幻の初代團バッジについて、これまで幾度か取り上げて参りました。
4.團バッジ
もはや捜索は不可能と思われておりましが、全く同じものではないにせよ、ほぼ同じ物が見つかりましたのでご紹介申し上げたいと思います。
以前もご紹介させて頂いた様に、初代モデルは團バッジとして制作された訳ではなく、團バッジを制定する必要に迫られ、考えれる可能性の中で最善の方法として、既存の別団体のバッジを流用した、という経緯がございます。よって別団体のバッジがオリジナルという訳でありまして、こちらの方は巷には数少ないながらも残っているのであります。
我が團の実質的な創團者であり二代目團長である本多孝雄先輩がこのバッジを制定された訳ですが、本多團長の伯父にあたる本多仁介翁が率いる本多会、大神倉庫、本多土建工業の代紋・社章として使用されていた紋をそのまま使用させて頂いておりました。
ただ当時、本多会だけでも四千人程の会員を抱える巨大組織でありましたので、自身の所属が分かる様にバッジの中に名前や組織名を入れたりとアレンジされたものが作られておりました。
今回、御紹介するのはこのアレンジされたものとなります。よって出所が分かってしまうので、一部、画像を加工してご紹介させて頂きますので、ご了承頂きたく存じます。
本多團長率いる甲南大學應援團が本多の本を字を象った、自身の実家の紋を付けていた訳ですから、全国的に見ても極めて特異な例と言えましょう。
よって当時の我が應援團の服装は下記の様になります。
当時、大学生は普段から制服を着用し、学帽を被る姿が一般的でありましたが、逆に当時の我が團は野暮ったいとばかりに学帽も被らず、宴席の際などはスーツ姿になったりと異色の存在だった様であります。
これで歴代の團バッジで不明なのは2代目モデルのみとなりました。我が團の歴史の中で、唯一、腰の辺りに付けるタイプのものでありますが、團員数が多い時代だったので、数はそれなりに製造された筈なのですが、未だに見つかっておりません。お持ちの会員の方がいらっしゃいましたら、ご一報頂きたくお願い申し上げる次第でございます。
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会