関西には大東亜戦争後の荒っぽい気風をそのまま受け継いだ大学應援團が多く、親衛隊という物騒な名前の下部組織を抱える團が多かったのですが、物騒なのは名称だけではない事は歴史が物語っております。小勢力であった我が團でさえ昭和30年前後には武装親衛隊を保持しておりましたので、後は推して知るべしでありましょう。昭和50年代でもその気風はまだまだ残っていた訳でありまして、誤解を恐れず申せば関関同立はそういう團風から一線を画す團を志向していた訳であります。昭和50年には関西四私立大学応援団連盟を発足させております。
そんな関関同立の思惑と逆行する様な関西大学の連盟加入は今もって不可解であると言えましょう。関西大学應援團もかつては親衛隊、指揮部(リーダーという横文字を嫌ったと伝えられています)の二部構成で武闘派として鳴らした時期がございますが、既に関関同立による連盟の加盟校でもあった訳であり、何故、團風が異なる関西学生應援團連盟に加盟したのかは今となっては正確な事は分かりませんが、当時は硬式野球では大阪商業大学、近畿大学とは同じリーグで戦っていた間柄であったり、おそらくは團員同士の交流が盛んで應援團業界に対する危機感を共有していたのではないでしょうか。
【関西大学應援團(昭和56年)】
関西應援團業界では長い間、大阪商業大学と近畿大学の二強体制が続いておりました。共に東大阪市に本拠を構える両校は、両雄並び立たずの格言通り、極めてデリケートな関係であったと思われます。以前も紹介させて頂いた乱舞祭での清酒贈呈式での後先を巡っては主催校は気を遣っていたものであります。それまでの関西での應援團連盟構想が頓挫したのも、この2校間の調整を図る事の困難さが要因の一つとして挙げられます。
その両校の当時の團員同士の関係性が良好であった事が関西学生應援團連盟結成の大きな原動力になったと考えられます。【以下次稿】
【大阪商業大学應援團(昭和56年)】
【近畿大学應援團本部(昭和56年)】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会