和歌山城 和歌山県和歌山市 100名城 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

行った史跡や読んだ小説をご紹介

昨日平成26年7月13日と今日14日で、和歌山に家族旅行に行ってきました。京都から阪和道を使って3時間くらいでした。現在の和歌山城は太平洋戦争時に焼け落ちたものを、コンクリートで復旧したものです。徳川時代の形のもので、御三家の一つ紀伊徳川家の居城である。


中世後期の和歌山平野では、雑賀衆と呼ばれる地縁的共同体が自治をおこない、戦国大名は生まれなかった。彼らは海運や漁業、農業などにたずさわりながら、鉄砲などの武器を使いこなし、傭兵としても活躍した。

天正13年(1585)、紀州を平定した羽柴秀吉は、弟の秀長に命じて紀ノ川河口部の「岡山」(現在の虎伏山)に城を築かせた。これが和歌山城の始まりである。藤堂高虎が普請奉行を勤めた最初の近世城郭です。その後、秀長は郡山城(奈良県大和郡山市)に移り、家臣の桑山重晴が和歌山城代となる。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が37万6千石で紀伊に入国し、和歌山城主となる。浅野氏は連立式天守を建て、現在の本丸・二の丸・西の丸に屋敷を造営。大手門を岡口門から一の橋の方面に移し、本町通りを大手筋として城下町を整備した。

元和5年(1619)、徳川家康の10男頼宣が55万5千石を拝領し、紀州藩が成立する。頼宣は二の丸を西に広げ、砂の丸・南の丸を新たに造成した。紀州徳川家は、尾張・水戸とともに「御三家」と呼ばれ、8代将軍吉宗、14代将軍家茂を輩出した。


連立式天守閣


天守閣の入口


二之御門櫓


天守閣

紀伊徳川家家臣の鎧

 



信長、秀吉に徹底交戦した雑賀集が使用していた鉄砲


紀伊徳川家に伝わる陣羽織


天守閣最上階からは和歌山市内の町並みと海に注ぐ紀ノ川、天気がよければ遠くに淡路島が見えるそうです。


本丸跡はなんと給水場になっており、立ち入り禁止でした。残念。

野面積みの石垣は豊臣時代のもの

 

和歌山城 縄張り図


これで関西の100名城は兵庫県の竹田城を残すのみになりました。この後、再び高速に乗り、白浜まで行き、白良浜を次男坊と散歩しました。時間も遅くギャルたちは少なかったです(*_*)お宿はホテル三楽荘さんに取りまして、美味しい海の幸を満喫しました。翌日はアドベンチャーワールドで子供たちと遊んで帰りました。いや~子供たちの喜ぶ顔も見れて良かった良かった♪


御歌頭さんが書いた和歌山城の墨城印


御城印合戦で購入した御城印