平成25年8月29日帰省して、家族と両親で呼子旅行のついでに行ってきました。イカの刺身で有名な佐賀県唐津市呼子町からは眼と鼻の先です。8月も終盤だというのにまだまだすごい暑かったので、嫁と息子と母は佐賀県立名護屋城博物館で待ってもらって、父と2人で散策してきました。
以下は名護屋城博物館の展示物です。
城復元模型。5層の天守閣を持っていた。
各部将の陣屋配置図
蔚山城で朝鮮、明連合軍に包囲される秀吉軍
朝鮮に築いた倭城の分布図。今でも倭城址は残っている。
朝鮮渡海に用いられた安宅舟の模型
ここは豊臣秀吉が晩年に2度の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をしたときの拠点となった城です。天下統一を終えて、すごい兵数で攻め込んだということもあり、この城の周りには130以上にのぼる名だたる武将の陣屋跡があったということです。そのほとんどが発掘されており、実際に見に行きたかったのですが、とても1日や2日で見て回れるものではないので今回は断念しました。城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇りました。全国から20万人を超える人々が集ったとされ、京都にも並ぶ大都市だったそうです。
朝鮮出兵は1592(文禄元)年の開戦から秀吉が死ぬまで7年間行われた。それにしても、これまで読んだ本で予想するに、この朝鮮出兵の目的は家臣に与える領地が無いために行っただとか、元々農民で血縁のある旗本家臣団がいない秀吉にとって脅威となる部将の経済力をすり減らすためだとか言われており、本当に大儀の無いものでした。それに付き合った部将達も、ましてや巻き込まれた朝鮮の人たちもたまったものではないですよね。秀吉の死後は、石田三成を中心とする文治派と加藤清正、福島正則などの武断派を取り込んだ徳川家康との間で関が原の戦いへと繋がって行きます。
本丸から北を望めば壱岐対馬が見える
東出丸櫓跡
再現CG(関口宏の一番新しい中世史より)
文禄の役は全9軍で攻めた。
8人の武将で各地域ごと分けて統治することを目論んだが・・・
第一軍の小西行長と第二軍の加藤清正は快進撃を続けた
イスンシンによる水軍に日本軍の安宅船はことごとく沈められた。
平坦が伸び切った日本軍に朝鮮の義勇兵や水軍たちはだかり戦線が膠着し講和へと向かう。
講和が決裂し、慶長の役が始まることになる。今回も全9軍で攻めることになった。派兵の目的は唐入りではなく、朝鮮南部の制覇ということであった。最初のうちは善戦していたものの、秀吉の死により全軍撤退することになった。