佐賀城 佐賀県佐賀市 100名城 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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平成27年元旦に長男を連れて行ってきました。雪がひどく、三瀬峠が凍結してタイヤが対応できないだろうということで、迂回して車で行ったら2時間かかりました。佐賀が雪が積もってなくて良かった。

 

元は少弐氏の家臣であり、肥前の一国人に過ぎなかった龍造寺隆信は一代で北部九州を制圧し、九州3強の一角までのし上がったが、天正12年(1584年)沖田畷の戦いで有馬、島津連合軍に敗れ打ち取られた。その後、龍造寺家は断絶し、家老で隆信の義弟であった鍋島直茂が佐賀藩を接収した。

佐賀城は、もともと佐賀を治めていた龍造寺(りゅうぞうじ)氏の村中(むらなか)城を鍋島直茂(なおしげ)、勝茂(かつしげ)親子が拡張・整備したもので慶長16(1611)年に完成しました。


肥前佐賀の鍋島氏のお城です。龍造寺氏の家老からとって代わった鍋島氏ですが、明治期まで続いた名家です。とくに直正(かんそう)は開明派のお殿様で明治維新に大変貢献しており、薩摩、長州、土佐にならび肥前を押し上げたです。


鯱の門は明治時代の佐賀の乱の時、新政府軍の攻撃を受けた際の弾丸の跡が今でも残っています。


アームストロング砲は佐賀藩が欧米との貿易により手に入れたもの。戊辰戦争時に旧幕府兵が立て籠る江戸、上野の寛永寺を攻撃する際に用いられ、その射程の長さと着弾の正確さから大いに活躍しました。


佐賀藩は欧米の技術者を呼び、このような鋳造所を建て、大砲や銃などの兵器や軍艦までも作っていた。


佐賀藩の作った蒸気船。


復元本丸史料館の外観

 

佐賀城縄張り図


佐賀藩出身の大隈重信は新政府で活躍。大久保利通の信頼があつかった。後に総理大臣になった。早稲田大学の創始者でもある。


江藤新平は明治政府初の司法卿。征韓論論争では賛成派で西郷をおすなどして、大久保利通とは意見が合わなかった。大久保にはめられた形で佐賀の乱の首謀者と見なされ、逮捕され斬首された。この時自分が欧米から採用した写真による指名手配制度で日本史上初の逮捕者がまさかの自分であるという大失態を犯した。

この日たまたま歴史史料館ないで新春の凧作りが開催されており、息子とやりました。外で遊んだのですが、強風で思った以上に凧が上がってくれました。息子も楽しんでくれて、帰省の思い出が出来て良かったです。