御着城祉と妻鹿城址 兵庫県姫路市 | 細川竜太郎(旧くろかん)のブログ

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平成26年1月20日長男と兵庫県姫路市に高速を使って行ってきました。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にちなんだ場所を訪れました。


後に豊臣秀吉の軍師となる黒田官兵衛孝高(よしたか)は元は播磨の小領主小寺政職(まさもと)に仕える家臣でした。若き頃政職に認められ小寺性までもらっています。当時の播磨は西からの勢力毛利家に着くか、東からの大勢力織田家に着くかで家中がもめていました。官兵衛は織田信長の将来性にいち早く気付き小寺家が織田家に着くよう薦めます。そして当時黒田家の本拠としていた姫路城(現在の城ほど大きなものではない)を信長の中国方面担当武将木下藤吉郎秀吉に早々に譲ったと言われます。そうして秀吉との仲が深まっていくことになります。信長を裏切った荒木村重を説得しに行くことを願い出た官兵衛は、説得に失敗し逆に有岡城の土牢で監禁されてしまいます。(この時なかなか戻らないことから味方であるはずの信長からも裏切りを疑われ、人質であった長男長政も危ない目に会いますが竹中半兵衛の機転で難を逃れます)荒木、別所の影響で毛利側に寝返りたい小寺政職は村重に官兵衛を殺すよう手紙を送ったと言われます。結局村重は信長に攻められ、有岡城は落城、村重は落ち延びます。この時、官兵衛は家臣の栗山善助や母里太兵衛らに救い出されます。官兵衛は長い間狭い所で監禁された影響で足が不自由になり、髪は肌の病で抜け落ちてしまいます。官兵衛は有馬温泉でしばらく療養した後、別所氏の三木城攻め在陣中に病没した竹中半兵衛に代わって秀吉の軍師としての経歴をスタートすることになるのです。

 


御着城本丸跡地に建つ姫路東出張所
御着城本丸跡地

 

市の庁舎が城のような外観になっています。御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。1519年(永正16年)に小寺政隆(まさたか)が築城したと言われる。1579年(天正7年)に羽柴秀吉に攻められて落城し、城割が行われ廃城となった。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。


黒田官兵衛顕彰碑

黒田官兵衛顕彰碑(御着)


官兵衛に関する史跡にはこのご当地キャラクター「かんべえ君」の旗が立ってるようです(御着)

 

御着城縄張り図(姫路市)

 

妻鹿城の址です。「甲山城」、「国府山城(こうやまじょう)」ともいわれる。この城は鎌倉時代末期から南北朝時代に、妻鹿孫三郎長宗(めがまごさぶろうながむね)が築城したと伝えられています。1580年頃姫路を秀吉に譲った後の黒田氏の居城です。この近くに官兵衛の父、黒田職隆(もとたか)の廟や母里太兵衛生誕地があります。

 

妻鹿城縄張り図(姫路市)

 

現在の灘菊酒造さんあたりで黒田家筆頭家老になる栗山善助屋敷跡がありました。姫路城にとても近いです。

 

灘菊酒造で黒田家の家紋が入ったおちょこととっくり、酒粕を買いました。今夜は以前買った日本酒山田錦の熱燗で温まります。

  

御師が広い範囲で活動していたという廣峯神社です。姫路城から北側の山の上にありました。ここからは姫路の町が一望できました。官兵衛の祖父、黒田重隆(しげたか)は御師の配るお札と一緒に秘伝の目薬を売ってもらい財を築いたとの事。その財を低金利で農民に貸し、その代わり黒田家に家来として雇うことにしました。300名ほどを抱えた重隆は御着の小寺氏に仕官することが出来ました。

 

 

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黒田官兵衛を主人公としたお話しです。題名だけ聞くと相撲取りのお話しみたいですね(゜o゜)