土塁には土と砂が整然と積み重ねられた層があり、版築工法で作られました。中国、韓国の古代土塁にも類似した例があり、技術の系譜がうかがえます。
このような形をしていたと考えられています。外濠、内濠もありました。
土塁の版築作業
水城土塁の断面図
東門木樋跡
とのことですが、草が生い茂って全く分かりません。下の写真のように導水のために造られた木製の通水管があったようです。
商業都市博多や古代の迎賓館である鴻臚館(こうろかん)と九州の政庁である太宰府をつなぐ官道の関門の役目を果たしました。
水城瓦窯跡
とのことですが、畑があるだけでよく分かりません。
水城の奈良、平安時代のようす
続日本100名城のスタンプは東門跡あたりにある水城館内に設置してあります。
続いて基肄城に向かいました。
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