今、新幹線の中です。
今日は自分のテニスにとって、本当に大切な人にお別れをしてきました。
このお店が開店したのは1995年でした。その年、私は前の職場に着任して2年目となった時です。
それまで私は東京都の教員を9年間勤め、10年目から国立の附属学校へ移りました。その学校では20年間勤めることになりました。
私の大学でバレーボールをしており、その後、教員になってからも東京教員チームとして活動を継続し試合にも出続け、教員選手権やクラブカップ選手権では日本一も経験できました。36歳までは試合にも出続けましたが、そこで半月板損傷で思い切りジャンプができなくなり、競技としてのバレーボールはやめました。
20年勤めた学校に移動した時には、テニスのベテラン大会にはまだ参戦していませんでしたが、区民大会には出ていました。
テニスはど素人ながらサーブとスマッシュは結構打てて、区民大会でも優勝したりすると競技としてのテニスにどんどんハマっていきました。
そして20年勤めた学校の2年目にこのお店が、その学校の近くにあることを知りお店に寄って、自分のラケットのテニスガットを張ってもらい今に至っています。
その後、2年くらいして35歳以上の最後の年に東京オープンに出たのが自分のベテランテニスのデビュー戦でした。
このお店のオープンと自分のテニス歴の始まりはほぼ同時期ということで、ずっと自分のガットをその方に張り続けてきてもらったわけです。
もちろん大阪に来てからも宅配便でラケットを送り、そして張って送り返してもらって張り続けてもらい、約22年間ずっと自分のガットを張り続けてもらいました。
ガットの張り替えだけではなく、自分の試合のことや技術のこと、いろいろなお話しを当たり前のようにしてきました。
自分にとって、本当に当たり前になっていました。
本当は有り難いこともたくさんしてもらってきたのですが、本当に当たり前のようにお付き合いさせてもらってきました。
今日はしっかりとこれまでのお礼、そして最後のご挨拶をしてきました。ありがとうございました。
ダブルラインの小杉さんに出会えたど素人は、いつなれるかはわかりませんが、オヤジテニスで日本一を目指していきます。
今日は自分のテニスにとって、本当に大切な人にお別れをしてきました。
このお店が開店したのは1995年でした。その年、私は前の職場に着任して2年目となった時です。
それまで私は東京都の教員を9年間勤め、10年目から国立の附属学校へ移りました。その学校では20年間勤めることになりました。
私の大学でバレーボールをしており、その後、教員になってからも東京教員チームとして活動を継続し試合にも出続け、教員選手権やクラブカップ選手権では日本一も経験できました。36歳までは試合にも出続けましたが、そこで半月板損傷で思い切りジャンプができなくなり、競技としてのバレーボールはやめました。
20年勤めた学校に移動した時には、テニスのベテラン大会にはまだ参戦していませんでしたが、区民大会には出ていました。
テニスはど素人ながらサーブとスマッシュは結構打てて、区民大会でも優勝したりすると競技としてのテニスにどんどんハマっていきました。
そして20年勤めた学校の2年目にこのお店が、その学校の近くにあることを知りお店に寄って、自分のラケットのテニスガットを張ってもらい今に至っています。
その後、2年くらいして35歳以上の最後の年に東京オープンに出たのが自分のベテランテニスのデビュー戦でした。
このお店のオープンと自分のテニス歴の始まりはほぼ同時期ということで、ずっと自分のガットをその方に張り続けてきてもらったわけです。
もちろん大阪に来てからも宅配便でラケットを送り、そして張って送り返してもらって張り続けてもらい、約22年間ずっと自分のガットを張り続けてもらいました。
ガットの張り替えだけではなく、自分の試合のことや技術のこと、いろいろなお話しを当たり前のようにしてきました。
自分にとって、本当に当たり前になっていました。
本当は有り難いこともたくさんしてもらってきたのですが、本当に当たり前のようにお付き合いさせてもらってきました。
今日はしっかりとこれまでのお礼、そして最後のご挨拶をしてきました。ありがとうございました。
ダブルラインの小杉さんに出会えたど素人は、いつなれるかはわかりませんが、オヤジテニスで日本一を目指していきます。