関西学生應援團連盟【8】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

当時の大阪の大学応援団業界の情勢としては、再三こちらで取り上げている様に大阪を舞台とした映画「嗚呼!花の応援団」が昭和51年に上映された事により注目を浴びておりました。ところがその前後より凋落の傾向が見受けられ、例えば昭和50年には阪南大学應援團が解散しております。また関西学生應援團連盟結成の昭和55年時点で「嗚呼!花の応援団」の出演校であった大阪経済法科大学應援團の存在が確認出来ておりません。

【阪南大学應援團解散の新聞記事(昭和50年11月5日 朝日新聞)】


それ以前の基本的な認識として、大学での応援団の存在は、野球部やサッカー部等と同様「あって当然」の存在でありまして、今日の様な絶滅危惧種の如き状況を呈する事など予想だに出来なかったのであります。その時々の人数の増減等、小さな変化があるのは止むを得ないにせよ、応援団が存続し得ない事態という事が実感として理解出来ていない時代だったのでありましょう。

ところがかつては百花繚乱とも言える状態であった関西の応援団業界に先に触れた様な事象が発生し暗雲が立ち込めて参りました。その流れに抗うかの様に誕生したのが関西学生應援團連盟であった訳であります。

 

当時の在阪の交流がある大学同士で結成されたと思われる関西学生應援團連盟でありますが、特筆すべきは関関同立の一角を担う関西大学が加盟している点でありましょう。これまで触れてきた様に関西の大学野球は関関同立という名門のエゴが関西大学野球連合を解体に追い込んだと言える訳でありますが、応援団の方も次第に関関同立という四校の括りをより鮮明に打ち出し、首都圏における東京六大学の関西版を志向していたと思われます。その中、関西大学の関西應援團連盟加入は当時の業界関係者を驚かせました。【以下次稿】

 

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