こんにちは。
また1週間くらい空いてしまったような…
薬疹はほぼ治りましたが、体調がすぐれず…
寝ている時間が多いです。
家にいるとやる事が多いので辛いです。
さて、これは半月前から書きたかった内容です。
書かなかったのは、楽しい投稿に埋もれてしまっては意味がないように思えたからです。
なんでもオーストラリアから輸入している石炭より、釧路コールマインで産出される石炭の方が安くなってしまったとか。
そうしたところ、SNS界隈で産炭地の生活がぶつぶつ呟かれていました。
ざっくりいうと。
・給料は一般サラリーマンの3倍もらっていた。
・社宅は公共料金は無料だった。
・田舎なのに映画館や娯楽施設が札幌より充実していた。
・ドカンといったらおしまい。
そんな感じなのですが、
それに不満なワープア層が、
そんな後ろ暗いブラックで働くブツなんて低賃金で買い叩いてやれば良かったのに。
という声をあげてなんだか支持されたり…
てかそれで良いわけ?
今の待遇がおかしいと気がついて団体交渉権でも行使した方がいいのに。
…あ、非正規だから解雇になるだけだね。
もっと条件のいいところで働いてください。
非正規なんていっぱいありますから。(自戒)
と、いう訳で本当に産炭地に18年間住み、炭鉱マン(本社採用…通称「本務員さん」)の娘アドが見たことあった事を書きます。
私の父が勤めていたのは、太平洋炭礦株式会社釧路鉱業所です。
父は二部ですが、大卒なのであまり坑道に入るお仕事ではありませんでした。
高校も定時制です。
何故入社したのかは、教採の合格発表より数日内定が早かったからです。
ちなみに当時の釧路の教員はそういう感じの人が結構な割合でいて、先に教採の内定が来た人は教員になったようです。
郵便事情か合格順でしょうね…
父は教員も炭鉱もコネが使えた感じですが、どうしたのかは知りません。
さて、ヤマの生活ですが、すんごい豊かでした。
釧路は特にヤマが郊外にあるわけでも無く、市街地にあり車通勤の人は釧路一円から通っていました。
まぁ、会社が近い私の実家があるあたりには多くの従業員と家族が住んでいたのでそんな感じのコミュニティでした。
小さい頃は社宅に住んでいました。
私が3歳までは父もまだ平社員に毛が生えた程度なので風呂無しのハーモニカ社宅に住んでいました。
ニコイチの長屋です。
毎日、ぐるっと300mくらい歩いて炭鉱の従業員専用の銭湯へ行きます。
母と行くと歩かされて嫌なのですが、父と行くとおんぶしてくれるし、お風呂の後森永の棒アイスを買ってくれるので好きでした。
妹が生まれる直前にお風呂のある社宅へ引越しましたが、お風呂にはわらじ虫が出て私が嫌がるので、ムトーハップを入れていました。
わらじ虫分かりにくくなるよね。
そこに小2の夏まで住みました。
私のプライベートはそんな感じですが、皆さんがどんなに豊かだったかといえば、洋品店がたくさんあっていつもお客さんがいっぱいだった事。
飲食店もいっぱいあって、盛況だった事。
呟くやつに書かれていた映画館の件はありませんでした。
何故なら社員の家庭は昭和38年にテレビの設置率が100%を超えてしまったので、炭鉱経営の映画館は順次閉館したからです。
私が高校生の頃までは、中学の学区にはまだまだ沢山の炭住が残っていました。
ハーモニカ長屋はギリギリ昭和で更地にしていましたが、二階建ての望洋台なんかは2000年位まで使っていたようです。
中は建築当時(昭和30年代前半?)より部屋を広くするために「改造住宅」といってリフォームされ、綺麗で広い間取りでした。
紐を引っ張るタイプの水洗トイレが結果的に二つある感じになっていましたが…
あとは「5階建て」と言われていた多摩ニュータウンタイプの社宅もありました。
社宅を更地にして分譲した土地は社員には格安で販売しました。
実家もそんなところに建っています。
おおよそ一区画70坪で販売したのでみんな大きい家です。
とりあえず社宅は自分で引く電話料金を除けば全部無料です。
参考までに、持ち家になっても石炭を燃料として使用する場合、一回配送に付き980円(私が高校生の頃)でした。1トンでも2トンでも980円です。
うちは1トンの石炭箱がありました。
給料もいいのに、この辺り全部無料は美味しいですよね。
毎日朝からジンギスカン食べている家がよくありました。
…それは3交代制なので、朝ごはんがディナーの人がいるからです。
1番方は朝から
2番方は正午から
3番方は夜から入坑です。
時間が正確に書けないのは、父は私が小1の時に常1番(要するに坑内勤務ではなくなり日勤になった)になった事に加え、管理職になったので他所の人より早く出勤するからです。
朝は5時半頃自転車で出勤していました。
帰りは17時半頃です。
21時に寝る感じかな。
退職まで部署は何回か変わっていますがおおよそこのスタイルでした。
書きたいことを書いているので全然全容が分かりませんね…
一昨年書いたブログに「運動会で寿司の出前を頼む」のは炭鉱マンの家ですね。
お寿司屋さんは大忙しでした。
桶何個もバイクやクルマに乗せて、校門で名前呼びまくっていました。
携帯なんてなかった時代だから待ち合わせなのでしょう。
炭鉱は福利厚生もそこそこ充実していました。
レジャー施設の「太平洋スカイランド」もあったし、弟子屈町の川湯温泉には「保養所」があったし。
拾い画像に加えて解体直前の写真しか見つけられなかった「太平洋スカイランド」です。
中は螺旋状のスロープでした。
一階は水面の水の色がライトアップされてかわる噴水がありました。
そして私が一回やりたかった「大人のガチャガチャ」があったのです。
昭和50年前後の話なのですが、500円くらいだったのでしょうか…
今の1000円ガチャくらいの大きさで、中身(本当か???)のディスプレイとして、かまぼこの指環とか、ネクタイピン、カフスとか万年筆、弾丸型のキーホルダーがありました。
…どうせ温めると脱げるスケベボールペンしか入ってないと、後年思っていました。
2階は食堂とプールとお風呂とゲーセンがありました。
もしかしたらゲーセンは3階に本格的なコーナーがあったかもしれません。
別階段でしか行けない感じです。
中学時代は同級生がよく補導されていました。
やり過ぎなんだよ!
お風呂やプールへ行く途中にお子様ゲームがありました。
小さい頃、パチンコゲームをして景品に「ウインターキャラメル」をもらいました。
Wikipediaには「ボンタン飴」と書いてありますが、スカイランドはウインターキャラメルです!
違う時も別種類のフルタのキャラメルシリーズでした。
温水プールは勿論、石炭ボイラーです。
12.5mのプールと浅くて丸い子ども用プールがあり、採暖室がありました。
私が通った小学校にはプールがなかったので、このプールと市のスポーツセンターでプール学習がありました。
どちらも更衣室が異臭で嫌でした。
時代ですね。
…でもこのプールはずっとものcocoちゃんのお父さんが先述のレストランで働いていたのでいつも無料で入っていました。
cocoちゃんのお父様は当時太平洋クラブ(会社が接待する料理部門)の板長だったので、普段の日はこちらの食堂で働いていました。
和食、洋食、中華もある定食屋スタイルの食堂でしたがカツカレーも美味しかったです。
お風呂は当時人気のジャングル風呂でした。
これは炭鉱の社員及びその家族が入るのは無料だったようです。
無料でしか入った事ありませんが。
cocoちゃんとは他にもまだ残っていた社員専用大浴場も自転車で入りに行っていました。
5年生の頃全廃したのかな…
後、スカイランドにはジンギスカン場→焼肉店。
1回目の教育実習の慰労会はここで焼肉でした。
結構長い間営業していたのですね。
スカイボールというボーリング場と後に市に移管された青雲台体育館がありました。
修学旅行御用達のホテルもあったし。
と、思い出す事をツラツラ書いているだけで、
そのうちまとめて一項目ずつ書きたいとは思っています。
さて、大切な事!
炭鉱マンは弱みを握られた後ろ暗いスキルの無い人が働くところでしょうか?
違います。
産炭地では本務員で炭鉱に勤務する事は憧れなのです。
給料も福利厚生も充実しているし、8時間労働にはカラクリがあるし。
そして太平洋炭鉱は「東洋一安全な炭鉱」と言われていました。
小学校の時も中学校の時も男子の一番憧れの職業は「炭鉱マン」でした。
親が不自由無く育ててくれた事がよく分かりますね。
結局私が高校を卒業した年度が最後の高卒採用で、同じ中学からは一人採用されただけでした。
彼がその後転職したのか今もコールマインにいるかは分かりません。
父の部下の部下だったので聞けば分かりそうですが、聞いていません。
私は自分が本務員の子どもだし、周囲もそうだったので下請けの人たちがどうだったのかは分かりません。
高校のクラスメイトで唯一名前を覚えられなかった男子は下請け会社の社長の息子でした。
消費する一家もいれば、うちのように大学進学に大枚を叩く家もあったり豊かな経済は私達に恩恵をもたらしました。
でもね、北炭夕張新鉱のガス突出事故の時はみんな落ち込んだんだよ。
慰問の手紙も書いたしね。
ずっと泣いている子もいたよ。
本当は怖いところだったのかもしれません。
うちに学研の「学習」と「科学」と配達してくれていた(副業ですね。)息子を旭医に入れたおじさんは、落盤で脚が若干不自由になったし、同級生の高専に行った子のお父さんも落盤で足の親指を潰したしね…
小さい事故はいっぱいあった。
でも、いつも明るい雰囲気でお祭りも社員運動会も行事全般盛大で潤沢な雰囲気だったよ。
そんなこんなです。